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第1話

数百年前に山を切り開いて作られた村。 田んぼや畑が見渡す限り広がり、家屋は村のあちこちに点在する程度。木々や植物が風に吹かれて揺れる音に紛れ、農作業をする機械音や家畜の鳴き声が薄く響いている。絵に描いたような、長閑な風景だった。 そんな村の隅に平屋の小さい家があった。"小さい"と言っても、田舎の家。玄関から入ってすぐに広い土間があり、土間の先にはリビングが広がっていた。リビングの隅には、一人暮らし用のソファやテーブルがぽつんと置かれ、かえってリビングの広さが強調されていた。リビングから続く渡り廊下を見れば、個室のドアが何室も続いていた。しかし、ほとんどの部屋が使用されておらず、生活感の無さが浮き彫りとなっていた。 その日、外は誰もが笑顔になるような快晴。鳥のさえずる声も室内に微かに響いてくる。陽気に太陽の光を浴び、風を浴びたいと思うはずだが、全ての窓は閉じられ、カーテンも締め切られていた。カーテンを通り抜けた僅かな光が室内を照らすだけで薄暗い。そして、ひっそりと静まり返っていた。まるで誰も住んでいないかのように。 しかし、この家の住人である航はいた。ベッドの中、1人うずくまっていた。寝ているわけでも、体調が悪いわけでもない。微動だにせず、ただ静かに泣いていた。何かをする気力も起きない。いつものように、このまま1日が終えるかと航は思っていた。 だが、突然、玄関ドアのチャイム音が室内に響く。静寂が破られた。 …誰にも会いたくない。 航の率直な気持ちだった。しかし、村の人には引っ越してきたからずっと常日頃から気にかけられ、世話になっていた。居留守をし、無下にするも忍びない。涙を拭くと、倦怠感を感じる体を起こし、玄関へと向かった。 玄関で意識的に、むしろ強引に笑顔を作り、ドアを開ける。 「お待たせしました…」 そこには、航より少し年上、18歳前後だと思われる、目元の涼しい男性が立っていた。中性的で、一見すると、女性にも思えるような美形。航に比べやや背が高く、少なくとも170cmはありそうだった。口元はうっすらと笑っている。 「こんにちは。はじめまして。」 声も涼しげで耳障りがとても良い。しかし、顔見知りの村民だと思っていた航は、見も知らない男性の来訪に驚き、慌てて俯く。 「どちら様ですか?どういった用件ですか?」 早くこの場を終わらせて引きこもりたい。その焦りが行動に現れ、航の口調はつい早口になっていた。そんな航を見て、男性はさらに目を細める。 「こちらをどうぞ。」 差し出したものは3Dホログラムカードだった。航は恐る恐る受け取り、カードを開くと、叔父からのメッセージが現れた。 「誕生日、おめでとう。一人暮らしにも慣れた頃だとは思うが、不便なこともいろいろと出てくる頃だろう。 ヒューマノイドを贈るから活用して欲しい。航が健やかで幸せであることを願っている。」 叔父からのメッセージで航は状況を理解した。目の前の男性はヒューマノイドで、叔父からのプレゼントとしてやって来たのだ。 状況を把握した瞬間、航は眉間にしわを寄せてしまう。 正直、一人暮らしに大きな不満を感じていなかった。ホームキーパーは不要だったし、むしろ1人でいたかった。 …叔父の元に戻って欲しい 目の前のヒューマノイドにすぐにでも言いたい。しかし、世話になっている叔父の好意を無下にするのも気が重かった。様々な思いが交錯し、沈黙が流れる。 そんな航の気持ちを読んだのか、ヒューマノイドは口を開く。 「お誕生日、おめでとうございます。試しでもよいので、しばらく私を置いてみませんか?」 やはり耳障りの良い、心地良い声。航は渋々頷くと、ヒューマノイドを招き入れた。 22世紀の日本。人口の減少に歯止めがかからず、労働者などの確保のため、ヒューマノイドが法的に認められ、生産されていた。しかしまだまだ高額なため、利用者は一部に限られていたし、また倫理的な問題を抗議する団体が反対活動を続けていた。 そのヒューマノイドの生産に航の両親は関わり、会社経営を成功させていた。航は一人息子として何不自由ない日々を過ごしていた。 しかし数か月前に、突然の事故で他界。15歳の航は天涯孤独の身となってしまった。そして、両親を失った悲しみに浸る間もなく、会社の継承問題や相続問題に巻き込まれた。航は人間不信に陥り、ただ一人信頼している叔父に全てを委ね、逃げるように田舎に引きこもっていた。 ヒューマノイド製造にも、会社経営にも全く興味がなかった航からすれば、どんなに成功していたとしても会社を引き継ぐつもりなんてなかった。そのため、会社を引き継いでくれたことも、そして毎月生きていけるだけの仕送りをしてくれる叔父には感謝していた。 