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第11話 干乾びた大地
「おはよう、尚志くん」
にこにこと隣で微笑んでいる坂井に、一瞬どこにいるのか把握出来なかった。
「あれ……俺、寝てたんだ。今何時?」
「朝の7時ちょい。随分ぐっすり寝てたよ。疲れさせた?」
「……いや別に」
言われて、少し口元が引きつる。
昨夜の坂井は、確かにこの前とは違って随分健闘してくれたようだった。栄養ドリンクでも仕込んだのだろうか……実に癪だが、結構良かった。思い起こすとちょっと恥ずかしくなるので、忘れることにする。坂井の言うとおり、ああいう自分をあまり認識したくないのだ。だが済んだことをいつまでも引きずるのは良くない。
確かに若干疲れたが、それが原因で眠り込んだわけではない。昼間未雨を描くことに集中していたから、それで頭が疲れたんだろうと思う。泊まる気はなかったのだが、眠り込んでしまったのなら仕方なかった。
「ちょっとシャワー……」
前回秒殺されて傷ついたであろうプライドが回復したらしく、非常に満足そうな坂井を尻目に、裸のまま浴室に向かう。自慢の肉体に注がれる熱い視線を感じながら、隠すこともしない。今更隠しても、という思いと、見たいならいくらでも見ろよ、という自信。
調整が上手く出来ず、少しぬるめのシャワーを浴びながら、覚めやらぬ頭で暫しぼんやりする。
夢の中でも未雨を描いていた気がする。昨夜客間で目覚めた未雨が、不思議そうに、手を動かしている尚志を見ていた。
「随分と、真剣な顔をするのね」
ラブソファから身を起こしてこちらを向いた未雨の表情は、どこか意外そうだった。仕上がった作品は見たが、描いている最中を未雨が見たのは初めてだった。
「勝手に描き始めちゃって、悪かったな。でもよく寝てたんで」
「柴田くんが私をここに運んだの?」
「起きないんでやむなく。よく知らない男の前で眠り込むなんてどういう神経してんだ」
手の動きを止めずに応じる尚志に、未雨は少しだけ俯いた。何か誤解しているのだろうかと思い、すぐに付け足す。
「でもま、不届きなことはしてないから、安心しろよ」
「……そんな心配してないけど」
ぷいと横を向かれた。
拗ねているのだろうか。大人びて見えたり、子供っぽく見えたり、未雨は忙しい。思わず尚志は笑みがこぼれた。
「なんかして欲しかったとか?」
「別に」
「残念ながら、俺は女に興味ないんで。期待してたら悪かった」
まだ言ってなかったよな、と考えて真実を告げる。
未雨は少しびっくりしたように黙っていたが、やがて「そうなの」と呟いた。別段残念そうな響きは含まれていなかった。
しばらく無言で未雨を描いていたが、沈黙に耐えかねたのか、じっとしていることに疲れたのか、未雨が口を開いた。
「あのお店は、よく瑞保と行ったの。今日飲んでたのも、瑞保が好きだったワイン。私は普段あまり飲まないけど、今日はなんとなく飲みたくなっただけ。……だから、別に何かを期待したわけじゃない」
「わかったから。むきになって言い訳しなくても」
けれど、よく一緒に食事したりする仲だったのだと言っているのに気づいた。落ち着いた雰囲気の、カップルが目立つ店だった。尚志は普段ああいうところには行かないから、料理は美味かったが逆に落ち着かなかった。
やはり瑞保とは仕事だけではない付き合いをしていたということだろう、と推測出来た。
「瑞保には結婚しようって言われてた」
尚志が自分の性癖を教えた返礼だろうか? どうして突然そんなことを言う気になったのか、よくわからなかった。
「でも、体の関係はなかったのよね」
「……プラトニックって奴か? まあ、お互いが良ければそれでも、いい……のかな……」
結婚を考えているような相手と一緒にいて体の関係がないなんて、尚志にしてみれば考えにくいことではあったが、そういう形ももしかしたらあるのかと思っ て、言葉を濁す。
