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キスという名の実験#1

 ハイドとウィルクスが練炭で殺されかけた事件は、世間には公表されなかった。二人が生きていることを伏せておき、ゴドフリーたちの油断を誘う狙いがあった。  マーゴットと、駆けつけてきた医者には厳重に箝口令が敷かれた。ハイドはマーゴットに、自分がロシアから帰ってくるまであの家に近づいてはいけないと言い聞かせた。  医者はハイドに向かって必死に言い募った。 「今度のことは誰にも言わないが、あなた、必ず入院しなさい。気分はどうです?」 「吐き気はあります」 「ほらね、しばらく入院しておとなしくしてなさい。きみもだよ、青年」  ウィルクスは壁に背中をつけてもたれかかったまま、真っ青な顔でうなずいた。危機を脱したことで、急に吐き気とめまいが強くなっていた。 「でも、ロシアに行かないといけないんです、先生」  ハイドが訴えると、医者は鼻を鳴らした。 「いま船に乗ったらもれなくゲロするよ。おっと失礼。下品な言葉を使って。それはそうと、一日でもいいから横になりなさい」  医者の強い勧めで、ハイドもしぶしぶ車に乗りこんだ。隣にウィルクスが乗りこむ。揺れでさらに気分が悪くなった。ハイドは執拗だった。 「出発は延ばせて二日です。それまでに退院させてください。向こうがうるさいのでね」 「こっちは病気なんだとびしっと言ってやれ。人の命は地球より重いんだよ。あなたそれを知らないね」 「大事な人なんですよ。個人的にも世話になってるんです。妻との仲をとりもってくれたり」  医者は目を丸くした。 「あの噂の、幽霊の奥さん?」  ハイドはそれには答えなかった。  ハイドとウィルクスは同じ病院に入院することになったが、ベッドの空きの関係で病室は違っていた。二人とも大部屋だ。  ハイドはさっさと自分のベッドに腰を下ろした。彼の姿をちらちらと見たあと、ウィルクスも背を向けて自分の病室に向かう。地下室でハイドが言った言葉を反芻した。 「きみが相手なら、愛されることも悪くない」  ウィルクスはただ単純に喜んでいた。その言葉にどんな意味があるのか、あえて探そうとしなかった。探せばきっとがっかりすると思っていた。  病室にたどり着くと、廊下でストライカーが待っていた。 「よう、ウィルクス。ご苦労さん」  ウィルクスは目礼した。夜も十一時をまわっている。リノリウムの廊下は暗かった。 ストライカーはポケットから取りだしたメモを繰った。 「ドクターからきみをそっとしておくように言われてる。だからすぐ退散するが、ひとまず報告だ。きみの家はフラットだな。隣り付近の住人に、なにか見たり聞いたりしていないか聞きこみを行っているところだ。あの探偵が連れこまれたときや、きみたちが出ていくときになにか気がついた可能性がある。練炭の出所を調べてる。練炭は日本製だからな。珍しいものだ。見つかる希望はある。ストランドの事務所付近でも、異変に気がついた人間がいないか捜している。以上だ」 「ありがとうございます、警部」 「変わったことがあればまた報告する。とりあえずきみはゆっくり休め」  ストライカーは背中を向けて歩きだした。しかし帰らなかった。  隣の病室に入っていき、いちばん奥、窓際のベッドに近寄る。ハイドが鉄製のヘッドボードにもたれかかって、両手を腹の上で組み、目を閉じていた。 「ハイドさん、気分はどうです?」  ハイドは目を開けた。 「ましになりましたよ」 「ちょっと冷たい空気を吸いに出ないか?」 ハイドはベッドから降りると、靴を履くためにかがんだ。 「ハイドさん、帽子は?」 「殴られたときに失くしたんです」  ハイドは立ちあがって、枯れ木のような男に向かってにっこり笑いかけた。 「さあ、行きましょうか。外は寒いですよ」  二人は外灯で点々と照らされた病院の庭をゆっくり歩いた。イチョウの樹が覆いかぶさってくるように深い影を落としていた。  二人はハイドが捕まったときの話をした。ゴドフリーのほかに部下が二人いて、二人ともマスクで顔を隠していた、とハイドは話した。拳銃で脅されながらウィルクスの部屋に入り(一人、錠前破りが得意な部下がいた)、出ていくときは部下二人が気絶したウィルクスを抱え、ハイドはゴドフリーに拳銃で脅されて、自分の足で歩いて車に乗りこむよう命じられた。車の中で目隠しをされ、ウィルクスとともに地下室に連れていかれて、椅子に縛りつけられた。  ストライカーは黙って話を聞き、ウィルクスにした話をもう一度繰り返した。ハイドはうなずいた。 「明日には、ゴドフリーもぼくらが助かったことを知るでしょう。ウィルクス君はまた狙われるかもしれないし、もう狙われないかもしれない。彼の身辺に注意してあげてください。それから、やつらが油断しているうちに捜査をすすめてください」  警部は紫煙を吐いた。ハイドにもすすめると、彼は断った。まだムカムカするのだと言った。ストライカーはシガレット・ケースをポケットにしまうと、立ちどまり、ハイドを見上げた。ハイドは歩みを止め、警部の顔を見返した。 「どうかしましたか?」 「あなたに一言、言っておくことがある」  首を傾げたハイドに、ぎょろぎょろした目を向けて言い放つ。 