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第12話 美しい雨
だけどちゃんと芽吹く種が落ちていることもある。
二ヵ月後、梅雨に入る少し前のこと。尚志は非常に腑に落ちない光景を見る羽目になった。
未雨は妥協を許さない。ピアススタジオで働く選択はさせないつもりらしく、責任を持って世間に認めさせるから肝に銘じろ、と言い放たれた。どんな女だ。
そんなわけでまだ絵本は仕上がっていない。何度も駄目出しをされ、描き直しに描き直しを重ねている最中だ。それはいい。自己鍛錬だと思えば済むことだ。 今の所展典に愚痴ることもなく、なんとか持ち堪えている。
だけど誕生日も祝ってもらったことだし、先月過ぎてしまった彼の誕生日も祝ってやらなければならない。だから近々会うことにはなっていた。
坂井とは、未だにたまに会っては寝ている。心は求めないと言った彼は、本当に体しか求めないような男だったが、どこかに坂井が心を求めるような誰かがいればいいのに、とも思っていた。
心の伴わない関係など、虚しさが募るばかりだ。
未雨に会ってから、なんとなくそう思うようになった。
種は、必ずどこかに落ちている。見つけることがなかなか出来ないだけで、どこかにあるはずだった。
それがたとえば、尚志がとても手に入れたいと願っている光じゃなかったとしてもだ。勿論、そうであれば一番いい。だけど先のことはわからない。
未雨はミーティングとモデルを兼ねて何度も柴田家に足を運ぶことになった。
その度に「芽吹く種」とも親しくなったらしい。奇跡的なことだったし、信じがたいことでもあったが。
この前家に帰ったら、特に約束していなかったのに未雨が来ていたので何かと思った。長兄の尚生と楽しそうに話していた。
楽しそう、なのだろう、多分。終始淡々としていて、他人からしてみれば静かなる対話にしか見えないのだが。
(……な、尚生)
信じられなかった。あの堅物の兄が仕事抜きで女と喋っている。会話が成り立っている。
尚生は結構読書家だったから、それで話が合ったのかもしれない。今思えば、尚志が初めて未雨を連れ帰った晩の兄の態度はどこかおかしかった。もしかしてあの時に一目惚れでもしていたのだろうか? 言いたくはないが、もしかしてロリコンなのか?
ついそんなことを尚生に聞いたら、あくまでも物静かに、「断じて違う」と返された。
まあ、理由はどうでもよかった。
今日も帰ってきてから未雨を描いていたが、ふと言わなければならないことがあったのを思い出した。
「黒川さんとこ行ってきたよ」
彼の絵が好きだったこともあり、一度どうしても見舞っておきたかった尚志は、未雨に頼んで病院を教えてもらった。
未雨はもう、瑞保に会う気はないようだった。会いたくない、というわけではないことも知っている。あえて会わないのだ、未雨は。
「……ふぅん」
つまらなそうに呟きながらも、尚志の次の言葉を待っているような表情が垣間見えた。未雨は素直じゃない。一筋縄では行かない女だった。
「リハビリ、ちゃんとしてた。あとなあ、弟子だとは言ってたけど、なんか実は恋人っぽい男が甲斐甲斐しく世話してたわ。良かったな」
「何が?」
「いや別に」
実に素直じゃない。
本当は瑞保が孤独じゃないかって心配してるくせに、絶対に言わない。リハビリしてるのが嬉しいと思ってるくせに、それにも触れない。生きにくいのではないかと人事ながら心配してしまう。
助手席のクマは瑞保だったのだ、と彼に会ってから気づいた。
未雨がたまにクマの右手をにぎにぎと触っていたのは、多分、瑞保の右手が良くなって欲しいという内心の表われだ。
勿論未雨はそんなことは言わない。ただ、あの席に瑞保がよく座っていたとだけ教えてくれた。
不器用だ。
本当に書くことばかりしていて、人並みの感情表現をうまく表に出すことが出来ないのかもしれない。それを言ったらきっと、「違うから」とか冷たく返されるのがオチだろうが。
だけど尚生といる時の未雨は、少しばかり女らしいと感じる。尚生は絵なんて描かないが、それでも一緒にいるのは苦痛ではないようだった。
芽吹いたとして、花は咲くのだろうか。
咲けばいいと思う。それとも自分が知らないだけで、もう咲いているのだろうか。
尚志の口出すことではないので、その件に関しては何も言わない。
とにかく描くだけだった。
筆を握り、未雨を見つめながらどうでもいいことを尋ねる。
「なあ。あんたほんとは、なんていう名前なの」
いきなりされた質問に、未雨は怪訝な顔をする。
「突然何? 高天原未雨に決まってるじゃない」
「それ本名だったんだ? ペンネームかと思ってた」
「――ペンネームだけど。本名が知りたいわけ? つまらないことを聞くのね」
何故か嫌そうな未雨。
言いたくないような本名なのだろうか。
まあ別に、なんとなく聞いただけだし、教えてくれなくてもまったく支障はないのだが。
とか思っていたら、意外とあっさり教えてくれた。
「本当は『美しい雨』と書いてミウと読むの」
苗字は教えてくれなかった。
もうすぐ、雨の季節が始まる。
いい加減に未雨の気に入るものを上げなければならない。いつまでも彼女に恋していてもこの身が持たない。未雨と自分との間には、絶対に花が咲くことはないのだから。
尚志は無駄口を叩くのはやめにして、絵と向かい合った。
「随分と真剣な目をするのね」
前にも似たような科白を聞いた気がした。
絵を描いてる時の顔はわりと好きよ、と唇だけで未雨が笑った。
終
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