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第2話

それから、昼食後に樹をデッサンすることが航の日課のようになっていた。樹の負担を減らすため、触れる頻度や時間を短くし、鎮静剤の服用を提案したものの、「大丈夫」だと言い張り、樹は頑なに断り続けた。結果、快感に耐え、最後は視線も合わせずに樹が部屋を去る日々が続く。 罪悪感や寂しさを感じていたが、描きたい欲求には勝てなかった。毎日描いても飽きない。もっと上手になりたいという思いが日々強くなる。 そうやって、デッサンというルーティン時間ができると、五月雨式に生活にもメリハリが出てきていた。朝が弱いことには変わりはなかったが、日中にデッサンをしているため、自然と夕食後に勉強をすることが習慣になり、時には気晴らしを兼ねた外出を定期的にするようになっていた。 10日程経った頃。いつものように樹は朝早くから掃除をしていた。前日まで降っていた雨が嘘のように、その日は太陽はすでに高く、日光が家の中を明るく照らしていた。鷹のような、猛禽類と思われる鳥が空高くを飛んでいる。樹は手を止めて、ぼんやりと眺めていた。 「樹、おはよう。」 背後から突然声をかけられて驚いたのか、樹は慌てて振り返る。 「おはようございます。…今日はお早いですね。」 いつものように薄く笑う樹。航はまだ眠そうな顔で、瞼も重そうだった。 「うん。今日さ、出かけようと思っているんだ。 それで、もし出来たらでいいんだけど、昼食を早めに準備してもらえないかな。」 「かしこまりました。それでは11時くらいでよろしいですか?」 航はあくびをしながらも笑みを見せる。 「うん、ありがとう。…あ、だから、今日はデッサンしないから好きなように過ごして。」 航は再び寝室へ戻ろうとした。しかし、樹の声が航を引き留める。 「どちらへ外出される予定ですか?先日と同じく、市街地ですか?」 一瞬、航の視線が泳いだ。沈黙が流れる。 「あー、今日は山だけど。…良かったら、樹も一緒に来る?」 樹は驚き、目を大きく見開いた。 「はい、喜んで。」 笑みを浮かべる樹につられて航も笑みを浮かべた。 早めの昼食を終えた後、2人は出かけた。 最初、人が歩くために作られた山道を進んでいたが、やがて途中から獣道といってもおかしくないような細道を進み始めた。木漏れ日の中、山鳥の声が大きくなり、近くに感じる。 「この村に引っ越してきた頃に、気分転換になるかと思って、いっ君と山に入ったんだ。 そうしたら、いっ君にぐいぐい引っ張られてさ、ついて行ったら見つけたんだ」 生い茂る草木をかき分けながら進むため、思いのほか、前に進むにも時間がかかる。それでも航は楽しそうに樹に話しかける。 「見つけた時はすごく驚いて。嬉しくて。…きっと樹も気に入ってくれると思う。」 目的地に何があるのか航はあえて話さない。樹を驚かせたかった。いや、喜ぶであろう、樹の顔を想像するだけで航の気持ちは浮かれる。 樹も何があるのかは聞いてこなかった。それよりも前日までの雨でぬかるんでいる足元が気になっているようだった。 「それはとても楽しみですが…まずは足元にお気をつけください」 「うん、大丈夫だよ。…もうすぐだから。」 そう言いながらも、航はぬかるみに足をとられて何度もバランスを崩していた。樹の顔から笑みは無くなり、航の一挙一動を見守り続ける。やがて木々が少しずつ減り、視界が広がり始めた。 「あ!あそこだよ!」 振り返りそう叫ぶと、航は我慢できずに草木をかき分けながら無理やり走り出した。 「お待ちください!」 諌めるように樹は声を上げる。しかし、航には間に合わなかった。