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愛されるのも悪くない#2
「……いて」
ウィルクスが目覚めると、そこは暗闇に沈んだかび臭い部屋の中だった。ごたごたと物が置かれていた。冷気が流れこんで肺が痛む。部屋の壁際で、椅子に座らされていた。背後には階段が続いている。両手首が簡素な椅子の背もたれの後ろに回され、針金と荒縄できつく縛られていた。足首はそれぞれ、椅子の脚に同じように縛りつけられていた。
あたりを見まわす前に、ハミングが聞こえた。ベートーヴェンの交響曲第七番。ウィルクスと同じように椅子に縛りつけられたハイドが歌っているのだ。
「……意外と音痴なんですか? おれの知ってる第七じゃない」
ハイドは振り向くと、にっこり笑った。
「アレンジを加えてみたんだ。音痴ではないはずだよ、ぼくの趣味はピアノだからね」
暗闇の中、かろうじて見えたその笑顔に、ウィルクスの全身から力が抜けた。鼓動が弾んだ。
そっと静かに扉が開いて、閉まった。
「殴って悪かったね。痛いだろう?」
ハイドが心配そうにささやいた。ウィルクスは思わず素直に笑っていた。
「あなたがゴドフリーの共犯じゃなくてよかった」
「きみを殴るよう言われてね。後ろから拳銃で狙われてたんだ。……事務所を出たところで、きみを捕まえたと男たちに言われて。血のついたハンカチを見せられたんだ。言うことを聞かないとウィルクスを殺す、と言われた。でも、血は動物のものだったんだろうな。きみが無事でよかった」
おれが怪我したくらいで隙を見せないでください、とウィルクスは言いたかった。しかし、ハイドの動揺がうれしかった。
「おれたち、死ぬんでしょうか」
「死ぬかもしれないね」
沈黙が落ちた。ウィルクスはうつむき、つぶやいた。
「まだ死にたくないな」
ハイドは答えなかった。代わりに別のことを言った。
「ぼくのことを守ろうとしてくれてありがとう」
ウィルクスは顔を上げ、ハイドを見た。
「でも、守りきれませんでした」
「きみはぼくが好きだと言ったが、ぼくがきみを好きだということは否定した。ゴドフリーを前に引かなかったね」
「本当のことを言っただけです」
話を聞かれていたことを知って、ウィルクスは赤くなった。あたりが暗いことに感謝する。ハイドはしばらく黙っていたが、ややあって言った。
「前、きみに告白されて、怖いって答えたろう?」
「……ええ」
「怖いっていうのは、きみのことじゃなくて。きみの心が流れ込んでくるんじゃないかと思って、だから怖かったんだ」
「心が流れ込んでくる?」
ハイドはかすかにうなずいた。
「生まれつきなんだ。ぼくはいろんな刺激を、他の人より強く受けとってしまう。光が眩しすぎたり、音がうるさすぎたり。光を見たとき、多くの人間がそれを一つの点だと感じたとしても、ぼくは二十の点と感じる。特に、激しい感情が苦手なんだ。怒っているとき。悲しいとき。誰かを責めたいとき。自分を傷つけているとき。人のそんな感情を、ぼくはいつも強く受けとってしまうんだ。自分の内側に起こる感情も、手に負えない。動揺したり、深く悲しんだり。だから麻痺させてきた。感受している自分を麻痺させて、殺して、切り離す。とかげの尻尾みたいに」
ハイドは笑った。
「徹底的に殺して、墓場に埋める。そうすればなにも感じず、落ち着いていられる。そうできるようになってから、もう二十年近くずっとこれで生きてきた。今さらそんな自分は変えられない。だから怖かったんだ。きみの感情が流れ込んできそうで。麻痺させておけなくなりそうで」
隣を振り向き、ハイドは言った。
「きみは思いのすべてを込めていた。だから、怖いなんて言ってしまった。すまない」
