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隔たりの恋人#1

 その日は結局、事情聴取で一日が終わった。ヤードは大混乱だった。ホルロイドが死に、ゴドフリーが逃げたことで、自首する人間が大勢出た。関連していた組織や会社が次々と明るみに出た。  それだけではない。マクベイン事件の犯人、エヴァンズがついに口を割った。彼は、自分はホルロイドの義弟だと言った。会社の金をホルロイドに流していることを部下に知られ、殺害したという。ホルロイドがいなくなった今、黙っていることはできない。せきを切ったように話しだした。  ウィルクスはエヴァンズの取り調べをしたし、自分自身も事情聴取を受けた。ハイドもヤードに事情聴取に訪れた。二人は同じ時間にヤードにいたが、一日中すれ違いだった。  ウィルクスが自宅に帰れたのは深夜零時を過ぎたころだった。疲れていた。体が動かない。それでも、事件を解決できたという興奮で頭が冴えていた。ホルロイドが牛耳っていたファミリーはかなり巨大で、イギリス中に根を張り、凶悪だった。それが壊滅したことに深い喜びを覚える。  着替えるために上着を脱ぎ、ベストを脱いでいると、玄関のベルが鳴った。出てみると、ハイドだった。自分の格好が気になる。アンダーウェアで応対に出るようなものだ。 「すみません、こんな格好で」  ガウンを羽織ってこようとすると、ハイドに引きとめられた。あがっていいかと尋ねられて、うなずく。 「どうぞ。散らかってますよ。なにか飲みますか?」  そう言いながら、戸棚をあさる。ウィスキーがあったはずだ。たぶん、そんなに古くなっていない。ゆうべのことを思いだすと、また耳が赤くなりそうだった。情けない。自分を叱咤する。グラス二つにウィスキーをついで、ハイドの前まで戻った。ハイドは居間のテーブルの前で、あたりを眺めまわしていた。 「きみの家に初めて入った」 「たいしたものはないですよ」  その言葉のとおりだった。ウィルクスは散らかっていると言ったが、そもそも散らかるほどのものがない。殺風景なハイドの居間と似ているようで、もっと寒々としていた。 「ほんとは、寮に住めればいいんですけど」とウィルクスが笑う。 「おれ、男を好きになるから、共同生活が苦手で。むりして一人暮らししてるんです」 「きみが一人暮らしでよかったよ。……隣の人はまだ出張中?」 「ええ」 「座っていいか?」 「あ、どうぞ」  逞しい体躯のため、ハイドが腰を下ろすと椅子がよけいちゃちに見える。ウィルクスは少し椅子をずらし、テーブルを挟んで彼の右斜め前に座った。酒を飲む。胃がかっと熱くなった。そういえば、ろくに食事もしていない。ハイドも手袋を嵌めたまま酒を飲んだ。 「きのうは、よく眠れた?」  ウィルクスは慌ててうなずいた。アリスのことは話さなかったが、フレデリックから電話がかかってきたことは言うことにした。シドにも言っておくと言っていたから、きっと話しているのだろうと思ったのだ。 「フレデリックさんが、今日電話を掛けてきて……」  そう口に出すと、ハイドに遮られた。 「うちにも掛かってきた。『ウィルクスさんが好きなのか?』って言ってたよ」  酒を飲み、ウィルクスの目を見つめる。 「ぼくが答えると、フレッドはこう言った。『おまえがまっとうな幸せをつかむなら、わたしはそれでいいと思う』って」  ウィルクスは息を吸った。鼓動がうるさい。ハイドの声が遠かった。 「あなたはなんて答えたんですか?」 「これがまっとうな幸せなのか、ぼくにはわからない。でも、まっとうじゃなかったとしても、探究しがいがあるって」 「まるで実験だ」 「フレッドもそう言ってた。そして、『二人で誰もが信じる嘘をつくように』って」  ハイドは微笑んだ。柔らかな笑顔だった。ウィルクスの心を溶かし、肉体を溶かした。今、ウィルクスはなにも怖くなかった。  そう思ったのは一瞬だった。すぐに体が震える。やったことは返ってくる。犯罪者になるかもしれないし、この国にいられなくなるかもしれない。イギリスを離れて生きていける気が、ウィルクスはしなかった。だが、そんな事態になるのも、相手があってこそだ。  ハイドは飲み干したグラスをテーブルに置いた。ウィルクスもつられたように飲み干した。 「ロシアに行く前に、気になることを確かめに来た」ハイドは言った。 「きみはぼくとセックスしたいのか?」  ウィルクスの体がかすかに跳ねた。怒った顔で視線を伏せる。直接的な言葉に、体が揺れた。しかし、酒が回ったせいだろうか。ウィルクスは視線を上げた。 「おれは、あなたに抱かれる夢を見て夢精していました」  しかし耐えきれず、また視線を伏せる。 「あなたに、抱かれたいです」 「そうか。なら、抱かせてもらうよ」  弾かれたようにハイドの顔を見た。狼だった。獲物を見つけて狙いをつけている。青い瞳が揺らぐことなくウィルクスの目を見つめる。  椅子から腰を上げたハイドに、ウィルクスの体がびくりと強張る。ハイドは前かがみになり、そっとウィルクスの唇に口づけた。