その叔父からのプレゼントであるヒューマノイドは、笑顔のまま室内を見渡している。これからしばらく暮らすつもりなのだから、どんな家なのか確認するのは当然だろう。 そのヒューマノイドを航は横目で気づかれないように観察してしまう。両親がヒューマノイド関連の仕事をしていたとはいえ、ヒューマノイドを間近で見ることは初めてだった。一見すると、普通の人間と何も変わらない。しかし、 あまり変わり映えのしない表情や思考の読みづらい瞳など、違和感を感じる部分もあった。 航の視線に気づいたのか、ヒューマノイドが笑顔のまま近づいてくる。 「ご主人様、最初に私の説明をさせていただきます。細かい注意事項はこちらの取り扱い説明書をご覧ください」 ヒューマノイドは小さなデータカードを胸元から取り出し、手渡そうとする。しかし、しばらくしたら返却するつもりである航は一瞥するだけで目を背けてしまった。ヒューマノイドは笑顔のまま、データカードを静かにテーブルへと置く。 「ご注意いただきたい点があります。私は初期の愛玩タイプです。 つまり、ご主人様の身の回りのお世話を言いつけられていますが、 ハウスキーパー専門ではありませんので、ご了承ください。 また、お仕えするのはご主人様でお2人目です。 稼働してそれなりの年月が経っておりますので、 新しいヒューマノイドと比べると残りの稼働可能時間が短くなっています。この点も…」 「…もういいよ!」 ヒューマノイドの声を遮り、航は声を荒げる。家事が出来るかどうかも、新品か中古であるかどうかも、どうでも良かった。 「しばらく1人にして欲しいんだ。 …空いている部屋を自室にしてもらっていいし、何をしてくれてもいいけど。 …俺の寝室だけには勝手に入らないで。」 「…かしこまりました」 辛辣な態度を見せる航だがヒューマノイドの耳障りの良い声や笑顔は何も変わらない。動揺する気配もない。やはり普通の人間ではないのだと思い知らされる。航は俯いたまま、寝室へと小走りに向かった。 寝室に入るなり、航はベッドに潜り込む。何も考えたくない。暗闇の中でそう思うのに、気がつけばこの数ヶ月のことが頭に浮かび、涙が溢れる。そして、これから先の不安と孤独感で胸が張り裂けそうだった。叔父なりに心配して、せめてもの慰めにヒューマノイドを贈ってきたのだろうが、失ったものの代わりになるわけがない。叔父の思いやりは返って航の孤独感が深まり、涙が止まらなかった。 それでも、ここ数日、まともに寝ていなかった航の思考は少しずつ朧げになる。泣き疲れてもう少しで夢の中へ入りそうになっていた。その時、隣の部屋から何かが倒れる音が聞こえた。航は飛び起き、迷うことなく隣の部屋へ向かう。作業場にしている部屋だった。 「触らないでよ!」 部屋に飛び込むなり、航は叫ぶ。その声で振り向いたヒューマノイドの手にはキャンバスがあった。 「掃除中に誤って落としてしまいました。失礼しました。」 ヒューマノイドの声に戸惑いはない。言われた通り、キャンバスを再び立てかけた。 「しかし、この絵は素晴らしい。ご主人様には絵の才能がありますね。完成が楽しみです」 キャンバスには、微笑んでいるような吠えているような犬の絵が描かれていたが、色は塗られていなかった。航は顔を背ける。 「…それは完成しないよ」 「どうしてですか?もったいない。」 顔を背けたまま、航の顔から涙が溢れる。 「死んだんだよ!この前!…かなり歳をとっていたけど、突然…急に!…だから、もう描かない!」 一度溢れ出した航の涙も想いも止まらない。両手で顔を覆う。 「父さんも…母さんも…みんな、俺の前からいなくなるんだ…」 立ちくらみを起こしたかのように、航はその場に座り込んだ。脳内では両親や愛犬との思い出がフラッシュバックする。もう戻ってこないと分かっているのに、戻ってきて欲しいと願ってしまう。 ヒューマノイドはすぐさま歩み寄り、航が倒れないように抱きしめた。相手がヒューマノイドであっても、誰かの温もりを感じることは航にとって久しぶりだった。堰を切ったようにヒューマノイドの腕の中で泣きじゃくる。体の震えも止まらない。 ヒューマノイドは黙って航の背中を優しく撫で続けた。 「それは失礼しました…しかし、最後まで描かれた方が喜ぶと思いますよ」 「…なんでお前に分かるんだよ!」 目も顔も真っ赤にし、航はきつい視線で見上げる。ヒューマノイドの表情は何一つ変わらない。 「死には、2つの死があると言います。最初は肉体を失う死、そして2回目は忘れられる死と言います。 …もちろん、ご主人様の心の中ではいつまでも皆様は生きていらっしゃるとは思いますが、 描かれることでいつまでもより鮮明に思い出せるかと存じます。」 ヒューマノイドの言葉は理解できたし、反論もできない。航は俯いてしまう。