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隔たりの恋人#5

 しかし、一瞬だった。目を開けると、ハイドが出ていったところだった。ウィルクスは急に激しい抑鬱を感じた。虚無感に苛まれる。そして、罪悪感。法を破ってしまった、してはならないことをした。その事実に震えた。  ハイドは隣にもぐりこんできた。ウィルクスの髪をそっと撫でる。ハイドの手の重みが、このときのウィルクスには苦しみだった。 「きみの顔はいつも凛々しくてかっこいいのに、セックスのときにはあんなにゆるゆるになっちゃうんだな」  呼吸を整えながら、ハイドがささやく。ウィルクスは目を伏せて、笑みを浮かべた。 「自分では、わからなく、て」  声がかすれていた。涙がにじむ。ハイドはまだ頭を撫でていた。 「どの顔も、ぼくは好きだよ。凛々しい顔も、どろどろになった顔も、泣き顔も」 「……おれ、自分の顔、きらいなんです。もっと可愛くて、それから小柄だったら、愛してくれる男もいるんじゃないかと子どものころから思ってた。でも、おれの顔は怖いままです。でも……」  そう言ってくれてうれしい。そう言いたかったのに、言葉が出なかった。 「よかったよ」  ハイドが言った。ウィルクスの頬に涙が流れる。 「おれも、よかった。でも、法律、破ってしまった」 「しかたなかったんだよ」 「で、も……」  ウィルクスはハイドの顔を見た。優しい目が見返す。その目を、ウィルクスは猛烈に責めたくなっていた。言葉が溢れだした。 「したら、解放されると思っていた。自分の『魂』を受け入れられると思ってた。でも、セックスしたらますます怖くなっただけだ。失いたくない。怖いんです」  そうか、とハイドは言った。ウィルクスは視線を伏せた。 「あなたは怖くないんですか?」 「怖くないよ」 「また、麻痺させたんですか?」 「そうだ」 「すみません」ウィルクスは声を震わせた。 「射精して、滅入ってるだけなんです。責めるようなことを言ってごめんなさい。でも、おれ……あなたが、泣いてくれたらって思ってしまう。おれといっしょに。怖いって泣いてくれたらって、思ってしまうんです」  ハイドはしばらく黙っていたが、ぽつりと言った。 「アリスに聞いたよ。きみは、ぼくがすべての隔たりを超えていける人間だと思っていると。でも、付き合った相手からはことごとく言われてきた。『あなたとのあいだに隔たりを感じる』と」  ウィルクスは顔を上げた。ハイドの顔はとても疲れていた。 「『いつも、あなたを遠くに感じる』と。きみもそうか?」 「おれは……」  確かに感じる。隔たりを。 「すまない」ハイドがつぶやいた。 「ぼくは、泣けないんだ。きみといっしょには。どうしても、そうならないように、自分を守ってしまうんだ。自分でつくった隔たりを飛び越えて、きみの元に行けないんだ」  そのとき、ウィルクスは思った。おれが行く。傷ついてもいい。何年、何十年、一生かかってもいい。 「おれが行きます」  そう言ったら、ハイドはウィルクスの体をぎゅっと抱きしめた。 「ありがとう」  声が少し震えていた。ウィルクスも背中に腕をまわす。そのまま、二人で眠った。  それから、ハイドはロシアに旅立っていった。ウィルクスはアリスになじられるものと思っていたが、それはなかった。法律違反をしてしまったことに怖くなってしばらく眠れなかったが、ハイドが行ってしまうととても寂しかった。また会いたいと思った。  ウィルクスは推薦をもらい、昇進試験を受けることになった。シンシアと結婚した。そして、彼女の家で共に暮らすことになった。  ウィルクスに淡い恋心を抱いていたマーゴットは落ち込んで、主人から休みを与えられたのを幸いに、しばらく実家に戻ることにした。  マクベイン事件やホルロイドが殺された事件がひと段落したころ、ウィルクスはアイザックに食事に招かれた。ヨークシャーに出掛けると、広大な緑地の中に煉瓦を積み上げたマナー・ハウスがそびえていた。厩があり、元気な黒い馬が何頭も草を食んでいた。雪が降った日で、あたりはしんとしていたが、屋敷の中は思ったほど静まり返っていなかった。アイザックとその妻、成人した二人の息子、そしてフレデリックも招かれていた。  アイザックは長身で波打つ黒髪の、輝くばかりの美男だった。ハシバミ色の瞳でじっと見つめられると、ウィルクスは自分がなにを言いたいのか、言えばいいのか、わからなくなった。