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キスという名の実験#2

ハイドとウィルクスは病室に戻るため、ふたたび夜中の小路を歩きはじめた。ウィルクスが自分のほうから目を逸らしている。それに気がついたハイドは声をかけた。 「照れてるのか?」 「いや、べつに」 「こっちを向きたまえ」  ウィルクスが振り向く。暗がりのなか、目だけが輝いていた。 「照れてますよ」低い声で白状する。「う、うれしかったから」 「意外に素直だったんだね」 「あなたにはもう筒抜けですからね。必死で隠す意味はなくなりました。あなたこそ、照れてないですね」 「ああ、ぼくは照れてない。おかしいだろう?」 「また、麻痺させたんですか?」 「いや」ハイドは目を細めた。 「味わったつもりだよ」  その言い方がエロティックな気がして、ウィルクスはぱっと顔を背けた。赤くなってしまうのはもう仕方がなかった。  ハイドは黙って隣を歩いた。今回は少し動悸がしたということは言わないでおいた。  二人が廊下まで戻ってくると、見回りの看護婦はびっくりした顔をした。 「お二人とも起きていらっしゃったの? 早くおやすみになってください」  二人はそれぞれそうしますと答えて、病室に戻ろうとした。そのとき、ハイドは看護婦が手にしているものに気がついて、眉を上げた。 「ぼくの帽子だ」  看護婦は持っていたものをハイドに手渡し、微笑みかけた。 「あなたがハイドさん?」 「そうです。その帽子、どうしたんですか?」 「女性が持ってきました。ほら、そこにいらっしゃる方」  ハイドとウィルクスが振り向くと、ストライカーにつき添われてシンシア・ミドルトンが立っていた。 「ミドルトンさん!」  ウィルクスは彼女のそばに歩み寄った。シンシアはウィルクスの目を見つめ、すぐにうつむいた。警部は鼻を鳴らした。 「ストランドの事務所の周りを監視してたんだ。そしたらこのお嬢さんが現れた。ウィルクス、きみが捜していた女性でまちがいないな?」  うなずくと、ウィルクスはシンシアの両手を握りしめた。シンシアはうつむいていたが、顔をあげ、笑ってみせた。ウィルクスは彼女の両手を子どものように上下に振った。 「無事でよかった。ひどいことはされませんでしたか?」 「ええ、されていません」 「あの事務所でなにをするつもりでしたか?」 「あなたたちの死体に細工するように言われました」 「一人で向かいましたか?」 「一人でした」 「警察に来てくれますね?」 「参ります」  そのとき、刑事たちと探偵はシンシア・ミドルトンが「捨てられた」のだと確信した。ゴドフリーの恋人としても用なしになったのだ。これでなにもかもを洗いざらい話してくれる。期待が高まった。しかしシンシアにその気はなかったし、あったとしても話せることはない、と思っていた。 「警部、ミドルトンさんをヤードまで護送してください。おれもあとで行きます」 「退院してかまわないのか?」 「もう元気です。ハイドさん、あなたは……」  ハイドは眉間に皺を寄せ、厳しい顔つきをしていた。 「あさってまでは出発が延ばせる。ぼくも行くよ」  シンシアはウィルクスの目をじっと見つめていた。そのもの問いたげな瞳に、ぎくっとする。彼女は瞳によって語っていた。わたしが生きている意味はあるのかと。シンシアはうつむいて、両手でスカートの裾をぎゅっと掴んだ。泣かなかったが、顔をあげたとき、ウィルクスを見る目にあの問いはさらに色濃くなっていた。  ストライカーとシンシア・ミドルトンは病院を去った。  ハイドとウィルクスは受け持ちの医師と医院長に交渉し、半ば押しきる形で退院許可をとりつけた。スコットランドヤードに着いたころには、午前二時をまわっていた。  尋問部屋で、ストライカーが二人を待っていた。シンシア・ミドルトンは固い椅子に腰を下ろし、膝のうえで両手を握りあわせていた。その表情は、色の抜け落ちた絵のようだった。 「らちが明かないよ」  ストライカーはぶつぶつ言って噛み煙草を噛んだ。 「こういうことを訊いたんだがね」  ウィルクスとハイドに、紙に書いたリストを見せる。基本的なこと、「名前は?」「年齢は?」「住所は?」といった質問には答えても、「ゴドフリーとの関係は?」「ゴドフリーの隠れ家について知らないか?」「ゴドフリーの部下について知らないか?」といった質問には答えていなかった。 「『関係』の部分は恋人で確定だろうが、あとはしゃべらない」  ストライカーが暗い声で言った。一瞬、あたりはしんとした。  シンシアは自分をとり囲む男たちを見上げた。探すようにしてウィルクスの目を見つめる。 「ウィルクスさん、あなたに少しお話ししたいことがあるんです。他の方たちがいないところで」  ウィルクスがうなずくと、ハイドとストライカーは黙って部屋から出ていった。ウィルクスはシンシアに向き直った。 「あなたが警察で保護されていることは、世間には漏れないようにします。お話しくださったことの秘密は守ります。ただ、事件に関して情報公開をしなければならないときは別です。話したいことは、ゴドフリーに関することですか? それとも?」 