体のバランスが大きく崩れたと同時に、航の視界は大きく揺れ、真っ青な空しか見えなくなった。背中や腰に衝撃が走る。 樹の視界からも航は一瞬で消え、土の上を滑り落ちる大きな音だけが耳に刺さった。 航は自分が落ちていると分かったが、驚きで体は硬直し、受け身を取ることもできず、気づいた時には泥溜まりの中で寝転がっていた。背中、腰、足に痛みが走る。どうにか上半身を起こすと、ほぼ同時に樹がすべり降りるように駆け寄ってきた。 「ビックリしたぁ!」 航は笑いながら樹を見る。航にとって、笑い話になるような失敗の一つだった。しかし樹の顔には何も表情はなかった。ただ、強い視線だけが航に向けられていた。 「…樹、もしかして怒っている?」 人間に危害を加える恐れが大きく、"不要""不適切"という理由で、ヒューマノイドは"怒り"という感情が制御されていた。しかし、直感的に航は樹の怒りを感じた。 「大したことないからさ…」 航は笑いながら、どうにか取り繕おうとした。 「もっとご自身のお体を大事にされてください!」 航の言葉を遮り、樹は叫んだ。そして、次の瞬間、樹は泣きそうな表情を見せる。震える指で、どこか傷ついていないか航の全身を確認し始めた。 「…どこか…痛い…ところは?」 指だけでなく声も震えている。今にも泣きそうだった。 「大丈夫だよ!」 安心させようと、笑顔で、わざと明るい声で航は答える。しかし、航の声が聞こえていないように、樹の震えは止まらず、何度も何度も航の体を確認する。航は笑顔のまま樹を強引に抱きしめた。 「…ごめんね…ありがとう…大丈夫だよ」 強く抱きしめ、耳元で何度も囁く。それでも、抱きしめられ身動きがとれない中でも、樹は航の体に触れようとしていた。 「だい…じょう…ぶ?」 「うん、大丈夫だよ。ごめんね、ありがとう。」 少しずつ樹の中に航の声が浸透し、やがて落ち着きを取り戻した。 「本当に…お怪我はないですか?」 「うん、少し痛いだけ」 打撲の痛みはあるものの、土がぬかるんでいたため、大きな怪我はなかった。航は勢いよく立ち上がって見せると、樹の表情はやっと緩み始める。 航は笑顔で樹に手を差し伸べた。樹もすぐに航の手を取り、立ち上がる。そして、いつもの笑みが戻った。 「航も…ずいぶんと子供っぽいところがあるんですね」 「…でもね、それだけ、興奮してしまう価値があるんだ」 航がゆっくりと腕を上げ、指を差す。樹が視線を送ると、そこにはヤマザクラが咲いていた。大きな石がゴロゴロと無数に転がり、その隙間を縫うような小さな沢。その沢の隅にヤマザクラが一本だけ立っていた。老木なのか樹皮の一部は朽ち果てようとしていたが、枝振りは堂々としており、生命力を感じた。八分ほど花は咲き、風に揺れている。 「…これは…素晴らしいですね」 樹は目を大きく見開いたまま、目が離せない。 「そうでしょ!?」 航は強引に樹の手を引きヤマザクラへ近づくと見上げる。ヤマザクラ特有の匂いがほのかに香る。 「最初見つけた時はまだ咲いていなかったんだ。 それで、もうそろそろかなと思って、今日来たけど正解だったよ!」 風で飛んできた桜の花びらを反射的に掴むと、再び空へと手離す。 「こんな石だらけの中に、しかも1本だけ。 ここまで大きくなるのは生きづらいだろうに、花を咲かせても寂しいだろうに、すごいよね」 まくしたてるように話すと、航は巨石の一つに座りスケッチブックを取り出した。 「スケッチしたいから、しばらく待ってて」 樹は薄く笑う。 「かしこまりました。…ただ、シャツを洗いますから脱いでいただけますか」 さきほど転倒した際に航のシャツは泥だらけになり、見過ごせないほどのひどい有様だった。 「別にいいよ」 「そういうわけには参りませんから…さあ、どうぞ」 やんわりと、しかし強い意志を見せる樹に航は反論する気になれなかった。