しかし、不貞腐れているような表情までは隠しきれなかった。 「ヒューマノイドのくせに、そんな分かったようなことを言って…」 会ったばかりの、しかもヒューマノイドに諭されたことに苛立ち、つい口走ってしまっていた。 「…私も一度死んだようなものですから。 どのような経緯で私を手放されたか、もう記憶にありませんが、 もし以前のご主人様が私の絵を飾っていらっしゃったら嬉しいですよ」 航は我に返り、自分の失言に気づいた。相手がヒューマノイドとはいえ、自分のデリカシーの無さに自己嫌悪してしまう。気まずさのあまり、もうヒューマノイドの顔を見ることができなかった。 「…ごめん…なさい…酷いこと言った…」 消え入りそうな声。しかし、それが航の精一杯だった。 「ご主人様はお優しい方ですね。 …これからは、少しでも安らいでいただけますよう、私の全てを捧げて、ご主人様をお支えします。」 「なんだよ、それ。」 出会ったばっかりでそんなことを言われても照れ臭く、落ち着かない。航は照れ臭さを誤魔化すように呟く。そのことに気づいていないのか、ヒューマノイドは笑顔を崩さない。 「さあ、少し横になられた方がいいかと存じます。」 ヒューマノイドは航を立ち上がらせると、肩を抱きかかえたまま寝室へと誘導する。 失言を口にしてしまった申し訳なさで航の涙はもう止まっており、むしろヒューマノイドの顔色を伺ってしまっていた。しかし、ヒューマノイドの顔は薄く笑みを浮かべているが、思考までは読めない。それでも腕の中が気持ち良くて身を委ねてしまっていた。 寝室のドアまで辿り着くと、ヒューマノイドの手が離れる。 「お1人で大丈夫ですか?」 「うん。…ところで…名前は?…これから…少しかもしれないけど…一緒に暮らすんだし。」 自分のことだけで精一杯だったが、航はようやくヒューマノイドに少しだけ興味を持った。ヒューマノイドの表情は変わらず、微笑んでいる。 「私の個体識別は製造番号のみですので…。ご主人様のお好きなようにお呼びください。」 「…そう。…それじゃあ、…イツキで。」 先日、死亡した犬の名前だった。しばらくすれば、叔父に返却して別れることになるのだ。それに、偶然だとしても、まるで入れ違いのように航の元に来たのも何かの縁なのだろう。そう安易に考えてしまった。 「イツキ?」 「そう。樹木の樹で、イツキ。」 「綺麗な名前ですね」 樹は初めて満面の笑みを見せた。 その笑顔を見て航の胸の奥が微かに傷む。そこまで喜ぶとは全く思ってもいなかったからだ。しかし今さら変更する気にもなれず、気まずさから寝室へと逃げるように消えた。 そうやって2人の暮らしは始まった。 ホームキーパー専門ではないとはいえ、少なくとも航より樹は家事を行うことが出来た。決して汚いとは言えないにしても今まで散漫としていた部屋は片付き、日中は陽の光が部屋の奥まで照らすようになった。食事も決まったメニューが繰り返されるようなことはなく、シンプルだが、複数のメニューが提供されるようになった。住環境の改善は航の気持ちも改善し、全てに対して投げやりだったが、少しずつ生きていくことに前向きになる。 樹が来てからの数日間、食事以外で寝室を出ることは少なかった航だったが、やがて樹とも少しずつ話をするようになった。最初は一緒に暮らしていく上でのやって欲しいこと、やって欲しくないこと、そして食べ物の好き嫌い。 「その…子供っぽくて恥ずかしいんだけど…朝はとても弱いんだ…早起きは苦手で… …あと、人参はどうしても無理…」 「かしこまりました」 樹が航に意見をしたのは初日だけだった。翌日以降は変わらない笑顔のまま、航の要望を全てに対応していた。そして、樹の変わらない笑顔に航は違和感を感じていたが、少しずつ違和感は薄くなり、むしろ居心地の良さを感じていた。両親が亡くなってからというもの、誰かとの会話は相続などの事務処理かつ深刻な話ばかりだった航にとって、"誰かと他愛のない会話できる"ということが大きかった。 「作業部屋を見て分かっていると思うけど、趣味は絵を描くことで…。 デジタルで描く人がほとんどだけど、俺はアナログで描くんだ。」 「それは個性的で素晴らしいですね」 「…そうかな?…単に、描いている時の感触というか質感が好きなだけだし、 …簡単に描き直せない緊張感も好きなだけなんだけど…」 航の趣味の話から、同じ名前にしてしまったせいか、死んだ愛犬についても樹に打ち明けていた。 「いっ君は生まれた時から一緒だったんだ。毎日遊んだし毎日一緒に寝ていたし。 これからもずっと一緒だと、そばにいてくれると思っていたんだ…」 愛犬のことを考えると、どうしても航の目に涙が浮かんでしまう。樹は静かにハンドタオルを差し出した。 「きっと寿命だったんでしょう。最期までご主人様と一緒で幸せだったと思いますよ。 …好きな食べ物は何でした?」 航はハンドタオルで目を押さえる。 「ブロッコリーが好きだったな…」 「それでは、ブロッコリーを明日にでもお供えしましょう。きっと喜びますよ。 …それに、いつか絵も完成したら、もっと喜ぶと思います。」 航は自然と笑顔になり、頷いていた。 樹と共に住み、会話を重ねることで、航の気持ちは少しずつ整理されていた。そして心が少し救われるような、和らぐような気持ち良さを感じていた。また、愛犬の死を受け入れる覚悟を持ち始めていた。 樹に促されたこともあり、数日後、描きかけだった愛犬の絵を航は再び描き始める。線を書き加え、色をつけ、完成を目指す。以前はいなくなった悲しみに心が支配され、キャンバスを見ることさえ辛かったが、今は楽しかった思い出を描き留めているような、感謝や慈しみの気持ちで溢れていた。そんな航を樹は遠くから静かに見守り続けていた。 数日をかけ、愛犬の絵は完成した。リビングに置かれていた小さな骨壷の横に飾る。航の心はまだ多少なりとも痛むが、しかしそれでも笑顔で絵を見つめるが出来た。そこへ、いつもの、涼し気な笑みを浮かべた樹が現れた。 「どうぞ」 まるで絵の完成が分かっていたかのように、絵の前にブロッコリーが盛られた皿が置かれる。 「ありがとう」 言われなくても準備をしてくれる、樹の気遣いに航は頬はさらに緩んだ。遺影のようにも見える絵と航は改めて向き合う。もし天国というものがあるのなら、少しでも喜んでくれているだろうかと心の中で思い、祈る。 「思っていた通り、完成した絵も素晴らしいです。ご主人様には絵の才能がありますね。」 後ろから見守っていた樹が語りかけ始めた。いつも淡々と話す樹だったが、絵を褒める時は声色が少しだけ違って明るい。航にとって絵は趣味にしか過ぎないのに、樹から絵を褒められ続け、なんだかくすぐったかった。 航は照れ臭く、話題を変える。愛犬の絵を描き始めてから考えていたことだった。 「ところでさ、頼みがあるんだけど…」 「なんでしょうか?」 絵を見つめていた樹の視線が航へと向かう。 「樹の名前を変えたいんだ」 「それは構いませんが…もし宜しかったら、理由を教えていただけますか?」 航は気まずそうに下を向く。 「実は…樹って名前は、元々、いっ君の名前なんだ。 その…しばらくしたら…樹には叔父さんのところに戻ってもらうつもりだったから…深く考えていなくて。」 感情が見えない樹の瞳に、航は時々、見透かされているように感じることがあった。嘘はつきたくなかった。 「でも、樹にはこれからも一緒にいて欲しいんだ。いてくれると、すごく安心するから。 …だから、ちゃんと名前を決めたくて」 まるで樹に告白をしているようで、航は気恥ずかしくなってしまう。きっと顔も赤くなっているに違いない。そう考えると、気まずさに恥ずかしさも加わり、さらに顔を上げることが出来ない。対照的に、樹の表情は変わらない。 「そうでしたか。…新しい名前は決まっていますか?」 航は慌てて顔を上げると、首を横に振る。 「俺1人で決めるんじゃなくて、ちゃんと話し合って決めたい」 航の強い眼差しに、樹は目を細めて笑う。 「ご主人様は本当にお優しい方ですね。 …もし私の要望を聞いていただけるのでしたら、"樹"のままでいたいです。とても気に入っています。」 航は驚き、そして拍子抜けした。 「…本当に?…俺に気を遣っていない?」 「えぇ。…それに、犬の樹と同じくらい、私もご主人様に愛していただきたいですし。」 「えっ!?」 航は産まれてから今まで一度も、そんなストレートな愛情表現を親以外から言われたことはなかった。動揺し視線を泳ぐ。しかし、チラリと樹を見ると涼しげな笑みを浮かべていた。 …なんだ、冗談なのか。 慌てた自分がバカみたいで、航はため息をついた。 「…それじゃあ、そのままで」 覚悟して話を切り出したのに、あっさり終わってしまい、なんだかばつが悪かった。目のやり場に困り、再び下を向いてしまう。 「…それと、もう一つ頼みがあるんだ」 「なんでしょう?」 「…俺を"ご主人様"と呼ぶことをやめて欲しい」 航自身が働いて得た金で、しかも航自身の意思でヒューマノイドを得たわけでもないのに"主人"呼ばわりされることにずっと違和感があったし、何よりもそう呼ばれることで"壁"を感じていた。 実際、人間とヒューマノイドは生物としても社会的立場としても違うし、航自身も樹と初めて会った時に「人間とは違う」と差別的な考え方をしていた。それに、呼び方を変えるだけで何かが変わるとは思えなかった。 それでも、それが例え"おままごと"だと揶揄されても、航は少しでもいいから変えたかった。 その航の要望を聞いた瞬間、樹の顔から笑顔が消えた。 「…それでは、"航様"でよろしいですか?」 