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揺れて動く#1

 シンシア・ミドルトンの尋問は翌朝もつづいた。刑事たちは朝を迎えたシンシアが尋問に臨めるようになるまで、休まず練炭の出所を確認し、ウィルクスの自宅や探偵事務所周辺で異変に気がついた人間がいないか捜した。  しかしそんな人間はいなかった。特にウィルクスの住むフラットは仕事がある独身者ばかりが暮らしており、隣の部屋の住人は今も長い出張に出かけていた。練炭の出所は、すぐに確認できるという予想に反し、わからないままだった。  シンシアの供述に望みを繋ぐしかなくなった。しかし、期待すればするぶんだけ、彼女は口ごもった。 「『彼』と会うときはいつもわたしの家でした」 「ゴドフリーとの連絡はどうしていましたか?」 「『彼』から一方的に電話がかかってきました」 「番号は?」 「忘れました」 「隠さないでください、ミドルトンさん」  シンシアはぽつりぽつりと番号を話した。大至急裏がとられた。番号は、現在使われていなかった。  沈黙が部屋を包む。シンシアが捨てられたのは、語ることをなにも持っていないからだ。ウィルクスもストライカーもそう信じかけていた。ハイドは諦めなかった。シンシアが座っている椅子のそばにしゃがむと、視線を合わせる。 「外でゴドフリーに会ったことはないのですか?」 「ありません」 「デートもしていない?」 「していません」 「彼にどこかに連れていかれたことはありませんか? だれかに紹介されたことなどは?」  シンシアの目に怪訝な光が浮かんだ。 「そういえば、思いだしたことがあります。いっしょに外出したわけではないのですが、『彼』がうちに来ていたとき、あの人がどこかに電話をかけたことがありました。わたしに受話器を手渡して、『出てごらん』と言いました」 「相手は?」 「年配の男の人でした。『きみは彼の恋人かい?』とその人は言いました。わたしがそうだと答えると、『お幸せにね』と。『彼』にあれは誰かと尋ねると、自分の大切な人だと答えました」 「訛りはありましたか?」 「いいえ。ただ、喘息ぎみのような気がしました」 「ホルロイドだ」  吐き捨てると、ストライカーはメモを握りしめた。 「お嬢さん、番号は知っているか?」 「知りません」  シンシアは両手をぎゅっと握りあわせた。 「でも、待ってください。そう、『わたしは貿易の仕事をしている』と言っていました。『新居にすてきなランプシェードがほしくなったらおいで』って」  ウィルクスはテーブルに身を乗りだした。 「住所は言いませんでしたか?」 「言いませんでした」 「ロンドン中、もしくはイギリス中の貿易会社をかたっぱしから調べる時間はないぞ」  ストライカーがうなると、ウィルクスがつぶやいた。 「エヴァンズも貿易会社を経営していましたよね」  ハイドはシンシアに向き直った。 「他になにか、手掛かりになりそうなことはありませんか?」 「その人と少し話しました。読書が好きだという話をわたしがすると、シャーロック・ホームズがとても好きだって。彼が探偵として花開いた場所で、日夜励んでいると言っていました」 「ホームズはいけ好かないから読まないがな。おれだってそれくらい知ってるぞ。ベーカー街だろ?」  ストライカーが言うと、ハイドも言った。 「ストランドかもしれない。ホームズ・シリーズが掲載されているストランド・マガジンはここで発刊されていますからね」  三人はシンシアを見た。 「その人は、こう言ってました。ホームズは素晴らしいが、現実の探偵は鬱陶しいって。わたしはここで見張っているんだ、と」 「自惚れてもいいですか?」  ハイドが立ちあがった。 「ストランドだ。たしかに貿易会社の事務所があったような気がする。行ってみましょう」  ウィルクスとストライカー、そしてハイドは地図を確認しながらストランドへ向かった。