笑顔はあたたかく、美しいのに内面を読ませなかった。 彼はウィルクスに事件解決の礼を述べ、ボルドーを産地とするワイン、シャトー・ペトリュスを勧めた。妻は優しく親切で、息子二人は父と同じく美しく、ウィルクスに冷淡だった。しかし、公平に考えて、アイザックさんはおれに親切だった、ウィルクスはそう感じた。  屋敷を出るとき、フレデリックがウィンクしてくれた。それだけで、ウィルクスは軽い足どりで帰っていけた。  二月にさしかかるころ、ウィルクスとシンシアの家の電話が鳴った。応対に出たシンシアは「あら」とうれしそうな声をもらした。 「ええ。元気です。わたしもあの人も。ええ。代わります」  彼女は居間のソファを覗きこんだ。夫は寝ころんで、シンシアに借りた『嵐が丘』を熱心に読んでいる。 「エド、ハイドさんからお電話よ。帰っていらしたんですって」  ウィルクスは飛び起きると、矢のような勢いで電話に出た。電話から聞こえる声は回線の乱れのために少し歪んでいたが、しかしまぎれもなくハイドのものだった。 「久しぶりだな、ウィルクス君」  快活な声が言った。ウィルクスは受話器を握りしめ、声が震えそうになるのを抑えた。 「結婚してこっちに住んでると聞いたから電話したよ。元気にしているそうだね」 「あなたは?」  それだけ言うのがやっとだった。 「ぼくは元気にしている。凍死するかと思うくらい寒かったよ。だが死んではいない」  相変わらずですね、と言って、ウィルクスは言葉に詰まった。飄々としたハイドの声は二か月前と変わっていなかった。そのことに、胸が張り裂けそうなほどの愛おしさを覚えた。 「ウィルクス君、これからちょっとうちに来ないか?」 「行きます。待っててください」  ウィルクスは妻に出掛けてくると言った。彼女はカウチにもたれかかり、腹を撫でながら行ってらっしゃいと微笑んだ。  ストランドにあるハイドの事務所に寄るのは、ウィルクスにとって久しぶりではなかった。ゴドフリーとホルロイドの件があってから、このあたりは捜査対象地域になっていた。  緊張で心臓が張り裂けそうだ。ベルを鳴らすと、しばらくして扉が開いた。ハイドが顔を覗かせる。 「ハイドさん、あの……」  あまりに久しぶりで、ウィルクスはしどろもどろになりながらハイドの顔を見つめた。その瞬間、涙がこみあげてきて、慌てて仏頂面をつくった。 「さあ、あがりたまえ」  ハイドはにっこり笑ってウィルクスを中に通した。事務所はいつものとおりだった。使用人たちが勤勉に働いたらしく、木の階段には塵ひとつ落ちていない。今、ホプキンスもマーゴットもいなかった。二人は黙って階段をのぼり、事務所に足を踏み入れた。暖炉では火が赤々と燃えていて、ウィルクスの胸にも勇気を灯した。  ハイドは彼を暖炉のそばのソファに座るようにうながした。青と紫が縞になった地に、白い貝殻の模様が織られている。座ってみて、ウィルクスは落ち着かなかった。極上の座り心地で、以前この部屋にはなかったものだ。 「ロシア土産なんだ」とハイドは言った。隣に腰を下ろす。それだけでウィルクスの心臓は跳ねた。ハイドはちらりと彼の左手に嵌った指輪を見た。 「結婚生活はうまくいってるのか?」  ウィルクスはうなずいた。 「うまくいっています。その、寝室は別ですが」 「ウィルクス君」ハイドがささやいた。 「きみはあいかわらずぼくのことが好きなのか?」  鼓動が跳ねあがったが、ウィルクスは仏頂面をつくってうなずいた。二人はしばらく黙った。風が窓ガラスをひかえめに叩いて通り過ぎた。ハイドがふたたび口を開いた。 「ロシアに行っているあいだに、実験の結果について考えるといったね」  ウィルクスはうなずいた。動悸が激しくて、苦しい。セックスはしたが、愛しているとか、好きだとかは、ハイドの口から聞いていない。  いつのまにか、二人の目の前にアリスが立っていた。燃える目でハイドを睨みつけている。 「ついに言うのね」 「ああ、言う」  ハイドはウィルクスの目の奥を覗きこんだ。 「フレデリックを見習って、端的に言うよ。きみが好きだ」  ハイドは微笑んでいた。 「きみを愛していると、自由になれる気がする。好きだよ、ウィルクス君。きみは可愛いし、愛しい。そしてきみの勇気と気高さを崇める。もっときみのことが知りたい。それにぼくはきみとするキスが好きだ。静かで、炎が躍って、音楽がある。新しい可能性が見えるんだ」  ウィルクスはぼうっとしてその言葉を聞いた。