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揺れて動く#2
シンシアとソニアを家まで送り届けることになった。帰り道、シンシアは言った。
「ありがとう。わたしと子どものこと、助けてくださって」
しばらく黙って歩いた。凍てついた風が顔を撫ぜ、吐く息が空中で白く煙になり渦をつくった。
「どうぞ負い目には感じないでください」
ウィルクスが言った。
「あなたと結婚するとメリットがある。それもあって結婚できればと思ったんです」
「世間の目をくらますことができるから?」
「そうです。利己的な理由ですよね。申し訳なく思います」
「いいえ。わたしも利己的な理由からあなたと結婚するんだもの」
シンシアは顔をあげ、ウィルクスの目を見つめた。
「わたしといっしょに暮らすようになっても、ハイドさんをおうちに呼んでくださいね」
ウィルクスの表情が和らぐ。
「ありがとう、ミドルトンさん」
「どんな未来だろうと、自分の未来が明らかになるのは、うれしいことだわ。どうあがいても暗い未来というのはある。わたしは強い人間じゃない。心づもりをしておくの。最悪のとき、それ以外になりようがなかったと思えれば、諦めていける。未来は変わらなくても、精神的に自由でいられるかどうか。もしそうできたら、倒れたとしても、それでもいいって思うんです。でも、気づいたの。未来はまだわからない。わかった瞬間、現在になる。それって、怖いけど、永遠に正体の見えない恋人を追いかけているみたいで、すてきね」
おれも追いかけていますよ、とウィルクスは言った。シンシアが微笑んだ。秋の日のように。
「あなたとお友達になれてよかった。黙って帰った道のこと、今も覚えています」
そして二人は霧も晴れかかった凍る夜道を、並んで黙って歩いていった。ソニアはただシンシアのことだけを考えていた。
二人を家まで送ったあと、ウィルクスはハイドの事務所に寄った。ハイドは帰宅を許されていた。簡単な事情聴取を終えて、翌朝またヤードに行くことになっていた。
ウィルクスを迎えると、ハイドはホット・ウィスキーを出した。
「ロシアに来いと言われていると話しただろう? 一週間、出発を延ばしてもいいと言ってもらった。それまでにごたごたを片付けてくるようにって」
「あなたの周りの人間は、なんでも自分の意のままになると思いすぎですよ」
そう言うウィルクスの口調も、それほど刺々しくなかった。座り心地のいい椅子にうれしくなる。ハイドと乾杯した。酒が冷えた体に沁みた。気分も軽くなる。どこまでも進んでいけそうなほど。
「お疲れさま。よく頑張ったね」
そう言って、ハイドはウィルクスの頭を撫でた。撫でられて、顔が緩む。思わず、手のひらに頭を擦りつけた。
「とてもうれしいです」
素直に笑うと、ハイドはその顔を静かに見つめた。
「ミドルトンさんとお幸せに」
「え……? ち、ちがうんです。おれは……」
そこで言葉を失った。ミドルトンさんに抱いているのは恋愛感情じゃない。それを口に出そうとして、ハイドの目に気がついた。彼の目は深く、狼のようだった。ウィルクスは震えた。ハイドが笑った。
「わかってるよ。きみはミドルトンさんがなかったものにされるのが許せなかった。いい男だな」
「いや、利己的な理由もいっぱいあるんです。おれは、同性愛者です。だから、彼女と結婚するとカモフラージュになる。嫌な男なんです。自分の安全のために利用した。おれは……」
「ミドルトンさんもわかっているよ。それを知っていて、きみと結婚することを決めた。きみたちは静かで、控えめで、芯が強い。きっと互いに支え合う、似合いの夫婦になると思う」
「あ……、ありがとう、ございます」
目を伏せるウィルクスを見て、ハイドはくすっと笑った。ウィスキーを一口飲む。
「きみの気持ちは変わらないのか?」
ウィルクスはばっと顔を上げた。
「はい。変わりません」
「そうか」
「じ、実験は成功しましたか?」
「キスのことか。うん。いろいろ興味深い結果を得たよ」