「…"様"は要らない」 樹が初めて戸惑った表情を見せた。膝を折りしゃがむと、俯いていた航の顔を覗き込む。 「大事なことだと思いますので、顔を見ながらお話させてください」 航は初めて間近で樹の顔を見た。今までは特に気にも留めていなかったが、間近で端正な顔を見ると、同性とはいえ、照れて緊張してしまう。整った目鼻立ち、長い睫毛、ハリと潤いのある肌や唇。真剣な表情をしているとはいえ、樹の美しさを見れば見るほど吸い込まれそうになる。航は耳まで真っ赤にしながら、視線を泳がせてしまっていた。 「"航"とお名前でお呼びした方がよろしいのでしょうか? …社会通念上、主人のことをお名前だけでお呼びすることは無いので、違和感があると存じますが…。」 樹は戸惑った表情のまま、航の瞳を真っ直ぐに見続ける。「呼び捨てにすることは出来ない」とでも言いたげに。樹が航に何か意見をするのは初日以来だったが、それでも航は意志を変えるつもりはなかった。つばを飲み込み、樹の目を真っ直ぐに見る。 「距離を感じるから嫌なんだ!もっと近くにいて欲しいんだ!」 自分でも間違った言葉を選んでいることに気づいていた。"壁"があることを言いたかっただけなのに。しかし、上手く訂正する言葉がすぐに出てこない。航がまごついているうちに、樹は困ったような笑顔を見せた。 「かしこまりました。それでは、これからは"航"と呼ばせていただきます」 航は安堵の溜息をつく。そして同時に視線を逸らした。樹の端正な顔を間近に見ているだけで緊張して、思考が上手く回っていない気がしていたのだ。早く平常心を取り戻したかった。 ただ、樹がなぜか体勢を戻さない。そのため、仕方なく航自身が後ずさりしようとした。しかし、その瞬間。航の手を樹が掴んだ。柔らかく、僅かに温かい感触が伝わる。 「…航、私からもお願いがあります。 もし可能であれば、気が向いた時にでも、私の絵を描いていただけませんか?」 航は驚き、樹の顔を見た。いつもの笑顔は消え、少し不安そうな、真剣な表情をしている。なんだか理由を聞いてはいけないような気がした。黙って頷く。途端、樹の顔にいつもの笑顔が戻る。 「ありがとうございます。」 言い終わると同時に、樹は航の手の甲に口付けを落とした。上目遣いに航を見ながら。ごく自然に。それが当たり前かのように。柔らかい唇の感触が航に伝わる。航にとっては強烈な一瞬。驚きのあまり動けず、言葉も出ない。 樹はゆっくりと手を離す。 「夕食の準備をします」 航を残し、樹は微笑んだままキッチンへと歩き出した。 航は手に口付けしたりされるような習慣はなかったし、それ以上に樹の今までの態度を考えるとありえない行動だった。驚きと違和感が入り混じる。 そして、上目遣いの樹に言いようのない色気を感じ、多少なりとも気持ちが高揚してしまっていたことも事実だった。様々な感情が入り乱れ、航は口付けされた手の甲を見た。しかし、考えても答えが出てくるわけでもない。 やがて、そんな気持ちはかき消え、焦りが航の中で強くなっていた。なぜなら、樹の絵を描くことに了承したものの、今まで人間をまともに描いたことがなかった。いつも描く対象は風景や動物ばかり。これまで樹に絵を褒められていたこともあり、趣味とはいえ、みっともない絵を見られたくないというプライドが航の中で膨らみ始めていた。何か事前に練習できないかと、慌てて作業部屋へと向かった。 翌日、昼食が終わった後、航は作業部屋へ樹を誘った。 「昨日、樹の絵を描くと答えたけど…実は人の絵を今まできちんと描いたことがないんだ。 だから、まずは絵の練習に…デッサンに付き合って欲しいんだ」 前日、樹を描く前に練習したいと思ったものの、結局、「ひたすら実物を描く」ことが一番の近道としか思いつかなかったのだ。それに、何かに集中して夢中になることで気分転換ができるのではないかとも思っていた。 「喜んで。」 樹は満面の笑みを見せる。航に促され、作業部屋の中央に置かれたソファへ腰掛けた。 今まで意識したことなかったが、改めて見ると、樹の手足はまるで人形のように長く、均整がとれている。肌も白く、皺一つ無い。滑らかな感触だろうということは触らなくても想像できる。絵を描くことが趣味レベルの航でさえも、モデルとして最適だと分かった。 初めて人を描くことへの楽しみと気持ちもあり、航は気持ちが高揚していた。スケッチブックとデッサン用の鉛筆を取り出し、準備をしている間も笑顔が出てしまう。しかし、再び樹に視線を戻した瞬間、航は驚き、固まってしまった。 「樹!何しているの!?」 航の声で樹の動きが止まった。上半身がすでに裸になっている。 「デッサンモデルは裸体ではないのですか?」 樹はこともなげに返答する。 「そういう時もあるみたいだけど…今日は脱がなくていいよ!」 