「わたし、妊娠している気がするんです」  一瞬、空気が凍りついた。しかしウィルクスはすぐに刑事の顔に戻った。 「あの人との子ども。ほかに心あたりはないから」  沈黙が流れた。シンシアは狂おしいまでにウィルクスの目を見つめる。彼は視線を逸らすことができなかった。 「言いたくなければ言わなくてかまいません。暴行されましたか?」 「いいえ」 「だが、あなたはやつに弱みを握られて、従うようになったのでしょう。それは暴行と同じではありませんか?」  シンシアは黙ったが、両手をぎゅっと握った以外に変化はなかった。 「わたし、嫌だったし、罪深いことだとは思ったけれど、あの人を憎んでいるかと問われれば、わからない。天使みたいだし、わたしのまえではひどいことをしないから。あの人はわたしを大切に扱いました。わたし、あの人が悪しき行いをしているということをどうしても認められないんです」 「あなたをむりやり自分の言うとおりにするのは、ひどいことではありませんか?」  シンシアは答えなかった。別のことを言った。 「産まれなければどんなにいいだろうと思います。でも、堕胎は犯罪になりますよね」  ウィルクスはシンシアの顔を直視する気になれず、しかし、目を伏せることはできなかった。目立たない顔をしたこの娘は、彼がグレイを名乗って親しくなったころと変わっていなかった。特別老けこんでもいなければ、すさんだかんじもしなかった。ただ諦めを帯びた静かな顔をしていた。 「妊娠にはいつ気がつきましたか?」 「一週間前です。でも、予感はしていたの。占いで」  シンシアが占いを趣味にしていたことを思いだす。 「あなたが〈アダムスの占い〉で占ってくれましたね。『邪悪な黒い犬』が対になる存在を見つけると」 「だが、あなたはあのときうれしそうだった」 「自分の未来が明らかになるのはうれしいことです。たとえどんな未来でも」  ウィルクスはテーブルの上で両手を握りあわせた。 「あなたは勇気ある方だ。やつによってなかったものにされるのは許せない」 「でも、どうしたらいいでしょうか」  顔をあげたシンシアは涙を流していた。 「どこに行けばいいでしょうか」  二人は黙った。ウィルクスはテーブルに両手を乗せ、磨かれた飴色の表面を見つめていた。顔を上げる。 「産まれた子どもは、事情が事情だから修道院や孤児院で引きとってもらえるかもしれない」  シンシアはためらう目をした。ウィルクスはしばらく黙っていたが、心は自然と決まっていた。 「おれと結婚しませんか」 「あなたはハイドさんが好きなんでしょう?」  シンシアが思わず言うと、ウィルクスはかすかにうなずいた。 「でも、結婚できるわけありませんから」 「そこまでしていただくことはできません。あなたの人生をめちゃくちゃにするわ」 「おれは女嫌いじゃないんです。あなたのことは妹みたいだと思っています。結婚しても、あの人を好きでいることを許してくださるなら。そしてあなたにもし恋人ができて、その女性と交際をしたとしても、おれは気にしません。それでかまわないなら。でも、こんな申し出もあなたにとっては屈辱的なことですよね」  シンシアは戸惑うように微笑を浮かべた。強さより弱さを見つめてきた眼差し。その眼差しは、今は自分自身に向かっている。 「考えてみます。ありがとう、ウィルクスさん」 「あなたが死なないでくれるとうれしいです、ミドルトンさん」  シンシアはそれには答えなかった。穏やかな顔をして、未来を思い描いていた。  ストライカーとハイドは喫煙室で煙草を吸っていた。部屋には夜勤で休憩中の警察官が数人いたが、二人は離れた部屋の隅の椅子に腰をおろしていたので、会話を聞かれることはなさそうだった。ストライカーは紫煙を吐いた。 「あんたのうちのメイド、どうしてタイミングよくあんたらを助けられたんでしょうね?」 「きっと愛の力でしょうね」 「誰の?」 「メイドの。彼女はウィルクス君に惚れているんですよ」  しばらく沈黙が落ちた。 「ウィルクスはあんたに惚れているのか?」  ハイドは隣を向いた。ストライカーは顔をまっすぐ前に向けて虚空を睨みつけていた。 「沈黙は肯定だよ。あんたは彼が好きなのか?」 「ウィルクス君は有能だし、いっしょに仕事をするとはかどる。相性がいいんでしょうね」 「相性ね」  ストライカーの性格からすると皮肉っぽくなりそうなその言葉も、このときばかりはそうではなかった。警部の枯れ木のような顔は、今は皺がいっぱい浮かび、歪んでいた。 「敵はあんたらを心中に見せかけようとしたんじゃないか? そうする根拠があるということだ」 「そうとは限りませんよ。ぼくたちが親しくしているから、その手を思いついたんでしょう」 「男に惚れる男の気が知れない」  ハイドはまた答えなかった。黙って煙草をふかし、宙を見ていた。彼も自分に惚れる男の気持ちが知りたいと思った。しかしそれはわかりきったもののような気もした。 「探求しがいのある問題ですね」  そう言って、ハイドは煙草を灰皿でもみ消した。ストライカーが彼のことをじっと見つめていた。

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