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第3話
それから5年後。
樹は庭の草むしりをしていた。どんなに雑草を取り除いても、数日経てば、庭のどこかしらに生えている。しかし樹にとって苦にはならなかった。なぜなら他にすることがなかったからだ。日々の家事は掃除程度で、当然のように、それもすぐに終わる。草むしりは長い1日を終えるための暇つぶしに近かった。そのため除草剤を使う必要性も感じていなかった。遠くから聞こえる鳥の声、優しい風の音を聞きながら、樹は無心でただ抜き続けた。
やがて空が茜色に染まり、夜の訪れが近いことを示し始める。樹は小さくため息をつくと、抜き終えた雑草を集めようとした。その時、突然、背後から声が響いた。
「樹、ただいま!」
振り返って確認するまでもなくすぐ分かった。航だ。振り返ると、笑顔の航が立っている。樹も満面の笑みを浮かべて駆け寄る。
「航、おかえりなさいませ」
航はボストンバッグを地面に置くと、樹を抱き上げるように抱きしめた。
「樹は軽いな」
「…航がまた少し成長されたんですよ」
5年の間に航は成長し、樹の身長を超え、肉体も逞しくなっていた。樹を抱き上げることも大した苦ではない。対照的にヒューマノイドである樹の肉体は成長することも老化することもない。
解放すると、樹の頬を航は撫でる。皺一つない端正な顔や痣一つない滑らかな素肌など、いつまで経っても若さを保ち続けていた。
「樹は変わらないね…。…デッサンしたいなあ。」
樹は薄く笑い、頷いた。
「かしこまりました。…掃除を終わらせますから、先に室内でお待ちください」
雑草をまとめて捨てようと庭に戻ろうとした。しかし、航は樹の手を掴み、強引に抱き寄せた。そのまま、驚く樹の顔を覗き込み、ゆっくりと唇を重ねた。樹の唇を何度も甘噛みし、時々、気まぐれに下唇を吸い上げる。樹は従順に口を半開きにして受け入れた。
「樹、俺は今すぐがいいな。…ダメ?」
「…かしこまりました」
樹の手は泥だらけだったが、それでも航の背中へ手を回した。航は笑みを浮かべると、再び樹の唇を甘噛みする。
航の寝室、ベッドの上に2人はいた。壁にもたれかかるように航は座っている。その航の両足の間に樹は座り、肩に頭を預けるように抱きついていた。
樹は大きくゆっくりと、何度も深呼吸を繰り返す。自分の体を航の匂いで満たすように。深呼吸をするたびに体が微かに震え、頬も赤く染まり始めている。ただ、片手で航のペンダントを弄んでいた。白と赤がまだらになった石のペンダントトップ。以前、ヤマザクラの近くで樹が拾った石だった。弄んではぼんやりと見つめ続ける。
航は右手で煙草を薫せ、左手で樹の背中を優しく撫で続けていた。
「今回働いた場所は思っていた以上に南国でさ、
雨もあまり降らないし、たまに降っても、空気が綺麗なのか、虹がすごく綺麗なんだよ。
満足いくスケッチがたくさんできたんだ。樹にも見て欲しい」
「はい…それは…楽しみです」
「夜も星がとても綺麗でさ、近いというか、他の場所とはまた違って輝きが違うんだよ。
ずーっと見ていても飽きなくて。高機能カメラを持っていけば良かったよ」
「次回から…荷物に準備いたします」
「そうそう。樹にお土産があるから、あとで渡すよ」
「…ありがとうございます」
航は社会人になり働き始めたが、趣味と実益を兼ねて、日本各地でバイトや季節労働をしていた。各地で働き、各地の人々の生活を知り、各地の人々の人生を少しだけ垣間見、各地の風景をスケッチすることが航のライフワークの一つになっていた。
今回、航は2週間ほどのリゾート地でのバイトを終え、思い出話を樹に話していた。しかし、突然、大きな笑い声を上げ、樹の顔を強引に持ち上げた。
「樹は何をそんなに怒っているの?」
怒りを出せず、思考の読めない表情や瞳を見せることの多い樹だが、長く一緒に暮らせば、完全とはいかないものの、樹の思考や機嫌を感じ取れるようになっていた。
快感に少しずつ身を委ねている樹だったが、その航の言葉に動揺する。
「…私はヒューマノイドです。主人に対して怒りなど…」
樹の決まりきった言い訳が始まる。航は軽く笑い、言葉を遮る。
「樹。今、考えていることを言って」
言葉を促すように、樹の頬を優しく撫でた。一瞬躊躇いつつも、樹の手はペンダントから離れ、航の体を撫で始めた。2週間前との違いを確認するように。
「…少し逞しくなられた気がするのですが、…何かされていたのですか?」
「うーん。今回はキツめの肉体労働が多かったらね」
「…指がテーピングだらけなのは…なぜですか?」
「あぁ、これ?出来ないって言ったんだけど、無理やりアウトドアで料理させられたんだよ。
結局、ちっとも料理はできないまま。…あぁ、でもピザは作るのは好きだな。」
「…煙草の匂いが…変わった気がするのですが…」
「よく気づいたね。見慣れない、外国産の煙草が売ってあったから買ってみたんだ。結構、美味しくって。
…樹も吸ってみる?」
樹は首を横に振り、そしてそのまま航の胸に顔を埋めて嗚咽を漏らし始めた。