いや、反論する時間がもったいなく、スケッチに集中したかった。シャツのボタンを外すことさえ面倒で、Tシャツのように一気に脱ぐと樹へ渡す。樹は含み笑いをしてしまうが、そのことにも気付かず、航はスケッチに集中し始めた。 そんな航を横目に、透明度は高く、そして肌を刺すように冷たい沢で樹はシャツを洗い、陽当たりの良い場所に干す。石は熱を帯び、風も心地よく吹いている。数時間もすれば乾きそうだった。 航の元に戻り、すぐ近くに腰を下ろす。雲に隠れることなく降り注がれる日差し、絶え間なく沢を吹き抜け続ける風、微かに聞こえる沢の流水音、ほのかに香る桜の匂い、全てを味わうかのように僅かに微笑みながら瞼を閉じた。まるで樹の周りだけ時が止まったかのようだった。 航が気づかないわけがない。樹に目を奪われ、スケッチブックをめくり、描き始めた。いつでも樹を描けるとは思うが、室内ではなく、開放感溢れる自然の中で見る樹の表情はまた違って良かった。 ただ、数時間後、航は眠気に襲われていた。珍しく早起きしたことや陽気な日差しに誘われたことも一因になっていた。とうとう我慢出来ず、スケッチブックを脇に置き、石の上に寝転ぶ。すると、物音に気づき、樹が瞼を開いた。視線が合う。 「陽射しと風がすごく気持ち良いよね…俺も眠くなってきたよ…」 僅かに微笑むと航は自分の腕を枕にし瞼を閉じた。樹は慌てて、干していたシャツを取りに行き、急いで戻ってくる。 「航、失礼します」 航の頭を持ち上げると、自らの大腿部を押し入れた。そして航の上半身にシャツをかける。 「…ん…ありがとう」 一瞬驚く航だが、樹の膝枕が気持ち良かった。程よい硬さに、間近に樹がいる安心感。子供みたいで恥ずかしかったが、誰かが見ているわけでもない。そのまま甘えてしまう。 「樹、頭撫でてよ」 ついもっと甘えてしまう。 「…かしこまりました」 樹の指先が何度も頭皮を優しく撫でる。航の頬は緩み、気持ち良さで微睡み始めた。もう少しで夢の中、その時に樹の手が止まった。航が瞼を開けると樹の視線は遠くにある。視線の先はヤマザクラだった。 「…樹?…どうしたの?」 樹の視線が航に戻り、手が再び動き出た。航の頭皮を優しく撫で始める。 「申し訳ございません。 …あのヤマザクラ、とても綺麗ですが、…見れば見るほど、美しさの中に少しだけ怖さを感じます」 航は一瞬、眼を見張り、微笑んだ。 「樹も感じるんだ。 …スケッチ始めてから気づいたけどさ、なんだか不思議な魅力があるよね。 寂しげだからかな、一度吸い寄せられたら、もう戻れない気がする。」 その時、突然、強い風が吹き、大量の花びらが舞い散った。樹を包むように舞うと、そのまま風に流されて消えていく。まるで映画の1シーンのようだった。無意識に航の手が伸び、樹の頬に撫でた。 「樹は綺麗だね。桜の花びらも似合う」 怪しげで寂しげな桜の花びらに包まれると、儚さが生まれ、また違った美しさが樹にあった。ただ、儚さゆえに、いつか突然消えてしまいそうにも思えた。航の心の片隅で不安が生まれる。 「ヤマザクラについていかないでよ。樹には俺のそばにずっといて欲しいよ。」 航は冗談ぽく笑う。不安に押され、冗談でもそう言わずにはいられなかった。 「えぇ、いつまでもおそばにいます」 樹は微笑む。それは、航が久しぶりに見る満面の笑みだった。 ただ、その笑顔が航の中に巣食っていたわだかまりを吐き出すキッカケになった。航の顔から表情がなくなる。 「あのさ、ずっと気になってて、でもなかなか聞けなかったことがあるんだ。」 「なんでしょう?」 樹の笑顔は変わらないままだが、対照的に航の視線は揺らいでいる。 