ウィルクスはしばらく黙った。
「だから、自分がまともじゃないなんて言ったんですか?」
「ああ。まともじゃないだろう?」
「それは本人にしかわからないことだって、あなたは言いましたよ。激しい感情が苦手ということは、喜びもですか?」
「……ああ。そう、かな」
「おれ、わかりました。他人のことはわからないってことが。でも、人より強く激しく感情を感じるってことは、おれは豊かだと思うけど」
豊か、とハイドはつぶやいた。ウィルクスは顔を逸らし、冷気を吸いこんだ。吸いこむと体中に痛みが走ったが、気分はましになった。鼓動がうるさい。勇気を出して尋ねる。
「じゃあおれのこと、気持ち悪いと思いましたか?」
「思わない。たしかに、びっくりはしたよ。でも、気持ち悪いとは思わなかった。やっぱり、ぼくはヤードの刑事たちが言うように神経がないんだろうね。それに、きみが相手だから、ということもある。きみが相手なら、愛されるのも悪くない」
ウィルクスの唇がわずかに震えた。目から涙が一筋落ちた。かろうじて言った。
「期待はしないから安心してください」
ハイドは笑った。
「きみこそ、ぼくのことを気持ち悪いと思わないのか?」
「なぜ?」
「いつもヘラヘラして生きてるから」
「……気持ち悪いとは思わない。ただ、不思議だったんです」
ウィルクスはハイドの顔を見た。
「あなたに訊きたいことがある。あなたは本当に、お兄さんに言われて死のうとしていたんですか? そんなはずはないと思うこともある。あなたはあまりにも平然としすぎていたから。でも、それは麻痺させていたからなんですか?」
「死ぬのは、怖いよ」
ハイドは突然言った。
「知らない世界に行くのは。大学時代に乳母が亡くなってね。列車事故だった。ぼくが遺体の確認をしたんだ。生の廊下の先に死という扉があるとしたら、ぼくの扉はそれ以来いつも開いている。彼女がいなくなってから、ときどき開いた扉の向こうから風が吹いてくるんだ。死は恐ろしくない。そんなことが書かれた哲学書を何度も読んだよ。ぼくにはわからなかった。だから、麻痺させた」
ハイドは微笑んだ。そのとき、ウィルクスは彼の心がわかった気がした。ハイドの手を握りたかった。握って、おれも怖いですと言いたかった。
ふいにハイドの表情が鋭くなった。
「息苦しくないか?」
ウィルクスはあたりを見回した。たしかに、息苦しい。頭が重くなってくる。
「わかった。ここはぼくの家の地下室だ。黒炭が燃えているんだ」
「火事になる?」
「いや。おそらく、一酸化炭素中毒」
ウィルクスの口の中で、舌が貼りついた。
「あなたの家の地下室なら、叫べばホプキンスかマーゴットが気づいてくれるんじゃないですか?」
「ぼくはロシアに行く予定だっただろう。二人には朝から休暇をやっているんだ。二か月は戻ってこないよ」
ウィルクスは口の中を噛んだ。吐き気がこみあげてきたが、こらえた。
「ぼくらは心中したことになるかもしれないな」
「おれはそこまで思いつめてませんよ」
強がりを言うウィルクスに、ハイドは笑みをもらした。縛りつけられた両手首をねじる。皮膚が擦りむけ、血がにじんだ。縄は多少緩んでも、針金がきつく、戒めを解くことはできなかった。
空気が澱みはじめていた。さらにひどい頭痛を感じはじめる。
「最後まであきらめはしないが、しかしどうにもならないとしたら、いっしょに死のうか、ウィルクス君」
ハイドがつぶやいた。朦朧としてきて、ウィルクスは頭を振った。
そのとき、ハイドとウィルクスは見た。青いドレスを着て、濃いベールで顔を覆った女がそこにいた。
アリスは両手をぎゅっと握りしめていた。
「そこの男は死ぬなり刑事罰で捕まるなりすればいいけれど、シド、あなたはだめよ」
