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愛の力#3

 三日後の土曜日にハイドが退院した。あれから強請り屋からの連絡はない、とアイザックが電報をよこしていた。  その足で、ハイドとウィルクスはランガムホテルの一室で開かれる占いの講義に参加するため、リージェント街に向かった。リージェント街は煌びやかな繁華街で、ランガムホテルはヨーロッパ随一の絢爛豪華なホテルとして有名だった。優雅な城塞のような見た目だ。ウィルクスにとっては、暴力的な気品と高級感だった。ハイドはドアマンに扉を開けてもらってさっさと入っていく。ウィルクスもあとに続いた。付け髭を撫でてちゃんとくっついているか確かめ、眼鏡の位置を直す。  ハイドは変装していなかった。シンシアの言葉は宣戦布告である、と受け止めていた。  二人が会場に入ると、メンバーの一人が目を丸くした。ハイドの姿に、上から下にと走った視線が「大きな人ね」と言っている。ハイドはウィルクスと二センチしか違わないが、みんなの目には並外れてそう見えるらしい。ウィルクスが紹介した。 「こちらは、シドニー・C・ハイドさんです。ぼくの占いの先生なんです」 「まあ! ハイドさんって、あのハイドさん? 『〈アダムスの占い〉を読み解く』を書かれた?」  問いかける目が輝いている。食いつきそうな勢いだ。ハイドは愛想よく微笑んだ。 「そうです、マダム。グレイ君は優秀ですか?」 「それはもう。あなたの手ほどきがあったなんてすごいわ」  シンシアがそばにいた。二人を見つめる。 「お席をご用意しておきました。お二人とも、わたしの隣へどうぞ」  室内は広く、濃いグリーンのカーテンの前に、演壇が設けられていた。その前には椅子が四十脚ほど並んでいた。満席らしい。見れば、裕福そうな人間が多い。道楽にしているのだろう。女たちは華やかなドレスで着飾り、男たちはメモをとれるように、膝の上にノートを広げている。みんな目が輝いて、正面の演壇を見つめている。オクスブリッジの学生も顔負けだ。  講演会がはじまった。主催者が前口上を述べ、ざわめきが静かになった。ハイドとウィルクスはちょうど中央の席に並んで腰を下ろし、講師の登場を待っていた。  そして現れた男を見て、ウィルクスはぎくっとした。ハイドが吊るされた夜、火を借りたいと言ってきた男だ。  今は帽子をかぶっておらず、金色の巻き毛がシャンデリアの明かりに輝いている。菫色の目は微笑みに細められていた。主催者が紹介する。 「ラング先生です。先生は占星術を研究されており、ご専門は天文学です。論文はいくつかありまして、占いに関係があるものを紹介いたしますと……」  主催者が説明しているあいだ、会場は水を打ったように静まり返っていた。 「ラングか。知らないな」  ハイドがつぶやくと、ウィルクスが耳打ちした。 「あの男です。おれが付け髭だって知っていた男は」  ハイドの目つきが鋭くなる。その目に一瞬見惚れたものの、ウィルクスはすぐに現実に帰ってきた。刑事の意地で、欲情を押し殺す。  ラングが話している内容は、ウィルクスにはちっともわからなかったが、聴衆はみんなうなずきながら聞いている。ときおり、感嘆の深いため息が聞こえてきた。隣を見てみると、ハイドも真剣に話を聞いているらしい。うなずきながら、講義の内容をノートにメモしている。  まさか、ほんとにただの占い師、とか?  そう思いながら、ウィルクスはよどみなく話す青年の姿を観察した。ラングの声は意外に低く、美しかった。シンシアは黙って講師を見ていた。  講義が終わると拍手が会場を包んだ。ハイドがそっと腰を上げる。 「ラング先生に質問があるから、ちょっと行ってくる」  ラングはすでに何人もの参加者に周りを囲まれていた。しかし、疲れも嫌な顔も見せず笑顔で話しこんでいる。ウィルクスの腕に、シンシアが片手を乗せた。 「グレイさん。あなたと少しお話がしたいの。来てくださる?」  そう言って隣にある、講師の控室に案内した。部屋は狭く、衣装を吊るす化粧部屋を改装したものらしい。立ったまま、シンシアが言った。 「あなたは髭がないほうが素敵に見えるわ」  ウィルクスは黙って付け髭を取った。 「眼鏡は本物?」 「いや、目はいいんです」  眼鏡を外し、上着のポケットに入れる。