「単刀直入に聞くけど、…デッサンのモデルになるの嫌?」 樹は驚き、何度も首を横に振る。 「そんなことありません。私は航のために…」 「だったら、デッサン終わった後、どうしていつも俺と目を合わせてくれないの?」 樹の目を真っ直ぐに見据え、言葉を遮るように航は言葉を重ねた。航の視線が揺らぐことはないが、目の奥に不安な色が見え隠れする。 「前にも言ったけど、樹が嫌なことはしたくないんだ。俺に気を遣わず、はっきり言って欲しい。」 樹は狼狽え、顔を背けてしまう。そんな樹を見て、言葉を続けようと航は口を開くが、あえて閉じた。樹を問い詰めることをしたくなかった。樹が話し始めるまでじっと待つ。 少しずつ陽は落ち、空をオレンジ色に染めていく。やがて樹は躊躇いがちに口を開いた。 「恥ずかしいのですが…いつも…ひどく欲情しているのです。 自分自身を落ち着かせることが最後まで出来ず… もしかしたら航を押し倒してしまうのではないかと思うほど… 自分をどうにか抑えるため、出来る限り航を見ないように、匂いを嗅がないように退出しています」 航にとって、想定していない言葉が出てきた。 「匂い?香水とかつけてないけど…」 「…航の…体臭です。 …お伝えしていませんでしたが、…ヒューマノイドは主人の匂いにも敏感に反応します。 …今は外なので良いのですが…」 風の音にもかき消されそうなほど、樹の小さい声。恥ずかしいのか、嫌われたくないのか、樹は瞼を閉じていた。 「…そうなんだ…それでも…薬はどうしても嫌?」 「…認知機能が狂うので…それに…少しでも…ギリギリまで…航を…感じていたいです」 今後どう折り合いをつけるか航は悩み、目を伏せる。均整のとれた樹の体は、触るたびに勉強になり、航にとって良い教材だった。デッサンを続けたいし、できればデッサン後に樹と話したいし、そして、いつか樹に絵を褒めて欲しかった。 ただ、そのために薬を強引に飲ませて悲しい顔をした樹を見たくもない。 「…まだ、その、セックスは抵抗あるんだけど…少しは発散できれば違う?…例えば…キスとか」 航にとって精一杯の譲歩だった。 その言葉に樹の瞼は開き、一瞬光る。そして自然の流れで、樹の首が縦に振られる。 「樹が望むならいいけど。…ただ、俺の知っているキスって普通のキスだけど…それでいいんだよね? …もし違うなら言って。」 映画などで見るよう濃厚な口づけを航はしたことがなかった。子供っぽい、軽い口づけで樹が満足するか航は不安だった。恥ずかしさもあるが、はっきりとさせたかった。樹の顔色を窺う。 その航の不安は的中し、案の定、樹は視線を泳がせ始め、何か言おうとして唇が僅かに動く。しかし口をつぐみ、再び顔を背けてしまった。 航はつい笑ってしまう。 「恥ずかしいのは俺の方なのに。樹はとびきり純粋で可愛いな。 …はっきり言ってよ。樹がどうして欲しいか教えて欲しいんだ。」 樹は顔を背けたまま口を開いた。 「淫乱に…思われるかもしれませんが…もし宜しければ…舌を…舐めて…いただきたいです」 消え入りそうな声だった。しかし、航の耳には届いた。 航が覚悟を決めるしかなかった。唾を飲み込む。 「分かった。…今、試しにしてみようよ。違っていたら教えて。」 樹は驚き航を見る。その樹の瞳は驚きながらも期待の色が濃く出ていた。その期待に応えられるか不安で、航はもう一度つばを飲み込む。そして、ゆっくりと体を起こしたとほぼ同時に樹を押し倒した。航にかけられていたシャツが風になびいて落ちる。 「航!?」 「恥ずかしいからさ、目を閉じて。…下手でも笑わないでよ」 冗談ぽく言うものの、航の顔は緊張で強張っている。そんな航を見てしまうと何も言葉に出来ない。樹はぎこちなく笑うと、言われた通り目を伏せ、口を僅かに半開きにした。