「でも、ロシアから帰ってくるまで二か月ある。おれは、待っています。帰ってきたら、実験結果を教えてください。どんな結果でもいい」
ハイドはうなずいた。二人は黙って酒を飲んだ。あと十日で十二月か、とハイドがつぶやいた。窓の外は霧で、見えない。黄水仙を描いた火除けの向こうで、豊かな炎が躍っている。ウィルクスは暖炉の前に椅子を引っぱっていった。
「ウィルクス君」酒を口に運びながらハイドが言った。「照れてるか?」
「はい」
ウィルクスは炎を見つめたままつぶやいた。耳が裏側まで真っ赤だ。ハイドはそっと背もたれから体を起こした。ウィルクスの耳に顔を近づけ、裏側に唇を押し当てた。
「っ……」
貝の形をした耳がさらに赤く染まる。痛々しいほどだ。ウィルクスは胸を波打たせ、肘掛をつかんでいた。
「不思議だな」
唇を押し当てたまま、ハイドがささやく。低い声がウィルクスの耳を包み、食むように響く。
「きみが可愛く見える。噛みたい」
ウィルクスの体が震えた。肘掛をつかむ指が白くなる。息が当たり、耳をくすぐるたび、体の内側でなにかが弾けた。
「あ……」
前かがみになったまま、つぶやく。
「い、いですよ。噛んでも」
歯がそっと耳たぶに触れた。甘噛みするように、軽く歯を立てる。ウィルクスは上擦った息を吐き、手の中に顔を埋めた。身動きができない。全身が熱かった。脚のあいだが力を得ていくことが恐ろしくて、固く目をつむる。
触れられていることがこんなにもうれしい。欲情で切り裂かれながらそう思う。ハイドの歯は皮の薄い耳の縁をなぞっていた。くすぐるように歯をすべらせ、甘く噛む。慰めるように軽くキスする。
ウィルクスは前かがみになり、微動だにしなかった。体が小刻みに震えていた。興奮のあまり、過呼吸になりそうだ。そんな自分が恥ずかしかった。してはいけないことをしているかもしれない。しかし罪悪感も、悦びでかすんだ。心臓が破裂しそうだった。ハイドさんにとっては、ただの戯れかもしれない。必死でそう自分に言い聞かせるのに、ウィルクスの肉体は正直で、飢えていた。いつのまにか硬くなっていた。
ハイドの唇が離れていった。ぽんぽんとウィルクスの頭を軽く叩く。
「そんなに歯を食いしばったら、欠けちゃうよ」
「……はい」
ウィルクスは椅子の中にぐったりと体をあずけた。ハイドはしばらく、年下の男の顔を見つめていた。初めて見る顔だった。今にもなにかが花開きそうだった。長い睫毛の向こうで、ふだんは鋭い瞳が濡れている。その瞳も今は弛緩して、狂おしく虚ろだった。
その目を見た瞬間、ハイドの背筋に震えが走った。閨房のアルテミス。反射的にそんなことを思う。熱が体の芯を這いのぼる。すぐにそんな自分を切り離そうとした。もがいて、亡きものにする。いつもどおり成功した。だからウィルクスの眼差しや、あからさまな欲情を見ても、もう戸惑わなかった。だが胸の中で、鼓動は今も激しい。
ウィルクスは身じろぎすると、椅子の中で背筋を伸ばした。ウィスキーをぐっと一口飲む。グラスを突っ返して、「ご馳走さまでした」と言った。ハイドがグラスの中を見ると、酒はすべてなくなっていた。
椅子から立ちあがると、ウィルクスは「帰ります」と言った。振り返ることなく部屋から出ていく。ハイドは黙って見送った。
騎士の自分を壊したくないのか。感心すると同時に、ふと思う。壊してみたい。そしてそんなことを思った自分に驚いた。
帰宅して翌朝、ベッドから起きあがったウィルクスはそこにアリスを見た。強気に出る気分にはなれなかった。昨夜のことを夢に見て、夢精していたのだ。
精液を出すだけで、どうしてこんなに気分が急下降するものなのか。おれだけなのか、みんなそうなのか。ウィルクスは寝ていたいと悲鳴を上げる体を無視して、しばらくベッドに座ったままでいた。
「あなた、おかしいわよ」アリスが言った。
「男なのに、どうしてシドを好きになるの?」
「……どうしてでしょうね」
おれが聞きたいよ、と思った。
「ハイドさんは、なんというか、眩しいんです。おれにないものを持っているから」
「シドを巻きこまないで」
