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愛されるのも悪くない#1
その日さっそく、ウィルクスはヤードの資料室でゴードン・ゴドフリーとホルロイドについて調べてみた。出てきた書類を見て、眉をひそめる。
「これだけ?」
〈ゴードン・ゴドフリー。男。一八七六年生まれでほぼ確定。髪の色、ブロンド。瞳の色、菫色。中背。ホルロイドの幹部。彼のもとで誘拐、殺人に関与しているふしはあるものの、確たる証拠がなく逮捕することができない。ただ単に「話を聞く」ことも不可能。ゴドフリーも多数の部下を使っているが、部下は俗に言う「使い捨て」で、この線からゴドフリーに迫ること、ほぼ不可能。
攻めようがない。(この部分にアンダーライン)〉
ヘインズ警視が知っているのではと、尋ねてみる。気乗りがしないようだった。それに、情報は資料室にあった紙きれ以上に出てこなかった。どうやら警視総監も内務大臣も、この件には深入りしてほしくないらしい。
翌日曜日。シンシア・ミドルトンがいなくなった。使用人のソニアが朝のお茶を持ってきたときには、すでに遅かった。ベッドには寝た形跡がなかった。シンシアは夜のうちに姿を消していた。
捜索願いが出された。ウィルクスはマクベイン事件と別の捜査で手いっぱいになりながらも、彼女の行方を捜した。テムズ川で女の溺死体があがると見に行った。死体の髪はブロンドだった。線路に飛び込み自殺があるとそれも見に行った。こちらは中年女だった。イースト・エンドのスラムでは顔がめちゃくちゃになった女の死体が発見された。痩せぎすの体で、上品で地味な身なりをしていた。イースト・エンドには似つかわしくない格好の死体が少しだけ話題になった。しかし、処女だったという理由で、ウィルクスはこの遺体がシンシアとは違うのでは、と考えた。だが、それもわからない。シンシアは今も処女かもしれない。
その一週間後だった。ウィルクスはハイドの事務所を訪れた。霧が出ている夜で、外を歩いていると息苦しくなる。ウィルクスは湿気をまとって現れた。マーゴットはもう帰っていたので、ホプキンスがお茶を淹れた。
「ミドルトンさんの行方を占ってもらいたいんです」
ウィルクスの顔はさらに痩せて、目が血走っている。テーブルにいつも使っているカードを広げた。
「おれでは占えなくて。占う相手が目の前にいないと、どうやっていいかわからないんです」
「そういうときは一人で占う形にすればいい。覚えておくといいよ」
「占いはわからない。この前も占いの会があったけど、行かなかった。彼女がいないなら、行っても意味はない」
「ミドルトンさんは、こんなに一生懸命になってもらってうれしいだろうね。きみは一途だな」
ハイドがカードをめくる。ウィルクスは手のひらに顔を埋めた。
「それがおれの欠点なんです。直したいけど直らなくて」
「ぼくは、一途な人間は好きだよ。それが欠点だとわかっている人間はなおのこと好きだ」
ウィルクスはうつむいていた。急に、言おうと思った。鎧が内側から壊れていく。もう、屈服するしかない。恐怖が昂ぶりすぎて、麻痺した。ハイドの顔を見つめた。
「ハイドさん。あの。好きです」
「うん」
また一枚、ハイドはカードをめくった。
「知ってる」
「やっぱり、そうでしたか」
「知ってるけど、でも、怖いんだ」
ウィルクスは口の中を噛んだ。むりやり笑顔をつくる。
「ごめんなさい。言うつもりじゃなかった。墓場まで持っていくつもりだった。でも、おれ、我慢できなくて」
血の涙を流しながら、笑っていた。
「あなたがおれの鎧を打ち砕くんです。飾らず、飄々として、ものに動じない。だれにでも親切で、優しくて、だからあなたが特別に愛する人になれたらどんなにすばらしいだろうと思ってきた。だってそれはほとんど不可能そうに見えるから。あなたを気持ち悪がらせて申し訳なく思っています。あなたの顔が見られるだけで、言葉を交わせるだけで幸せだった。いっしょに仕事をしながら、少しでもいい印象を持ってもらおうと努力してきました。前、『きみはいい警官だね』って言ってくれて、ありがとうございました。だから、あの、ありがとうございました」
一気にまくしたてる。自分がなにを言ったのかわかっていなかった。しかしその破綻した別れの挨拶のすみずみから、ウィルクスの思いは滲み出ていた。ハイドの顔を見ず、両手を差しだす。
「あなたへの思いを断ち切るために、よければ、握手させてください」