唇は微かに震えている。呼吸は浅く早い。 航は何度か深呼吸し、樹の肩を掴むと、ゆっくり樹と唇を重ねた。想像していた以上の唇の柔らかさが伝わってくる。その柔らかさに驚き、そして思いのほか緊張し、航はそのまま動くことができなかった。 指先まで甘く痺れる。風で木々が擦れる音、沢の流水の音がなぜか大きく聞こえる。たまらず僅か数秒程度で一旦離れるが、2人にとっては長い数秒だった。それでも、樹の体は小刻みに震え、もっと欲しいと言わんばかりに瞼を薄く開け航を見つめている。 樹の視線に気づいた航は、その期待に応えるとでも言うかのように、ぎこちなく笑う。そして、深呼吸をし、もう一度唇をゆっくりと重ねた。今度は、恐る恐る舌を差し入れる。途端、樹の体は大きく震え、縋るように航の背中に手が回された。 唇を通して樹の震えが伝わり、そして航を求めるかのように抱きつかれたことで、航の中でも興奮が嫌でも昂っていた。ゆっくりと樹の舌を舐める。舌を舐める感触自体はあまり気持ち良いとは思えなかったものの、行為自体にひどく興奮した。何度も舐めると、その度に樹は熱い吐息をこぼし、時に喉を鳴らす。そんな樹に航はまた興奮する。 口づけと同時に、航の匂いが樹の鼻腔を直撃し、そのまま頭の芯を擽り、樹の自制心が緩くなることに拍車をかけていた。自然と樹も航の舌を舐め始める。航は驚くが、止めさせる気も起きなかったし、自身が止めようとも思わなかった。 上手とか下手とかもう関係なかった。舌を舐め合う行為は止まらず、まるで舌同士が複雑に絡みあっているかのように離れがたかった。舌が舐め合うことで起こる、唾液のネチャネチャとした音も2人をより一層興奮させた。樹の肩を掴む航の手にも力が入り、樹の体は震えが止まらない。 しかし、樹の中で理性というブレーキがかかった。唐突に顔を背ける。 「…間違い…ありません。…もう十分です。…ありがとうございます」 樹の顔は赤く染まり、息も荒く、そして腰が微かに揺れている。これ以上の快感を味わってしまうと、欲情を自制できるか自信がない。そう言わんばかりに樹は目に涙を浮かべ、首を振る。 「…もう帰りましょう」 体を起こそうと、航の体を樹がやんわりと押す。それなのに、航の体は動かない。むしろ、樹の手を取ると、押さえつける。 初めて知った興奮を航はもっと感じたくて仕方なかった。 「樹の唇ってすごく柔らかく気持ちいいんだね。…もう1回、練習しようよ。」 航の要望に樹の視線が揺らぐ。動揺していた。 「申し訳ございません。思いのほか、もうだいぶ興奮しています。 …このままだと…航を押し倒して止まらなくなるかもしれません」 航と樹の体格差を考えれば、樹が航を押し倒すことは容易だったし、航が嫌がったとしても、そのまま性行為までおよぶ可能性もあった。歯止めがかからなくなることを恐れた樹は、現状を正直に伝える。しかし、航は眉間に皺を寄せつつも動かない。 「…それは…困ったね。でもさ、あと1回だけ。1回だけ練習させてよ。それだったら、我慢できない?」 まるで無邪気な子供のように航は貪欲に求める。 「さっきよりもっと大きく口開けてよ。…舌ももっと出して。…もっと奥深くを舐めてみたい。」 見下ろす視線は樹を捉えて離さず、興奮し、情欲に溢れていた。 樹が航が拒否できるはずもない。そうプログラミングされていた。 「航…」 航の名前を呼ぶことが樹にとって唯一できる抵抗だった。 「樹、早く。日が暮れちゃう」 しかし、樹の思いが航に届くことはなかった。続きを期待し、航の目は輝いている。 樹は諦めたかのように、ゆっくりと口を大きく開き、舌を差し出した。舌先が震えている。 