「あの人は巻きこまれてなんかいない。おれの暴走です」
「シドはあなたの耳にキスしたわ。それで、巻きこまれていないなんて言える?」
「おれにはわからない」
腹から下を隠す毛布を見つめて、つぶやいた。叫びだしたい気分だった。
「あの人のことは、おれにはわからない。ただ、ハイドさんは優しいんです」
「あの人は誰にでも優しいわ」
「それはわかってる。そこがあの人のいいところなんです。なんにでも揺れ動くのは、たぶん優しいからで、豊かだからだ。あの人はそれをもっと誇りに思ってもいい。優しいから、おれに同情してくれるのかもしれない」
アリスは黙った。
「おれはハイドさんのことが好きだけど、あの人がどう考えているのか、おれにはわからない」
「どうしてわからないの? あんなにも明らかなことなのに」
「おれにはわからない。ただ、キ、キスできてうれしかった」
ベールの向こうの、大きな青い瞳を見つめた。
「一生、その思い出だけで生きていけます」
「一度味わうと、もっと欲しくなるものよ。シドを引き入れないで。シドはわたしといっしょに、静かで穏やかに暮らしていたのよ。なんの心の乱れもないままで。それを、今さら揺さぶらないで」
「でも、揺さぶってしまうんだ。だって、おれは彼が好きだから」
毛布を握りしめる。
「あの人は、超えていける人だから。すべての隔たりを。おれにはそれができないから。だから、もっと近づきたいんです」
「自分だけが幸せになれば、それでいいのね。あの人を犯罪者にする気なのね。シドはあなたが思うほど優しい人間じゃないわよ。そのこと、覚えていて」
そう言い残し、アリスは消えた。ウィルクスはベッドの中でうなだれた。
それでもなんとか気力を振り絞り、着替えをすませる。食卓でぼんやり煙草を吸っていると、大家が呼びにきた。電話だという。ウィルクスはのろのろと階下に降り、受話器を手に取った。
「もしもし? ウィルクスさんか?」
フレデリックの声だった。
「うちの家を脅していた首謀者が死んだそうじゃないか。シドに聞いたよ。これでもう、なんの心配もない。ありがとう」
はい、とウィルクスはうなずいた。疲労と煙草の吸いすぎで頭がくらくらする。それでも、しゃんとしようとした。受話器を握る。
「それに、弟を助けてくれたことも。ありがとう」フレデリックが早口で言う。
「吊るされたらしいじゃないか? あなたは運よく駆けつけてくれた。『愛の力』で。あなたは『アリス』が見えるのか?」
沈黙が流れる。口を開くのには勇気がいった。
「見えます。でもそれは、ハイドさんの命が危ないと知ったアリスがおれに教えに現れてくれただけで……」
「正直に言ってくれ。ウィルクスさんは、うちの弟が好きなのか?」
「……はい」
隠すことはできなかった。フレデリックの口調のなにかが、ウィルクスに本当のことを言わせたのだ。
「そうか」フレデリックはつぶやいた。
「同性愛には嫌悪を感じるが、理性的に考えるとそういう性愛の形もあると認めざるを得ない」
きっぱりと言った。
「同性愛が罪深いというのはキリスト教の価値観だ。イギリスで生きるなら確かに重要視される価値観ではあるよ。ただ、あくまで価値観の一つだ。それから、慣れの問題でもある。自分の性愛の傾向について疑問を持つことなくいちゃついている異性愛者ばかり見慣れていたら、数の少ない同性愛者は奇異に見えるよ。要は見る側の問題だ」
フレデリックはさらに言った。
「シドがうれしそうにあなたの話をしていた。あなたがいかに立派な刑事か、しっかりと守ってくれたか、でも可愛い人だということを。幸せそうだったよ」
「そ、れは、どういう……」
「だが、イギリスの法律には背くことになる。ソクラテスは裁判にかけられたとき、こう言った。悪法ではあるが、法は法だと。わたしは自らここに好んで住み続けているから、法律には従う。そして処刑された。やったことは返ってくる。シドにも、そのことを言っておくよ」
そう言って、電話は切れた。
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