そしてようやく、ガラスを通さずにシンシアの顔を見た。彼女は寂しそうに微笑んでいた。 「ハイドさんの同業者? それとも、警察の方?」  ウィルクスは答えなかった。 「わたしの交友関係を探るつもりだったんでしょう?」 「おれとハイドさんのこと、気づいてたんですね」  ウィルクスは質問はするが答えはしないという、刑事になってから身につけたいつものやり方で話を進めようとした。シンシアはうなずいた。スカートの裾を軽く握っている。 「『あの人』に言ったら、すぐに教えてくれたわ。これは罠だって」 「『あの人』とは?」 「ラング先生。でも、本名は違うの」 「あなたはあの男に利用されている。そうなんですね。手紙を奪われ、強請りに利用されているのでは?」 「あの人、わたしにひどいことをするわけじゃないんです」  シンシアの唇が白くなっていた。 「乱暴なんてしないし、いつも優しい言葉をかけてくれる。嫌なことはしないし。ただ、いっしょにいると虚無感を感じるだけ。生きる意欲が失われていってしまうだけ」  彼女は指先を見つめた。 「わたしのどこが気に入っているのかと訊いたら、笑顔がとてもいいって言ってくれた。聖母様みたいだねって。うれしかったわ。そんなこと、誰にも言われたことがなかったから。でも、喜んでいいのかあとで不安になった。あんな尊い方に例えられて喜ぶなんて、罪深いことだわ。わたしのうちは代々、ローマ・カトリックなんです。変わってるでしょ」  シンシアはだらだらとしゃべった。まるでこの時間を引きのばそうとしているように。守ってやらなければと、鋭い目でウィルクスは思った。だが、うまい説得の言葉が思いつかない。 「いっしょに、警察に行きましょう。あの男から自由になるんです。警察ならあなたを守れる」 「わたし、女性のほうが好きなんです」  間があった。 「そのことが『彼』にばれて、あのひとに従うようになったんです。恋人は国外に逃げました。わたしは残りました。『彼』はわたしを軽蔑しませんでした。へえ、そうなの、と言って、わたしが欲しいと微笑んだだけ」  シンシアは燃える目でウィルクスを見つめた。 「あなたも、『彼』からは逃げたほうがいい。今、心から愛している人がいるなら」  扉が開いて、ラングが姿を現した。うれしそうに笑う。 「帰ろうか、シンシア」  シンシアは男に歩み寄った。ウィルクスが一歩踏み出す。 「ハイドさん、そいつはラングじゃない」 「知ってるよ」  ラングの後ろでハイドの顔は鋭かった。 「さっき、本人から聞いた。彼はゴードン・ゴドフリーだ。二年前に誘拐事件に関係していたな。金が集められなくて、身代金をなかなか送れなかった両親のもとに、子どもの小指を送りつけた男」 「むごすぎる」  ウィルクスがつぶやくと、ゴドフリーはささやいた。 「天国に行くのに、指が全部そろっていなくても支障はないでしょう?」 「人でなしめ」 「そう、ぼくは人でなしだ。その事実に気がついているぶん、まだ救われる可能性がある」 「悔い改めなければ天国には行けないんだよ」 「悔い改めって、後悔のことですか? ぼくは後悔というものをしたことがないんだ」  ウィルクスの顔が険しさを増す。ゴドフリーは感心した顔だ。 「あなたみたいな良心的な刑事がヤードにいるとは驚きだ」 「おれは標準的だ。きみがおかしいんだ」 「そうかもしれない。でも、みんなと同じである必要はないだろう。神様はぼくたちをそれぞれ別個の魂と個性を持つものとしてお創りになられたのだからね」  シンシアの肩を抱き、「行こうか」と言った。  逃がすまいと扉に駆け寄るウィルクスに、ゴドフリーは言った。 「言ってあげてください、ハイドさん。むだだって。ぼくをぶち込んでも証拠不十分で一日で出てくるよ」 「残念ながら、その通りだ」  ハイドはそっとウィルクスの肩をつかんだ。 「ゴドフリーは拳銃を持っている。行かせるんだ」  恋人の手を取り、ゴドフリーは部屋を出ていった。  悔しさのあまり硬直するウィルクスの後ろで、ハイドが言った。 「エヴァンズとゴドフリーの背後にいる人間が誰かわかった。ホルロイドだ」  ホルロイド、とウィルクスがつぶやいた。

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