ハイドは黙って手を差しだした。ピアニストのように優美な大きな手を見つめ、ウィルクスはその手をぎゅっと握った。
「さよならハイドさん」
そうささやいたが、脳の奥は痺れていた。目の前の青い瞳を見つめると、世界が歪んだ。身を乗りだす。ウィルクスは唇に唇を押しあてた。長い二秒だった。顔を離すとき、ハイドが上唇をそっと噛んだ。ウィルクスの背骨にぴりぴりした痛みが走った。
そのとき悟った。自分の意志では、離れることは不可能だ。顔を逸らし、うなだれた。
ウィルクスの頬骨のあたりが染まっている。ハイドにとっては暗号だった。愛おしいという感情が胸に兆す。花びらがそっと開くのに似ていた。きっと庇護欲だろう。彼は可愛いから。だから戸惑わない。穏やかに声をかけた。
「ぼくもお別れを言う機会があってよかった。今日これから立って、しばらくロシアに行くんだ」
「ロシア? 英露関係が悪化してるのに?」
「どうしても断れない依頼が来てしまってね。相手はぼくの家の恩人なんだ。二か月は戻らないと思う。ミドルトンさんやゴドフリーの件を途中にしたままで申し訳ないんだが」
「凍死しちゃだめですよ」
ハイドはにっこり笑った。
「アイザックは、行くのはかまわない、強請り屋からの連絡は今のところなくなっているから、と言っていた」
アイザックさんは弟の能力を見くびっているんじゃないか、ウィルクスはそう思った。ハイドは飄々としている。
「アイザックはぼくにいてほしいはずだよ。いざとなったら命を投げうつ兵隊くらいに思っているだろうから」
「いくら名家の長男でも、あなたの命を軽んじる権利はない。おれはそう思いますが」
「きみのいいところがわからない人間ばかりなんて、不思議だ」
ウィルクスは唇の震えを無視した。ハイドさんにそのつもりはない。わかっているのに、うれしかった。胸が張り裂けそうだった。
一瞬の沈黙があった。ハイドは立ちあがると、ウィルクスの頭をちょっと撫でた。
「きみも風邪を引かないように。ちゃんと食べて、よく眠るんだよ。殉職しないように」
ウィルクスはうなずいた。
ハイドは最後のカードをめくると、言った。
「彼女は彼女なりの幸せを見つけるだろう。それはそう遠いことではないだろう」
やっぱり、占いはわからない。ウィルクスはそう思った。
そしてウィルクスは家に戻った。疲れていた。玄関の鍵を開け、部屋の中に入る。着替えるために寝室の扉をくぐろうとしたが、先に水を飲もうと思った。そのまままっすぐ短い廊下を歩き、つきあたりの扉を開けて食堂に足を踏み入れた。
モーゼルC96を構えて、ゴードン・ゴドフリーが固い木の椅子に腰を下ろしていた。
「ハロー、刑事さん」
天使の顔をした悪党はうれしそうに言った。
「両手を挙げて。頭の後ろで組んで。悪いけど立ったままでいてくださいね」
銃口が微動だにせず狙いをつけている。ウィルクスは手元に視線を走らせた。撃鉄が持ち上げられ、指はしっかり引き金に掛けられている。両手を挙げ、命じられたとおりに頭の後ろで組んだ。顔から血の気が引く。しかし激しくなる動悸に反して、心は落ち着いていた。ゴドフリーに会えた喜びすら感じた。悪党は首を傾げた。
「そんな怖い顔しないでください。にっこり笑って」
「笑わないと撃つのか?」
「楽しいことを言うね、刑事さん。いや。ぼくは鋭い目をしているあなたが好きだ。愕然としている表情はもっと好きだ。ただ、あなたはぼくの前では笑ったことがない。だから笑顔が見たいなと思っただけ。ねえ、ぼくとちょっとお話ししませんか」
「シンシア・ミドルトンをどうしたんだ?」
「お話ししようと言ったけれど、あなたが話していいとは言ってない」
ウィルクスは目の前の青年を睨みつけた。憎しみが血の中で湧き立つ。狙いをつけたまま、ゴドフリーは静かに言った。
「ハイドさんを吊るした件、すみませんでした。ぼくのボスが指示したんです。あなたもお気づきだと思いますが、マクベイン事件のことでボスは頭に血がのぼってましたので。そう急ぐ必要があるとは思えなかったんですがね。ファミリーが何度か危ない目に遭わされていたから、それもあって癪だったんでしょう」
「パブでハイドさんを襲った男もおまえたちの差し金か?」
「そうです。ぼくからハイドさんのお兄さんに電話して、命を差し出すように言ったりもしました。まあ当然ですが、死にませんでしたね。お兄さんが、脈があるみたいなことを言っていたからもしかしてとは思ったけど」
ゴドフリーの目がきらめいた。
「吊るしたから、あの探偵、死んだと思ったのに。あなたが助けたそうですね。すごいなあ。どうやったんです? あなたは霊能力者なんですか?」