言葉は衝撃波のように、毛布のように、彼を包んだ。 「人はそれを恋と言うのよ、シド」アリスがつぶやいた。「わたしのときといっしょだわ」 「恋」  ウィルクスもつぶやいた。ハイドの目が輝いている。 「恋なんてもう二度としないと決めていたけど、自分のことは信用ならないね」 「おれに、恋……」  つぶやくウィルクスの体を抱き寄せ、ハイドはそっと口づけた。 「一生つきまとうから!」  怨嗟を吐いて、アリスは霧のように消えた。  唇を離し、見つめあう。ふいに、ほんのかすかに、ハイドの顔が歪んだ。 「でも、きみに話しておかなければいけないことがある。きみを愛すれば愛するほど気がつくんだ。自分以上に愛おしいものはないと」  体を離して、静かに言った。 「だからぼくは隔たりを超えていくことができないんだと思う。ぼくは乳母のことが好きだった。とても好きだったんだ。でも、彼女が亡くなって気づいた。ぼくは未来を失った彼女を思って悲しむのではなく、彼女を失った自分を憐れんでいたんだって」 「でも……それは当然では?」  ウィルクスはハイドの手首をつかんで、目の中を見つめた。 「おれだって、あなたがいなくなれば悲しい。それは、おれも、自分を憐れんでいるのかもしれないけど。本当には、あなたを愛せないのかもしれないけど」  ウィルクスの唇は震えていた。決して勝つことのできない敵に向かっていく騎士のように、彼の目は輝いていた。  ハイドはウィルクスの体をきつく抱きしめた。 「行きたいんだ。きみの近くに。もっともっと、ずっと近くに。同じ速さで歩いていたいんだ」  腕の中で、ハイドの首筋に顔を押しつける。その言葉が、どこに通じるどんな扉が開くよりもうれしかった。 「ぼくは自分の力では、隔たりを超えられない。だから、一度死ぬしかない。きみに殺してもらうしかないんだ」 「おれは、どんなあなたでもいい」  ハイドの背中に腕を回し、抱きしめる。抱かれた体が強張った。 「そんなことはありえない」 「ええ。ありえない。憎むこともあるかもしれない。ハイドさん、おれ、弱いんです。だからこそ、どんなあなたでもいいって言いたかった。それがおれの夢なんです。闇に落ちていくだけでも、隔たりを超えられなくても、自分のことがいちばん愛おしくても、怖くてたまらないものがあっても。おれも同じだから。ほら、もうこんなに近くですよ」  腕にぎゅっと力を込め、顔を上げると、ハイドの目は濡れていた。  泣かない人だと思っていた。ウィルクスはもう一度、強く抱きしめた。 「そうか。きみはぼくの闇から現れたんだな」  耳元で、ハイドがつぶやいた。 「ハイドさん……」 「シドでいい。二人きりのときは」  ウィルクスの体を抱きあげる。バランスを崩して、ウィルクスはハイドの首にしがみついた。ハイドはそのまま歩き、ウィルクスの体をソファの上にそっと横たえた。  目を丸くしているウィルクスに口づけ、瞳の中を覗きこむ。 「きみと添い遂げる。その決意を見せる」 「え? え? え……っ!」  ハイドはゆっくりと覆いかぶさり、荒々しいキスをした。 「まったく、最近は恐ろしい世の中ですな」  突然やってきた客が、階段をのぼりながらハイドの後ろで深いため息をついた。 「いったいイギリスはどうなってしまうのか……。でも、新聞で読みましたよ。ハイドさんが、あの恐ろしい組織を壊滅させたそうですな。ほら、ホル……なんとかっていう」 「ホルロイド」 「そう、それ」  客は満足そうだった。短い足を動かしてハイドのあとをついていきながら、にっこり笑う。 「あなたのような方に依頼すれば、もうなんの心配もいりません。なにせ、『不死身の探偵』ですし」 「あの、ところで」  事務所の扉の前で立ち止まり、ハイドは言った。 「中にもう一人客がいるんです。その……疲れていて、眠ってしまって」 「それで?」 「あなたに挨拶したらたぶん帰ると思いますから、お気になさらず」  そう言って、衣服の乱れを確かめるようにズボンに触れた。 「お友達ですか?」  ハイドは微笑む。 「命の恩人です」 「ああ、あの刑事さん! 新聞で読んだ! これは幸先がいい。幸運の天使ですな」  はしゃぐ依頼人に笑顔を返し、ハイドはドアノブを回した。  こうして事務所では眠りから覚めた若き刑事が、照れを隠した不機嫌そうな顔で探偵たちを出迎えるのだった。

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