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第10話 眠る女
「家、どっちよ」
後部座席で何故かくたりとなっている未雨に、バックミラー越しに話しかけるが返事がない。
「もしかして寝てんのか……?」
勘弁してくれと心の中で呟き、行き先もわからずに車を走らせる。何度か声を掛けたのだが、未雨は一向に目を覚まさない。さっきのワインだろうか。強くないなら飲まなきゃいいのに。
尚志相手だから無事だが、これが普通の男だったらどんな展開になるか少しくらい予想しないのだろうか。それとも、そういう展開にしたいのか。不明だ。この女のことはわからない。
「ったく……」
ぶつくさ言いながら、とりあえず画廊に戻る。駐車場に未雨の車を停めたが、時間的にも画廊は閉まっていた。
未雨の持ち物でも検査すれば家がどこかくらいわかっただろうが、寝ている女のバッグを漁る趣味はない。
歩いてすぐの所に自宅があったので、とりあえず客間にでも寝かせておけばいいだろうと判断して、その小さい体をおんぶした。軽かった。子供みたいだと思った。背中に当たる胸も、控え目だ。
相変わらず未雨は目を覚まさない。
鍵を自分で開けて、中に声も掛けずに客間に行く途中、長兄の尚生 に出くわした。尚生は黒縁の眼鏡をかけた、いかにも真面目そうな男だ。今年で28になるが、恐らく彼女いない歴も28年だった。そこそこいい線行っているのに、女性とうまく渡り合えない堅物だ。だからと言って尚志のように男が好きなわけでもない。異性とコミュニケーションが上手く取れないだけの、普通の男だ。
「――尚志」
なんだか物凄い衝撃を受けているような表情だったが、口調は物静かだ。尚生はあまり怒鳴ったり騒いだりしない。
「ただいま」
「ああおかえり。……いや、そうではなく。おまえが女の子を連れてくるなんてどういうことだ。熱でもあるのか」
「好きで連れてきたわけじゃない。親父は?」
尚生の疑問も当然ではある。今までこんな夜遅くに眠っている女を連れ込んだことなどない。尚生じゃなくても驚くだろう。
「あ? ……ああ。父さんは商談が入って、今日は帰らない。母さんは、もう寝た。……けど、そんなことより」
「起きないから寝かせとくだけだ」
煩わしそうに背を向けて客間に入る。
壁に父が気に入っている絵が何点か飾られているが、一枚だけ尚志が描いたものも混じっている。
高校生の時に描いた絵なので今見るとやや稚拙に感じるのだが、父は何故か気に入っているらしかった。他のことではけして褒めないが、絵だけは褒めてくれる。そんな父もたまに絵を描くが、あまり人には見せたがらない。
ラブソファに未雨の小さな体を横たえて、薄手の掛け布団を引っ張り出してきて掛けてやった。
アルコールでほんのりと色づいた頬。
閉ざされた瞳。
寝ている時は、結構無防備な顔をしている。喋り出すと途端によくわからない存在になる。アンバランスだ。
未雨が何を考えているのかわからない。読めない。
ふと尚志は立ち上がって、二階にある自分の部屋に上っていった。が、すぐに客間に戻ってくる。
フローリングに敷かれた丸い絨毯は、よく見ると中心から外へ向かってフラクタル図形が織り込まれている。フラクタルは好きだった。見ていると飽きない。眠りに落ちたままの未雨から少し距離を取り、その絨毯の中央に座り込む。手にはスケッチブック。
了承もなく描くのは不躾だったかもしれないが、モデルをやることについては既に了承済みだったし、少しくらい許してくれるだろう。
2Bの鉛筆を握って紙の上を滑らせていると、また尚生が顔を出した。
「――尚生、何やってんの?」
兄が二人いるので、名前で呼ぶことにしていた。もっとも次兄は今家にいないので、単に兄貴でも通じるのは通じるが、長年の癖だ。
弟に呼び捨てにされた長兄は、家に女がいるという状況が気になって仕方ないらしかった。女に興味のないはずの弟が、二人きりで何をやっているんだろうと覗きに来たのだろう。
「いや……いやいや、別に。尚志、変なことするなよ。寝込みを襲うなんて最低の男だからな」
「俺がすると思うか?」
「……いや。そうだな。邪魔したな」
それだけ言うと、尚生はすーっと顔を引っ込めた。変な兄貴だ。しかし尚生のことはすぐにどうでもよくなり、すぐに未雨に向き直って鉛筆を再び動かし始めた。
実らない恋。
咲くことのない花。
それはもしかして未雨と瑞保のことを指しているのだろうか。
未雨は、彼を好きだったのだろうか。
未雨の態度から、それを判断することは難しい。けれど、瑞保へのメッセージだという絵本を作ろうとしている。それは、何を意味するのか。
告白か。
決別か。
絵を描けなくなった彼を必要としていない自分を、もしかしたら未雨は心のどこかで責めているのではないか。
必要としないのは本当。
だけど心が痛む。
そこにジレンマが生じる。
難しいことなど考えず、傍にいることは出来なかったのか。絵など描けなくても、一緒にいることは出来なかったのか。
(俺は未雨じゃないからわからない)
本当のことなんて知らない。単に仕事上の付き合いだったかもしれないじゃないかとも思う。だけど、「話すことなど何もない」と呟いた未雨は、自分を押し殺しているように見えたから。
(心など求めていない)
それは本心だろうか?
未雨のラインを追いながら、尚志は難しい顔で描き続けた。
未雨がふと、目を覚ました。
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