ウィルクスは思わず本当のことを言った。
「ハイドさんがお別れを言いにきてくれたんだ」
「へえ。そいつはすごい。話には聞くけれど、ほんとうにあるんですね。それで、自分が今いる場所を教えて、吊るされそうだって伝えたんですか?」
「いいや。ぼくがいなくなってもがっかりしないように、と言っただけだ」
ゴドフリーは真面目な顔をして軽くうなずいた。
「なるほど。おもしろい人だ。……『アリス』が言ったんでしょう?」
ウィルクスはぎくっとした。反射的にゴドフリーを睨みつけると、青年はおもしろそうに笑った。
「あなたってわかりやすいですね、ウィルクスさん。どうしてあの探偵とのことが周りにばれないのかな」
「ばれて困るようなことはなにもないよ」
「嘘ばかり。もうキスはしましたか? ハイドさん、言えばさせてくれそうですよね」
ウィルクスはまだゴドフリーを睨みつけていたが、だんだん吐き気がしてきた。ゴドフリーは得体が知れなかった。残酷なことを平気でするが、本人に悪意はない。まるで天使がイエス・キリストをあがめずにはいられないように悪しきことを為していた。彼の悪しき行為はどこか信仰告白のような響きをもっていた。
不安を振り払い、自分を鼓舞する。ウィルクスはゴドフリーを睨みつけた。
「あの人とはなにもない。アリスは、あの人が心配だったから出てきただけだ」
「ふうん。どうだか。『愛の力だ』って新聞に書いてありましたよ」
顔から血の気が引く。不用意なことを言うんじゃなかった。
「アリスの愛の力だ。おれの、じゃない」
「好きなんでしょう?」ゴドフリーが微笑んだ。
「なんとなく、わかるんですよ。同性愛者のそういう目つきとか」
だからシンシアのことも嗅ぎつけたのか。ウィルクスはますます睨みつける。
「おれが勝手に慕っているだけだ。ああ、そうだよ。おれは彼のことが好きだ。あの人はそうじゃない」
「そんなことは関係ないんですよ、刑事さん」
菫色の目が光った。
「もしあなたたちがデキてるって噂を流したら、みんな『ああ、やっぱりな』って思いますよ。あなたたちはちょっとふつうじゃないくらい仲がいい。なにかあるって勘繰られてもおかしくない。噂で逮捕はできないが、致命的な傷を負わせることはできる。表面上はこれまでと変わりなく接しても、みんな白い目で見るようになりますよ。信用を失い、名前に傷がつくでしょうね」
「噂を流そうというのか?」
「そんなことしませんよ。ぼくはあなたのことが気に入ってるんです。良心的な刑事は珍しいですからね。つまらないことで潰されてほしくないんですよ」
「この時間の意味はなんだ?」
ウィルクスはじりじりしていた。
「撃ちたいなら早く撃てよ」
「そう焦らないで。ここにいる理由を言いましょうか。最初、ぼくはあなたをおとりにハイドさんを捕まえようと思っていたんです」
ウィルクスは皮肉な笑みを浮かべた。
「あの人はロシアに行ってしまったよ」
「そうらしいですね。でも、いいんです。順番は前後したけれど、結局のところ目的は達しました。あなたを捕まえたことだし、これからどうしようかな」
モーゼルの暗い銃口はウィルクスの心臓に狙いをつけていた。空砲だったら? そう思ったが、実験する気にはなれなかった。ずっと上にあげている腕がだるい。しかし、緊迫感はあるのだが、ゴドフリーの態度のせいで完全なものにはなっていなかった。調子が狂うという言葉がぴったりだ。
ゴドフリーは唇をきゅっと噛むと、眉間に皺を寄せた。
「例えばあなたを捕まえて、部下たちに暴力を振るわせたり、強姦させることもできるんですよ。しようと思えばね。でも、そういうことは悪趣味ですよね。好きじゃないな。だから心配せず、いっしょに来てくださいね」
ゴドフリーは椅子から立ちあがると伸びをした。その瞬間、ウィルクスは素早く飛びかかった。体当たりを食らわせる。拳銃が弾き飛んだ。ゴドフリーは飛びのき、「ハイドさん!」と叫んだ。
ウィルクスが振り向くと、そこにハイドが立っていた。悲しそうな表情を浮かべている。
「……ハイドさん?」
ウィルクスがつぶやいたのとかぶさるようにして、ゴドフリーが彼の袖をそっと掴んだ。ウィルクスが振り向き背中を見せた瞬間、ハイドは両手を握りあわせた。
「ウィルクス君、すまない」
拳を振りあげるとそれをウィルクスの首に叩きつける。
床に転がった男を見て、ゴドフリーはにっこり笑った。
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