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第1話 年齢不詳の女

 柴田尚志(しばたひさし)はぼんやりと絵を眺めているのが好きだった。  特に誰の絵というわけではなく、いろんな絵を見るのが好きだ。他人の絵は勉強になるし、絵を見ればその裏にいる描き手の人格が見えてくる。  絵を描いて生きてゆければそれが幸せだと思っていた。  その為に今は美大に通っている。色彩に埋もれている時間は一番居心地が良く、一人で何時間だって絵と向かい合っていることが出来た。  父親が経営する画廊の隅に、自分の絵も置いて貰っている。  息子だからって無条件で飾るような父親ではない。尚志はお世辞にも出来た息子ではなかった。見た目からしても、いわゆる愚息と呼ばれても仕方がなかった。色の抜けた短髪も、20箇所近く開いているピアスも父には大変不評だった。  一見体育会系と思われそうな鍛え上げられた筋肉質の長身も、繊細さに欠ける という理不尽な理由で、父の好みからは外れるようだ。それでも絵のセンスは認めているらしかった。  尚志の5つ上の兄、尚弥(しょうや)などは既に父親の逆鱗に触れて勘当されている。厳しい父だったが、そのわりに子育てには失敗している気がした。尚弥は男であることを半分捨てているし、尚志も可愛い男ばかりを好きになるような性癖の持ち主だ。  唯一普通に育っているんじゃないかと思うのが、尚弥の上にもう一人いる長兄の尚生(なおき)くらいのもので、それにしたって堅物過ぎて彼女の一人も出来やしない。  きっと女の子が欲しくて頑張っただろうに、全部男。育てた息子も、嫁を連れてくることなんてなく女っ気はカラカラに乾いている。  ……母の存在をうっかり忘れた。女っ気、ほんの少し。  誰かが画廊に入ってきた。入り口の扉についたベルが鳴っていたが、尚志は別に何かをしたりはしない。  客が入ってきても、放っておくことが多い。いたずらされたりしなければ、勝手に見て、欲しければ買えばいいし、見たいだけならそのまま見ていれば良い。少なくとも尚志が留守番をしている時はそうしていた。  客が怖がると思っているのか、接客はしなくていいと言われていた。本当にとりあえず人がいれば良いという感じでそこにいる。父はよく新しい絵を物色しに留守にするから、暇ならその間だけ店番をしてやっていた。それは別に苦ではない。 「ねえ、誰か」  若い女の声が聞こえた。尚志は少し億劫そうに立ち上がり、持っていたスケッチブックを置いて声のした方に足を向けた。 「誰かいません?」  長い髪が、こちらを振り返って揺れていた。尚志の姿を捕捉した彼女は、一瞬困惑したように立ち止まって、ラブレット……唇の下に刺さった円錐形のピアスを凝視している。  尚志の姿は、画廊という場所にすんなりとは溶け込まない。しかし相手の反応は別に慣れていたから、気にすることもなかった。気にするのは客だけだ。 「いらっしゃい」  客が怯えないように笑顔を浮かべ、怖くないですよとアピールする。尚志の声は和やかで、喋れば警戒心はほどなく解ける。少女にも見える客は安心したのか、強張った肩の力を抜いた。 (ミニマム……)  尚志は心の中で呟いた。  183センチある尚志と比べると、彼女はあまりに小さく、子供のようだった。多分30センチ定規をその頭上に立ててみても、少し足りないのではないか。それに加えての童顔。猫のようにちょっときつめの、大きな目。色白で、小ぢんまりとした輪郭。美少女の部類に入れてもいいのではないか、と女には興味のない尚志でも思った。恋愛対象ではないが、可愛いものは好きだ。  ロリータ服なんかが似合いそうだった。ああいった類の服も、可愛らしいから好きだ。自分が着る気はさらさらないが、友人に着せては楽しんでいる。 「あの絵、なんて人が描いたの?」  彼女が指差す方を追うと、見慣れた絵が掛かっている。  名前は書いていない。  あれは自分が描いた絵だ。とりあえず飾ってあるだけの。 「あれは、俺が」 「……あなたが?」  彼女はびっくりしたように大きな目を更に大きくし、尚志をもう一度じっと検分する。  絵なんて描きそうにない外見。ていうかなんでここにいるの? というような外見の男だ。相手の反応は非常にわかりやすい。わかりやすいのは嫌いではない。  彼女は高天原未雨(たかまがはら みう)と名乗った。なんだか大層な名前だが、本名だろうか。別にどちらでも良かった。 「これ、売り物じゃないの?」 「値段つけるようなものじゃない」 「そう……」  どこか残念そうな声色。自分の絵が欲しいのだろうか、未雨は。何か彼女の心に残ったのだろうかと思ったら、少し嬉しい気がした。  別に譲ってもいい。また描けば良いのだ。尚志は自分の絵を後生大事に持っている趣味はなかった。描くことに意味があり、保管することにはあまり興味はない。描いたものは今後の為にデータ化して保存してあるから、実物はなくても別に良い。父はそういう考えではないようだが。 「持ってく?」 「え? だって、売り物じゃないんでしょう」 「気に入ったんだったら」 「……いいの?」  遠慮がちに尚志を見る未雨は、やはり猫のような雰囲気だ。一体いくつなんだろうと思ったが、年を聞くのもどうかと思いとどまった。 「じゃあ、せめて何かお礼しないと」  未雨は嬉しそうに微笑んで、どうしようかと考え始める。 「そうだ、食事に誘ってもいいかな?」 「はあ?」  何を言うのかと、尚志は苦笑する。もしかして逆ナンされているのだろうか。しかし女には興味がない。 「駄目かな?」  請うような上目遣いに、変な女だなあと思ったが、何故か断ることも出来なかった。相手の好意を無にすることもない。食事くらいだったら、別になんのことはなかったし、食べることは好きだった。 「じゃあねえ、今夜またここに来ていい? 何時に終わるの?」  妙に楽しそうにしている未雨に、やっぱり断れば良かったのだろうかと頭をよぎった。食事以上のことは、期待しないでもらえたらありがたい。  けれど、自分の絵を気に入ってくれたことに対しては、素直に嬉しかった。

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