ハイドの事務所の二ブロック先に、その事務所はあった。五階建てのビルで、小さな会社がいくつも入り、事務所として使っているらしい。ロバーツ貿易会社は三階の全フロアを独占して事務所にしていた。管理人室で尋ねると、貿易会社は潰れて、今は空き部屋になっているということだった。  合鍵を借りる。ハイドがウェブリー・リボルバーを持ち、三人は事務所に足を踏み入れた。さまざまな品物がごたまぜになってしまわれている倉庫があった。貿易会社らしく、珍しい品や異国情緒を感じさせる品がボール箱に入れられて、棚に分類して保管してあった。尾を広げた大きな孔雀の剥製や、昔流行ったインテリア用の貝殻が出てきた。しかしここにはなにもなかった。隣にもう一つ、埃っぽい資料室があった。キャビネットには黄ばんだ書類が大量におさめられている。調べるのはひとまず後回しになった。  次の部屋は社員のオフィスだった。フロアの三分の二を占めている。窓にはブラインドが降りていた。電気は止まっていたので、ウィルクスがブラインドを上げた。家具はそのまま残されていて、埃よけのカバーがかかっている。デスクと椅子が整然と並び、ここにも見るべきものはなかった。  最後、フロアの北側、いちばん奥が社長室らしかった。三人は中に入った。扉を入ると、左手に大きな窓、あとの壁は書棚になっている。本は一冊もない。部屋の中央にはカバーが掛けられた大きなデスクが置かれていて、部屋を圧迫していた。デスクの後ろには黒い革の椅子。椅子にはカバーが掛けられていなかった。ウィルクスが窓際に歩み寄り、ブラインドを上げた。そのとき、テーブルの後ろからはみ出た腕が見えた。  拳銃を構え、三人がテーブルの後ろを覗くと、男がうつぶせで倒れていた。急いでひっくり返す。心臓に穴が開いていた。上着とシャツはどす黒く変色している。床に敷かれた絨毯にも血が染みこんで、黒い海をつくっていた。顔は穏やかで、目元が少し歪んでおり、なにが起こったのか知りたそうだった。 「死んで一日くらいだな」  死体にかがみこみ、検分しながらハイドがつぶやいた。胸の銃創以外に、死因となりそうな外傷はなかった。 「ホルロイドだ」  このなかで唯一、相手の顔を知っていたストライカーがうめいた。午前の日差しが射しこみ、部屋を照らしだした。  そのとき、電話が鳴った。  三人は一瞬呼吸を止めた。電話は覆いを掛けられたデスクの中から鳴り響いている。  ウィルクスは覆いを剥がすと、鳴り続ける電話の受話器を取った。 「もしもし?」 「もしもし。その声はウィルクスさんですか?」 「ゴドフリー」  空気が張りつめた。ハイドもストライカーも息を殺し、黙ってウィルクスの顔を見つめている。 「どこにいる?」 「近くて遠いところ」 「ホルロイドを殺したのはきみか?」 「ぼくがやりました」 「なぜ?」 「特に理由はありません。ナンバー・ツーでいることに少し疲れたとか、組織の金を陰で横領していてそれがばれたとか、彼がぼくの恋敵であるとか、好きに想像してくださってけっこうですよ」 「自首する気はないんだろうな」 「なぜそんなことを?」  ウィルクスは窓の外を見た。通りの向かい側はオフィスとカフェが軒を連ねている。 「きみはおれたちが今いる事務所の向かい側で、こっちのことを伺っているんだろう」 「惜しい。ぼくはいません。いるのはぼくの最後の部下です」 「もうやめないのか、ゴドフリー」  電話の向こうが沈黙した。しかしそれはほとんど一瞬だった。息を吸う音が聞こえた。 「ねえ刑事さん、ぼくが生きている理由を知っていますか?」 「いいや」 「死ぬ理由がないから生きているだけ。ハイドさんに訊いてごらんなさい。あのひとはきっとぼくの言っていることがわかるから」  ウィルクスはハイドの顔を見た。青い瞳が見返す。死ぬ理由がないから生きているだけ。たしかに、この人は浮世離れしていて、ときどき生きていることも暇つぶしみたいに見える。 