「奥深く舐めたら、もっと気持ちいいのかな…楽しみだな…」 航は興奮ぎみに呟くと、自身も大きく口を開き、再び重ねようとした。 その時、動物の鳴き声が聞こえてきた。力の限り、激しく鳴いている。嫌でも耳に入ってくるほどの声の大きさだった。航の動きが止まり、ゆっくりと上半身を起こした。周りを見渡す。 「なんだろ…?猫…?」 その瞬間、航を押し退けるようにして、腕の中から樹が逃れた。 「確認してきます」 突然のことに驚いて動けない航を残し、樹は足早に鳴き声の元を探しに行く。 「樹!!!」 呼び戻そうと航が叫んだ。しかし樹の歩みは止まらない。振り向きもしない。 航は溜息をつくと、八つ当たりするかのように、乱暴にシャツを拾い上げた。シャツから土の匂いがして、懐かしさがこみ上げる。同時に航の中に平常心が戻ってきた。 思っていた以上に樹との口付けに興奮した自分に驚きつつも、やはりまだ名残惜しかった。しかし、もうこの場で樹を再び押し倒す気にもなれない。 …デッサンの時にキスするだろうし。 そう自分を納得させ、片付けを始めた。 やがて戻ってきた樹の腕の中には猫がいた。腹を空かしているのか、庇護を求めているのか、ずっと泣き続けている。そして、真っ赤な首輪が見え隠れしている。小さい頃に捨てられたのか逃げたのか、首輪が首に食い込み、見ているだけでも痛々しかった。 「石に足が挟まって怪我をし、動けずにいました。どうしても見捨てることが出来ません。 …飼うことをお許しいただけないでしょうか」 樹は怒られることを覚悟しているかのように、体を小さくし、猫を抱きしめたままずっと俯いたまま動かない。航はため息をつく。 「正直、俺はしばらくペットは考えていないんだ。」 樹の指が震える。そんな樹を見て、航は笑いながら猫の頭を撫でる。そのまま、濡れて固くなっている首輪に手をかけ、やや強引に外し始めた。 「だから、俺は無理だけど、樹が責任もって飼うならいいよ。」 その瞬間、樹は笑顔を見せ、何度も頭を下げる。 「ありがとうございます!」 「…うん。」 猫の首を絞めていた首輪がどうにか外れると、叫び声が落ち着き、樹に甘えるようなしぐさを見せた。まだ幼いのか、人懐っこいのか、警戒心がない。樹も目を細めて猫を撫で始める。 猫を飼うことに航は内心乗り気ではなかったが、樹に対する罪滅ぼしのような気持ちがあった。それに、捨てられた猫に樹が自分自身を重ね合わせているような気がして無下にできなかった。 「…もう帰ろうか」 航の呟きに合わせるかのように、夕方の訪れを知らせるサイレンの音が響き渡る。夕日は傾き、薄暗くなっていた。 「そういえば、航に見せたいものがありました。」 「何?」 樹が胸ポケットから取り出しものは、親指ほどの大きさの石があった。まるで手染めされたかのように、白と赤のまだらの模様になっている。 「綺麗だなぁ」 航は思わず手に取り、夕日にかざした。夕日に映えて、より一層綺麗に輝いている。航の頬が緩む。 「天然石みたい」 「シャツを洗っている時に沢で見つけて、まるでヤマザクラのように綺麗でしたので拾いました。 …もし宜しかったらどうぞ」 航は驚き、慌てて突き返す。 「そういうつもりじゃない!返すよ!」 樹は薄く笑う。 「航に見せたら、沢に戻すつもりでしたから、お気になされないでください」 「…そうなんだ。…ありがとう」 航は一瞬考えた後、胸ポケットに石を入れた。そのまま航はヤマザクラへと振り返る。夕日に照らされ、妖艶さが増していた。目に焼き付け、心の中で別れを告げる。 …いつになるか分からないけど、また来るから。 そして、夕日が落ちていく中、足早に帰路へと着いた。

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