「だが、どうにもならないよ。死ねばきみと同じ幽霊になるのかな」
「わたしは生きているあなたが好きなのよ。死人のあなたにはなんの興味もないわ」
ハイドの前まで漂うように歩いてくると、ひざまずき、唇にキスした。ウィルクスは目を逸らした。
「だが、ぼくたちじゃどうにもならないし、きみにも打つ手なしだろう?」
アリスはすっくと立った。ハイドとウィルクスが座る椅子のあいだをすり抜け、まっすぐに彼らの背後の階段をのぼっていく。しばらくあたりは静かになった。ハイドもウィルクスもしゃべらなかった。毒が回り、目を開けていられなかった。
扉が開く音がした。それから、そろそろと階段を降りてくる足音。二人とも、それが生きた人間のものだと気がついていたが、呼吸が苦しかった。吐きそうだった。うわずるように喘いでいた。
足音は途中でやみ、また外へ出たらしい。また足音。それから部屋がぱっと明るくなった。
「旦那様、ウィルクス様」
二人の前にまわり、ひざまずいて縄をナイフで切りはじめたのは、ハイド家のメイド、マーゴットだった。
「お二人とも、しっかりなさって。女の人に呼ばれて戻ってきたんです。あの恐ろしいものは上へ持っていきました。お医者様を呼びますから、お二人とも死なないでください」
マーゴットはなんとか戒めを解いた。ウィルクスはむせながら椅子のなかにうずくまった。呼吸が少しずつ楽になりはじめていた。
「ウィルクス様……しっかりなさって……」
両手を口元に押しあて、ひざまずいたまま泣きながら言うマーゴットの顔を見て、ウィルクスはむりに笑顔を浮かべた。
「ありがとう、マーゴット」
メイドは泣きながらうなずき、よろめいた足どりで階段をのぼっていった。
「ありがとう、アリス」
ハイドも顔を上げてアリスに言った。彼女はまた二人の前に立っていた。
「心中なんて見苦しいわ」
怒ったように言って、背中を向け、姿を消した。
ハイドはため息をつくと、ゆっくり椅子から立ちあがった。よろめいたが、椅子の背で体を支える。ウィルクスも同じように体を支えた。二人は黙って階段をあがり、地上に出たところでへたりこんだ。黒炭ではなく、練炭の入った鉢が廊下の隅に置かれていたが、火は消えていた。マーゴットは医者に電話をかけたところで気絶していた。
「ぼくたちは満身創痍だな、ウィルクス君」
「でもおれたち生きてますよね、ハイドさん」
むせながら笑った。ハイドはウィルクスのほうをちらっと見た。
「いっしょにロシアに行かないか?」
ぼくがいないあいだにきみが吊るされないか心配なんだ、とハイドは言った。ウィルクスは首を横に振った。
「二人ともロンドンを離れるのはまずい気がします。おれがゴドフリーを見張っていますよ」
「だが……」
「一人で大丈夫ですよ」
ウィルクスはそう言ってハイドの瞳を見つめた。いつもは明るく澄んで、柔和な輝きを宿している瞳が、今は曇っていた。それがうれしかった。
「ここで待ってます」
ハイドはうなずくと、ウィルクスの頭を撫でた。
「ぼくがときどき使っている男たちを紹介しておくよ。身辺警護に使いたまえ。警察にも今回の件を話しておくんだよ。一人にはなるな。二か月元気でいること。いいね」
「はい」
二人のまなざしが合った。ハイドの瞳はまた優しい、穏やかな色に戻っていた。晴れた日の湖のようだった。キスがしたくて、したくて、ウィルクスは凍りついた。
そのとき、玄関のベルが鳴った。医者が転がるように飛びこんでくる。ハイドは微笑みを浮かべ、力のない声で「生きてます」と言った。
たぶんこの人、「不死身の探偵」ってあだながつくんだろうな。ウィルクスはぼんやり思っていた。
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