全く想定していなかったため、航は顔を赤くなる。 しかし、樹の言うことが正論だとも航は感じていた。確かに骨格や筋肉は裸になってもらわないと分からないし、理解しないまま、着衣している人を描いても不自然になり、空想の域を出ないようにも思えた。そして、ネットで検索すれば、すぐに骨格や筋肉の動きなどが分かるが、実際に間近で見て触れて知りたい欲求が出てきた。 「…樹…ごめん。…やっぱり、そのまま動かないで。」 「かしこまりました」 シャツをはだけさせ、上半身裸の樹に航は近づく。そして、顔を寄せ、体の各部位の筋肉を観察し始めた。肩や腕周りだけを見ても、複数の筋肉が複雑に繋がっていることが生々しく分かる。 …もっと詳しく人体のことを知りたい。 航の欲求が内からどんどん溢れてくる。 「…触ってもいい?」 「えぇ、もちろん。」 航は恐る恐る樹の肩や腕周りに触れた。いつまでも触っていたいと思ってしまうほど、とても滑らかな肌。しかし、航の興味はすぐに筋肉へと移った。肩から腕へと、筋肉がどこからどこまで、どのように形成されているのか、皮膚の上から筋肉を優しく少しずつ掴みながら確認する。実際に肘を曲げたり肩を動かし、どのように筋肉が連動し、変形していくかを確認する。 「…なるほど…そうか…」 想像していた以上に、実際に間近に見て触ることで分かることが多かった。初めて与えられたオモチャに夢中な子供のように、樹の骨格や筋肉を航は観察していた。夢中なあまり、樹が僅かに熱い息を吐き、熱っぽく潤んだ目をしていることに航は気づくことができない。 「やっぱり今日はこのままデッサンしてもいい?」 「…えぇ…かしこまりました」 観察がひと段落した航は、早く描きたくて仕方なかった。座って描くことさえじれったい。ソファ近くに立ったまま、スケッチブックにデッサン用鉛筆を走らせ始めた。肩から腕までを描くだけにも、何度も触れては観察し、何度も描き直す。どうにか描きあげても満足できるような出来ではないし、それでも描き上げるまでに相当な時間を要していた。しかし、航にとっては楽しくて仕方なかった。気がつけば太陽は落ち、室内は薄暗くなっていた。 「ごめん。夢中になっていて、時間に気づかなかった。…また明日も続きをお願いしていい?」 「…はい、かしこまりました」 薄暗くなった室内で表情までは見えなかったものの、樹がはだけていたシャツを手早く戻し、ボタンを留めたことはシルエットで分かった。 「食事の準備をします。整いましたら、お声がけします。」 足早に樹はキッチンへと消えていった。 そんな樹に航は少し違和感を感じ、寂しかった。デッサンを見たいと言ってくれるのではないかと思っていたし、出来はまだまだだが、少しは褒めてくれるのではないかと淡い期待をしていた。しかし、次の瞬間、会ってからまだ日も浅いヒューマノイドに甘えている自分が恥ずかしくなった。航は自嘲する。 部屋の電気をつけるとソファへ深く座る。立ちっぱなしだったため疲れを一気に吹きだし始めた。それでも航の気力は衰えることはない。樹の体を思い出したり、自分の腕や体を触りながら鉛筆を再び走らせた。絵を描くことがこんなに楽しいと思うことは久しぶりだった。 次の日、遅めの朝食を食べ終わると、すぐに航は樹を連れて作業部屋に向かう。早く絵を描きたくて仕方ない。無意識に笑みがこぼれていた。しかし、樹は昨日とは正反対に浮かない顔をしている。 「樹、今日は背中を中心に見せて欲しいんだ。…自分で自分の背中は見れないから。」 「…かしこまりました」 樹は背もたれを抱きしめるようにソファの座面に座ると、シャツを脱いだ。シミ一つない綺麗な肌に肩甲骨が僅かに浮いている。 「触ってもいい?」 スケッチブックとデッサン用鉛筆を準備した航が近づく。 「はい。…ただ、…一つよろしいでしょうか」 あと少しで樹の肌に触れそうになっていた航の手が止まった。 「初日に説明しましたように、私は愛玩タイプです。 そのため、いつでも航のお相手が出来るよう、肌が敏感になっています。 …ただ、昨日気付いたのですが、思いのほか私の体は感度が強く、航に反応してしまいます。 触っていただくことはもちろん問題ございませんが、…我慢できずに声を上げてしまうかもしれません。 その点を事前に了承いただきたいです」 航はよく意味が分からなかった。 「俺の相手って?」 「…簡単に言えば、セックスです。」 航の顔がみるみる赤くなる。慌てて手を引いた。 「愛玩って…そういうこと…」 「…はい、ご要望であれば、今すぐでも可能です。」 その瞬間、樹の顔や体型が端正であることに納得できた。が、同時に、なぜ叔父が愛玩タイプを選んだのか意図が分からなかった。 しかし、今更そんなことを考えても仕方ない。デッサンを続けたい航は、どうにか折り合いをつけようと試行錯誤した。 