「だが、あの人は恋だってするし、結婚だってしたし、ピアノも弾くし、恩人のためにロシアまで行こうとしている」 「それも暇つぶしじゃないんですか?」 「ミドルトンさんが言っていたよ」ウィルクスは受話器を握りしめ、窓の外を睨みながらつぶやいた。「きみといると虚無感を感じる。生きる意欲が失われていってしまうと」 「そう、だからこそ彼女はあんなにも美しい」  しばらく沈黙が落ちた。 「ぼくも行きます」 「行くってどこへ? あの世か?」 「殺さないでくださいよ、刑事さん。国外へ出るんです。ホルロイドを信奉していた部下たちがぼくに報復しようと動きだすでしょう。そうなる前に逃げなくちゃ」 「きみでも、生きていたいと思うのか?」 「生きていたいですよ。死ぬまでは生きていたい」  ウィルクスがなにか言う前に、ゴドフリーが優しい声でささやいた。 「じゃ、さよならウィルクスさん。あの探偵とお幸せに」  声は乱れ、電話は切れた。  三人は事務所を出て巡査を捕まえ、ホルロイドの死体の警備にあたらせた。ストライカーは医者を呼び、死体を運び出した。ウィルクスとハイドは貿易事務所の向かいの通りにあるオフィスやカフェを当たった。三階のブラインドが上がったことに気がつくのに、うってつけの場所はいくつかあった。いずれもオフィスだった。そこではサラリーマンたちが電話を前に仕事をしている。  海外へ出航する予定の船にも監視がついたが、ゴドフリーらしき姿を見かけた人間は誰もいなかった。  シンシアはひっそりと世間に戻ってきた。乳母のソニアがヤードまでシンシアを迎えに来て、両手をとって笑った。ふだんは厳めしい顔に涙が光っていた。  ゴドフリーが逃げたことを聞くと、シンシアは目を細め、そうですかと言った。痩せた手で腹を撫でる。これで、ハイド家への脅迫もおさまるだろう。シンシアは自由になるだろう。 「結婚、してくださいますか?」  ウィルクスが尋ねると、そばで聞いていたストライカーは目を剥いた。シンシアはうなずいた。ありがとう、と言った。ゴドフリーとの子どもを身籠っていることを話すと、ハイドは協力を申し出た。 「ぼくはあなたの兄です。ウィルクス君といっしょに、力にならせてください」  ハイドはハンプシャーに別荘を持っているという。ロンドンの空気が体に障るということで、偽名を使って滞在し、そこで出産を待てばいい。ウィルクスは月に二度の休みで、別荘に通い、夫の存在を印象づける。ソニアが提案した。 「お嬢様が出産なさるまでつき添います。お生まれになった子どもは、乳離れしたらしばらくはわたくしがどこかに落ちついて看ています。少し大きくなって、お生まれになったのが結婚に比べて早いとわからなくなるまで」  でも、もしシンシアに似るのではなく、金髪で菫色の目の子どもが生まれたら? 「刑事を続けられなくなるぞ。妻が不倫していることを知っていて離婚しなかった警官は、かつて風紀を乱すという理由で依願退職になった。……それを愛と呼ぶ人間もいる。だが、いいか。その言葉がどんなに美しく思えたとしても、愛なんて信じるなよ」  もう三十年も結婚生活を送っているストライカーは、噛みつくように言った。ハイドがウィルクスの耳に、そっとささやいた。 「もし刑事を辞めなければならなくなったら、うちで雇うよ。いっしょに働かないか?」  ウィルクスは目を瞠る。ストライカーは彼を部屋の隅に連れていき、低い声で言った。 「強姦された女に出会ったからといって、かたっぱしからプロポーズするわけにはいかないんだぞ」 「わかっています」 「人生は残酷なんだ」 「そんな気はしていました」 「いや。わかったよ。ミドルトンさんと幸せになれ。あいつは諦めろ」  ウィルクスはただ微笑んだだけだった。

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