「あなた、油断しすぎだよ」  ハイドが目を丸くするのもかまわず、警部はまた繰り返した。 「油断しすぎ」  それから背中を向けて門に向かって歩いていった。  ベッドでうとうとしていたウィルクスの前にハイドが現れた。 「調子はどうだ、ウィルクス君」 「よくなりました。あなたは?」 「もうどこも悪くないと思う。まだ少しムカムカするけど」  おれもですよ、と言って、ウィルクスは首を傾げた。 「どうかしましたか?」 「少しぶらぶらするのにつきあってくれないか?」  返事を聞かず、ハイドは歩きだした。ウィルクスは黙ってついていく。薄暗い廊下を歩いたあと、建物から抜け出て庭に降り、樹々に周りを囲まれた小さなあずまやの前で立ちどまった。外灯がかすかにあたりを照らしていた。寒くて体が震えたが、ウィルクスは黙ってハイドのそばにいた。  ハイドは蔦が絡みつくあずまやの中のベンチに腰を下ろし、ウィルクスを手招きした。彼はハイドの隣に座った。 「ストライカー警部と少し話をしたよ。ぼくが捕まったときのことについて伝えた。捜査してくれると思う」 「警部は優秀な刑事です。きっと丁寧に調べてくれると思います」  ハイドはうなずき、つぶやいた。 「それで、最後に言われたんだ。『あなた、油断しすぎだよ』って」  ウィルクスは目を丸くし、笑いだした。「警部らしい」と言う。 「皮肉屋なんですよ。あまり気にしなくていいと思いますよ」 「いや、たしかにぼくは油断しすぎていたかもしれない。そのことに気がついたんだ」 「二回死にかけましたからね。でも、相手も上手だったと思います」 「いや、それもあるが、きみに対してね」  ウィルクスは首を傾げた。 「ぼくには兄貴しかいなくてね。小さいころから弟が欲しかった」 「それで?」 「きみは可愛い弟みたいだと思ってきた。そこですべての思考を止めてしまったんだ。だから、もしかしてぼくは自分の感情に気がついていないのかもしれない。きみが愛おしいのは、庇護欲からくるものだろうと安心して、油断していたのかもしれないと気がついたんだ」  ぽかんとしてハイドの顔を見つめる。なにを言いたいのか、まだわからない。だが、ハイドの瞳はあまりに真剣だった。嵐で揺さぶられる樹のようだった。ウィルクスはその目に魅せられた。 「どう思う?」  ハイドが身を乗りだすと、ウィルクスは固くなった。 「どうって、おれに訊かれても」 「恋だと思うか?」  ハイドは庭に目をやった。 「これまで、男に惹かれた経験は一度もない。シャーロック・ホームズが言っていたよ。例外を認めてしまえば、原則がくつがえるって」 「たしかに、ホームズならそう言うでしょう。でも……」  ウィルクスは弾けそうな胸を抱いて、目の前の男を見つめた。 「あなたはシャーロック・ホームズじゃない」 「そう、ぼくはホームズじゃない。例外を認めるのが好きだ。法則を信じるより意外性を楽しんでいたい。新たな可能性に出会いたい。それもあってアリスと結婚したんだ。きみに対して抱いている感情は恋ではないと思う。だってきみといても動悸はしないからね。しかし――」  ハイドは身じろぎした。 「しかし、きみが相手なら愛されることも悪くないと思うんだ」 ハイドはウィルクスの膝に片手を乗せた。 「今、試しにキスしてみてもいいかと訊いたら、きみに悪いだろうか?」  鼓動の高鳴りに息が苦しい。頭が沸騰しているせいで、ハイドの声がよく聞こえない。ウィルクスにできたのは、なるべく正直でいようとすること、それだけだった。 「いえ。悪くなんてありません。期待はしません。あなたがあとで、違うと思ってもいい。おれはそれでいいんです」  ハイドはウィルクスの上に覆いかぶさると、彼の体をベンチに横たえた。暗闇の中、ハイドの影が自分に重なって、ウィルクスは目を細め息を止めた。ハイドの手が頬に触れる。唇に唇が触れた。ウィルクスの唇で、体の芯で、炎が燃えあがる。心臓が壊れそうだ。軽く触れるだけなのに、重みを感じる。心が古い殻を脱ぎ捨てていくようだ。二人とも寒さでがたがた震えていた。抱きあってはじめてそれがわかった。今度はウィルクスがハイドの上唇を噛んだ。ハイドは目を開けた。  焦げ茶色の瞳は濡れて、光っていた。その目に、ハイドの中でなにかがちかっと光った。燃える光は彼の体をまだらに染めた。  そのとき、ハイドはアリスの姿を庭の中に見た気がした。彼は別れた妻の幻影に視線を向けながら、もう一度口づけた。  ハイドはぶるっと震えると、体を起こした。 「ロシアに行っているあいだに考えることにするよ」  ウィルクスはうなずいて起きあがり、髪を手のひらで整えた。こみあげてくる欲望をなんとか押し殺した。心の底からハイドのことが欲しいと思ったが、それを言うことはできなかった。 「ハイドさん、あの」目を伏せて、ウィルクスがつぶやく。「引き返せるうちに、言ってください。強く。あの、おれは――」言葉が喉で詰まる。 「我慢できる。今ならまだ」  ハイドは聞いていなかった。暗い庭を眺めている。 「ウィルクス君」 「はい?」 「二か月は長いな」  そうですね、と答えて、ウィルクスはいまさら顔がほてってくることに動じた。  しかしハイドは庭を眺めていて、それに気がつくことはなさそうだった。

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