「…それじゃあ…樹に触るのやめるよ。…えっと、普通に座り直してさ…」 「申し訳ございません!!!」 突然、声を荒げる樹。慌てて振り返ると頭を下げた。 そんな樹を見るのは初めてだった。航は驚き、声が出ない。 「説明不足で申し訳ございません。航の行為を否定するつもりはないのです。 あくまでも万が一の注意事項ですので…」 「頭、上げてよ!」 航は樹の肩を掴み、上半身を起こす。樹は困ったような、泣きそうな顔をしていた。 「俺はただ、…樹が嫌がることはしたくないんだ」 真っ直ぐに樹の目を見る航。そんな航に樹は一瞬目を見開いて驚くと、笑みを浮かべた。 「航はお優しいですね。お気遣い、ありがとうございます。 …ただ、"好き"か"嫌い"かで申し上げると、…正直…航に触っていただきたいです。」 予想外の言葉に航は狼狽え、視線が泳ぎ出した。 「あ、…いや…その…」 「えぇ、分かっています。航が私とセックスするつもりはないこと。 …それでも、私は航のために、ここにいますので。」 樹に見透かされていた。航は気まずくて顔を背ける。しかし、どうするかは航の中でもう決まっていた。 …デッサンを止めることで樹の想いを傷つけたくない。 その思いもあった。しかし、それ以上に消えない思いがあった。 …樹をもっとデッサンしたい その欲求に勝てなかった。 「…じゃあ、…声出すの我慢しないで。…相手できないのは悪いけど」 「…とんでもないです。…ありがとうございます。」 樹はいつものように薄く笑うと、再びソファの背もたれを抱きしめるように座り直した。 航は躊躇いがちに樹の肩に触れる。やはりいつまでも触っていたいと思ってしまう滑らかな肌だった。しかし、それも束の間、肩から背中にかけて筋肉のつき方を触りながらゆっくり観察する。そして肩甲骨の動きを肩を動かしながら確認する。人体の仕組みを知ることは航にとってやはり面白かった。気がつけば、前日と同じく、夢中になっていた。 ヒューマノイドであることを証明するように、個別識別番号が首筋に彫られているが、航は特に気にもとめず、首筋や頸、喉仏に何度も触れる。樹の体温が微かに航の指に伝わってくる。 それは、逆を言えば、航の指の感触が樹に伝わっているということでもあった。樹は目を細め、深呼吸をし始めた。僅かながら吐息に熱が帯び始める。 そんな樹に気づかず、航は背骨をゆっくりなぞった。その瞬間、突然触れられたことに驚き、樹の体が大きく震え、背中を反らした。 「んっ!!!」 反射的に航の手が離れる。 「…大丈夫?」 航は恐る恐る樹の顔を覗き込んだ。頬を赤く染め始めた樹がゆっくり深呼吸しながら笑顔を見せる。 「申し訳ございません。お気になさらず、続けてください。」 「…うん」 樹の顔を見て、快感を感じ始めていることに航でもさすがに気づいた。一瞬、デッサンを終わらせることも頭をよぎる。しかし、樹の体にもっと触れて、観察をしたい欲求に勝てなかった。 航は樹の背中全体を指先で撫で、肉つきや筋肉を触れて確認する。筋肉の付き方による微妙な肌の凹凸が気になり、何度も優しく押したり掴んでみる。背中全体を余すところなく触れられ、刺激されるためなのか、樹の呼吸はどんどん熱っぽさを帯びていく。 やがて航は両手を樹の胸へと回し、肋骨の位置や形、筋肉の付き方を指の感触で確認し始めた。意図的ではないものの、航の指は何度も樹の乳首を微かに触れていく。主人への性的奉仕が本来の主目的である樹にとって、特に強い刺激を生んでいた。 「…うぅんっ…はぁ…」 樹はとうとうたまらず、抱きしめていたソファの背もたれに顔を預けた。樹の視線の先には窓があり、その先には雲ひとつない快晴の空が広がっていた。熱に浮かされたような、潤んだ瞳で樹は空を眺め続ける。 樹が声を上げたことに航は気づいたが、それでもやめることができなかった。大きく呼吸するたびに伸縮する胸や、呼吸の深さで変わる体型のラインの変化が興味深かった。肋骨の位置の動きを確かめるかのように何度も胸をなぞった後、樹の体のラインを確認するように、脇腹をゆっくりとなでおろした。 「…んぅっ!」 樹の体が一緒大きく震えた。そして震えは止まることなく、小さく震え続け、樹の両手はソファの背もたれに指を立てしがみついていた。快感に飲まれまいとしていることは見て取れた。航は躊躇し、手が止まる。 しかし、それでも、やはり、欲求が止まらない。 「…樹、ごめん。もう少しだけ。」 航の両手が再び動き出した。皮膚の上から骨盤の位置や形を触って確認するため、腰回りをなぞっては掴むことを繰り返す。樹の呼吸は荒く、口は半開きのまま閉じることはない。 「…っ…どうぞ…お気遣いなく…もっと…物のようにっ…私を扱っていただいてもっ…問題…ございません」 「嫌だ」 航の片手はゆっくりと樹の腹部へと這い進む。 