一瞬だった。唇を離して、ハイドは言った。 「父からは、男はときに礼儀として女性を抱かねばならないことがある、と教えられた。今のこれは、礼儀じゃない。きみが欲しい」  そのとき、ハイドが勇気を出してくれたのだとわかった。電流が駆け抜ける。体が震えて、耳に血がのぼった。こうなりたくて、酒を用意した。ウィルクスはそのことに気がついた。   ハイドの腕をつかむ。 「ハイドさん。おれ……ほんとは、あなたとセックスしたかったんです」  言葉が溢れ出す。 「ずっと、あなたとしたかった。ずっと欲情してたんです。おれはいろんな男の夢を見る。ろくに人を愛したこともない。だから、おれに愛はわからない。でも、あなたが好きだ。あなたとしたい」  とめどなく溢れる言葉を、ハイドは唇で塞いだ。ウィルクスは息を吸い、上唇をそっと、撫でるように噛んだ。薄く開いた口の中にハイドの舌がすべりこんでくる。 「ん……ふっ……」  息を漏らし、ハイドの舌にすがりついた。舌先が触れあうと、電流が全身に走った。夢とは違う。もっと熱くて、深い。まだキスしかしていないのに、ウィルクスは壊れてしまいそうだった。もっと触れあいたい。そう思うのに、舌は彼の思いを裏切っている。身をすくめて動けなくなり、ハイドの口の中で固まっていた。ハイドはあやすように、ささやくように舌を絡め、ウィルクスの緊張をほどいていく。必死にハイドの上腕をつかんだ。彼が痛みを覚えるほどきつく。  相手のいちばんいいところを見ようとするように、唇を交わした。ハイドは優しかった。ウィルクスが息継ぎにもたついていると、唇を離して待つ。彼が息を吸いこむと、また唇を塞いだ。  その優しさに、ウィルクスは焦っていた。もの足りないんじゃないか、と思う。ハイドのキスは身を投げた体を抱きとめるようだった。ウィルクスがどんなに的外れなことをしても、必ず包みこむ。そして、逃がさないように手はがっちりと顎を捕らえていた。 「は……んっ……」  夢中で舌を絡め、ハイドの舌に自分を擦りつける。どうしたらハイドさんは悦んでくれる? それがわからず、むしろ翻弄されている。ハイドの舌が口蓋をなぞった。ウィルクスの体がびくっと跳ねる。過敏な反応を返す体に恥ずかしくなって、ますます赤くなった。息が吸えなくなり、「は、は」と声を漏らす。酸素を求めてもがいた。  ハイドはウィルクスの顎をつかみ、ときおり彼の頭を軽く傾ける。それでキスをコントロールしているのだ。舌を絡めるのも、息継ぎも、ハイドがすべて管理していた。ウィルクスはそれに気がつく余裕がない。軽く吸われ、舌を舐められるたびに体をびくつかせる。脚のあいだが張り裂けそうだった。  欲情が尖って、体を串刺しにする。ばらばらになりそうだ。ハイドさんとキスしてる。その事実がウィルクスをさらに昂ぶらせる。ペニスはもう硬くなり、窮屈そうにズボンを押しあげていた。  ハイドが唇を離した。ウィルクスは震える手で顎を拭いた。唾液でどろどろだった。 「ウィルクス君」  ハイドが耳元でささやく。 「ベッドに行こうか」  ウィルクスはこくりとうなずいた。しゃがみこみそうになって、ハイドに支えてもらう。真っ赤になり、視線を伏せた。涙が溜まっている。 「お、おれ、だ、誰とも、セックス、したことなくて……」  がたがた震えそうになる体をなんとか抑えようとした。ハイドの顔を見て、むりに笑顔を浮かべる。 「す、すみません。き、緊張で、死にそう……」  その顔がハイドにとどめを刺す。いつもの刑事の顔とは違う、緩みきった表情だ。凛々しい眉毛が八の字になっている。今にもハイドの腕の中で倒れそうだ。もうどうにでもしてくださいと言わんばかりだった。  ハイドは素直に感動した。ここまで初々しい男がいるのかと思った。「大丈夫だよ」と耳元でささやく。 「きみが誰とも寝たことがないって、知ってたよ。きみは婚前交渉をするようなタイプじゃない。真面目で、責任感が強いから。大丈夫。って言っても」  ハイドの声もわずかに上擦っていた。 「ぼくも男は初めてなんだ。でも、予習してきた」 「予習?」  ウィルクスの腰を抱き寄せる。背骨の窪みに手がしっくりと添う。手袋を外したいと思った。裸の手で、彼の体に触れたい。抱き寄せたまま、ささやく。 「発禁本コレクターが知り合いにいてね。同性愛の本を読んできたから」  ウィルクスの顔が真っ赤になる。じたばたとハイドの腕の中で身をよじった。 「大丈夫」力強く抱き寄せて、ハイドはもう一度言った。 「怖がらないで」  ウィルクスは震えながらこくりとうなずく。本当に、なにも怖くない気がした。きつく抱きしめられて、ハイドの腰に昂ぶった性器を押しつけた。すべてばれてしまう。そう思った瞬間、自由になった。 「寝室、どこ?」  ハイドが尋ねると、ウィルクスは震える手で扉を指した。ハイドに手を引かれ、寝室に向かう。広い背中に頬を押しつけた。今まで汚らわしいと思っていた自分の体が軽い。

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