未雨はまた少し俯いた。
「だって瑞保、女は駄目な人だったから」
「――えっと」
それは。尚志と同じ性癖だとでも言うのだろうか。
だとしたら、どうして結婚なんて単語が出てくるのだろう。不審な顔をした尚志に、未雨は微笑んだ。
「私達の『結婚』というのは、単に一緒にいるってこと。――作品を仕上げるためには私を理解して欲しいから、嫌々話すけど」
「……どうぞ、いくらでも。聞いてやるよ」
先ほどは話すことなどないと噤んだ唇。
嫌々なんて言っているが、本当は、吐き出したかったのかもしれない。言いたくても言えないことを心の中にずっと蓄積しているのは、苦しい。尚志にも覚えがある。
だから聞いてやる。
作品のためだというなら、尚更聞いてやる。
「私はずっと、十年近くも、自分は瑞保のことを好きなんだと思ってた。そう思い込んで、愛情を求めてた。瑞保はそれに応えてくれようとして、結婚なんて馬鹿なこと言い出したの。私はそういう形式にはこだわる方じゃなかったけど、瑞保がしたいって言うなら、そうしてもいいと思った」
未雨の綺麗な瞳。濁りのない、まっすぐな黒い瞳。
だけどどこか冷め切った表情を見せる女。
「ずっとずっと傍にいて、私を愛してくれようとしてた。無駄に優しくて、甘い考えの男だと思う。無理のある関係だってわかってたのに。そうまでして、あの男は私の精神的な部分をとても愛してくれていた。……だけど、」
そこで未雨は少しの間沈黙した。
時計の秒針が耳に障った。
沈黙がどれくらいの時間だったかはわからなかった。
「だけど違ってた。失って気づいてしまった。本当は、私は黒川瑞保という画家の、才能だけを愛してたんだって。愕然とした。誰のことも好きじゃなかった自分にびっくりした」
未雨が言葉を紡いでも、尚志の手が止まることはなかった。
耳には入っていたし、ちゃんと理解もしていたが、とにかく未雨を描こうと思ったから。
自分が口出すようなことでもない。
喋りたいなら喋ればいい。
聞くことしか出来ないが、未雨は尚志の言葉を求めているわけでもなかった。
「瑞保は描けなくなってしまった。私達のバランスが、崩れてしまったから……私はもう、一緒にいることが出来なくなった」
泣くのかと思った。
未雨は泣いたりしなかった。
ほんの少しの間、目を瞑っただけだった。
「だからその気持ちを、形にして瑞保にあげたいの。私はひどい女なんだって、教えたいの。愛してやる価値のない女だったんだって、気づかせてあげるために」
そうしたらきっと、瑞保は楽になれるから。
自分を曲げてまで、未雨を愛してやることはないのだと。ひどい女なのだから。
無駄に費やした十年を終わらせるためのもの。
瑞保じゃない男の絵でも、ちゃんと仕事が出来るんだって。一人でも大丈夫だから、もう未雨のことは忘れてくれていい。
描けなくなった男に用はない。傍にいる意味を見失ってしまったから、傍にいることは出来ない。
冷たい、最低な女だ。
勝手だし利己的だとわかっているが、それこそが絵本の本当の目的だった。
シャワーが皮膚に当たる感触にも飽きてきて、尚志はお湯を止めた。
早く帰って、作業の続きをしなければならないと思っていた。こんなことをしている場合じゃなかった。
未雨を描きたかった。
未雨の、心。
相手の心を求めることなど出来ない彼女の心。
けして実らない恋。
いくら未雨が名の知れた作家とは言え、絵を描く自分はただの学生だし、そんなテーマの絵本が売れるかどうかなんて見当も付かない。小説とは違うから、明確な文章で未雨が書くとは思わなかったが、瑞保が見ればきっとわかるのだろう。だが、それで良かった。
尚志は自分に出来ることをやればいい。やるからには徹底的にやる。
育たない種に水をやるのは、実に不毛だ。育たないなら、雨も降る必要はない。
大地はからからに干乾びている。
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