「樹には助けられたから、大事にしたいんだ… …ただ、…もう少し、もう少しだけ待って」 航は樹の腹筋を優しく触り始めた。筋肉の固さ、形などを指でなぞったり押したりして確認する。合わせるかのように、腰回りを触れていた、もう片方の手は臀部全体を触り始めた。肉つきや固さを何度も優しく掴んで確認する。 「…はぁあっ…」 早く終わらせようと急ぐあまり、腹部と腰を同時に触れ始めた航の行為は、かえって樹を刺激していた。樹の体の震えは大きくなる。 「…ごめん、あともう少しだけ」 航の両手はせわしなく動き始めた。上半身全体のライン、そして各部位がどう組み合わさってバランスをとっているのか最後にもう一度確認したかった。今まで触れてきた全ての部位を復習するかのように、上半身全体を触り始めた。首から肩、肩から胸、胸から腹、腹から腰。最後に背中。筋肉や骨格を意識しながら触れる。実際に触れることで得られる、人体に関わる知識は航の知識欲を満たしていく。 そして、同時に快感が樹を包み込む。「我慢しなくていい」とは言われていたものの、集中している航の邪魔をしたくなかったのだろう。下唇を噛み、声を出さないように耐え続けていたが、最後に背骨を撫でられた瞬間、耐えきれず嬌声を上げた。 「っんぁ…あぁっん…いいっ…」 甘く上擦った声が作業部屋に響く。樹の喘ぎ声を合図にするかのように、航の手が離れた。 しかし、航の手が離れても、樹の体は小刻みに震え続ける。ソファの背もたれに頭を預けたまま動く様子もなく、顔は紅潮し、息は荒い。熱っぽく潤んだ瞳で窓の外を眺め続けていた。 「時間かかって、ごめん。…大丈夫?」 心配そうな航の声かけに樹は微かに頷く。 「…お気遣い、…ありがとうございます。…しばらくしたら…落ち着くと思います。 …もしデッサンされるのなら、…どうぞ」 「…うん…そのまま動かないで」 航はスケッチブックを取り出すと、鉛筆を走らせ始めた。ただ、最初は上半身全体をデッサンをしていたものの、その手はやがて止まり、ソファの背にもたれかかり窓の外を眺める樹の横顔を描いていた。 端正な顔立ち、紅潮した頬、半開きの唇。快楽の残り香を味わっているかのような色気も魅力的だったが、寂しそうな、どこか遠くに行ってしまいそうな瞳に航は吸い込まれそうで目が離せなかった。まだ誰かに見せられるほどの技量はないれけど、それでも今描かないといけないという衝動に駆られていた。 その日も結局、日がとっぷり暮れるまで、航の集中力は切れることなく、デッサンは続いた。 「今日も長い時間、ありがとう」 薄暗い部屋の中、床からシャツを拾い上げると、樹の肩にかける。 「とんでもないです。…描いていただけてありがたいです。…夕食の準備をします。」 樹はシャツに袖を通すこともなく、航と視線を合わせることもないまま、足早に作業部屋から出て行った。航はそんな樹を見て、やはり寂しさを感じずにはいられなかった。 夕食をとり、シャワーを浴びたあと、航は早々に寝室に引きこもる。樹が持ってきた、ヒューマノイドの取り扱い説明書のデータを再生し検索し始めた。愛玩タイプの特性を把握するために。 航は何度も考えたが、やはり樹と体の関係を持つことは躊躇われた。興味がない。というより、肉体関係を持つことで樹との距離感や関係性を自分自身が変えてしまいそうで怖かった。かと言って、体の関係を持たないことで樹を苦しめ続けることも本意ではない。肉体関係を持つ方法以外で樹の性的興奮を減らせる方法がないか、説明書を読み漁る。 航の理想は、樹を「何らかの方法で違うタイプを変更する」こと。しかし、取り扱い説明書を調べた限り、一度設定されたタイプを他の仕様に変更出来なかった。各特性に合わせてプログラミングや刷り込みが行われるので、そう簡単に変更出来ないようだった。航はため息をつく。 …薬を使うしかないのか 取り扱い説明書で検索して分かったことがある。時や場所を選ばず、誤ってヒューマノイドが性的興奮を高めた場合、強制的に抑える方法がひとつだけ記載されていた。それは、専用の鎮静剤を飲ませることだった。根本的な解決にはならないが、一時的でも性的興奮を抑えられる。すぐさま航はネットで薬を購入した。 叔父に連絡することも考えていた。樹を送ってきた真意を確認したかった。なぜ愛玩タイプなのか。航自身、元来、同性愛者ではないのに、なぜ同性タイプなのか。しかし、航は連絡することをやめた。今更どうこう言っても仕方ないことだし、何より樹をもう手放す気にはなれなかった。 ベッドに寝転んで天井を見上げる。いろんなことが頭に浮かんでは消える。良い案なんて出てこない。ため息だけが航から漏れ続けた。

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