「私の…私の知らないところで、…航が変わっていく話を聞くのは辛いです。
どうか…どうかお願いしますから…次は私も連れて行ってください。…なんでもしますから」
全身を震わせている樹を見ながら、航は笑顔のまま軽くため息をつく。
「俺のことを全て把握したいの?だから怒っていたんだ。…ずいぶんと独占欲が強いね。」
樹の背を軽く何度も叩き、その場を誤魔化すように明るく言った。しかし、樹は慌てて顔を上げる。
「心配で堪らないのです」
涙で滲んだ瞳でじっと真っ直ぐに航を見つめる。航の顔から笑顔が消え、再びため息が漏れる。
「…以前、連れて行ったら大変なことになったじゃないか。だからもう連れて行かない。」
樹の目から涙が溢れ出した。航の胸に強くしがみつく。
「お願いします…お願いしますから…なんでもします
…何もするなと言うなら、何もしませんから…連れて行ってください」
呪文のように何度も同じ言葉を繰り返す。航は天井を見上げ、大きくため息をついた。
「ダメだよ。絶対に連れて行かない。…この話はとっくの前に終わったことでしょ。やめよう」
樹の後頭部を掴んで強引に持ち上げると、自分の首に押し付ける。
「ほら、俺の匂いを深く吸って」
樹は何か言おうと喉を僅かに鳴らしたが、すぐに諦め、言いつけ通り深呼吸をし始めた。
その様子を見ながら航は煙草を咥える。煙草の味を深く味わい、吐き出された煙の独特な匂いが部屋に薄く広がっていく。2,3回繰り返すと、樹のシャツを両手でたくし上げ、白くて滑らかな肌を撫で始めた。背中、胸、腹と優しく、時に強く刺激しながら指が動き回る。その一つ一つの刺激に樹の体が震え、そしてその刺激から生まれる快感が堪らず、樹の喉から上擦った声が漏れる。
「…あぁ…っん…」
慌てて樹の肌から航の手が離れる。泣かれるのも困るが、快感に溺れるすぎるのも困る。咥えていた煙草を再び手に取り、静かに樹の顔を覗き込む。僅かに見える樹の目から涙はもう流れていなかった。航の背中へ腕を回してしがみつき、全身を小刻みに震わせながらも、一心に深呼吸を繰り返していた。
「ごめんね」
航は安堵のため息をつきながらも小さく呟く。独占欲が強いのは、樹ではなく、自分自身だと航自身だと気づいていた。
以前、2人で旅行をした時、樹は強姦されたことがあった。その時、航は自分の不甲斐なさに傷ついて、泣いて、強くなろうと決意した。そして、誰にも樹を見せたくなくて触れさせたくなくて、まともに外出を許さず、この家に閉じ込めていた。
ヒューマノイド相手にそこまでやることが歪だと航自身でも思っていたが、それでも、やめることは出来なかった。
「樹、俺の声が聞こえる?そろそろ服を脱ごうか」
樹は返答せず、深呼吸を続ける。しかし声は聞こえていたようで、航の背中にしがみついていた腕が力なく落ちた。そして、ゆっくりと震える指でシャツのボタンを外し始める。ただ、動きが緩慢だった。見ている航からすると焦れったい。
「代わりにやってあげるよ」
航は煙草をサイドテーブルの灰皿に捨てると、樹のシャツのボタンを代わりに外す。はだけさせると、そのまま一気に腕から抜いた。白く、滑らかな肌が露わになる。
「腰、上げて」
言われるがまま、樹が気だるそうに腰を上げると、航は手慣れた手つきでボトムスを膝まで引きおろした。
「横になろうか」
樹の両肩を持ち、体をわずかに横へ移動させた。途端にバランスを崩し、ベッドへ倒れこむ。受け身をとることもなく、うつ伏せになった樹は、荒い呼吸を繰り返すばかりで動かない。
「大丈夫?」
そう言いながらも、膝まで下りていたボトムスを航がはぎ取った。樹は全裸となったが、それでもやはり動く気配はない。ただ、呼吸を繰り返すたびに胸が上下するだけだ。髪が顔にかかり、表情を窺い知ることができない。
航もさすがに心配になり、ゆっくりと髪をかきあげた。すると、樹の頬は紅潮し、口は半開きのまま呼吸を繰り返していた。瞼を重そうにしながらも目は潤み、視点は定まらないまま揺れている。航の頬は自然と緩んだ。
「樹、デッサン始めるよ。」
耳元でささやくと、仰向けに誘導する。久しぶりのため、樹の顔はどうしても描きたかった。
樹も抵抗することなく、導かれるまま仰向けになり、ぼんやりと宙を眺めていた。全裸であることを隠そうともせずに。
航は満足げな笑みを浮かべるとようやくベッドを離れ、スケッチブックの準備を始めた。
樹をモデルとして航はデッサンを描くようになったが、鎮静剤の服用を樹が拒み続けたことがキッカケで、欲情した樹の美しさに気づき、そして魅入られていた。何度描いても飽きない。そして、2人きりの世界を邪魔する人も忠告する人もいない。坂道を転がるように航は樹に傾倒し、樹をギリギリまで、そして少しでも長く欲情させてデッサンすることが常となっていた。
ただ、後から知ったが、ヒューマノイドは性的興奮を一度感じると、自然と収まることは無かった。性的行為をするか薬を使うか、何かしら対応しない限り収まることは無かったし、放置すれば禁断症状のようになることがあった。そのため、最後に航が樹の性的興奮を発散させることでデッサンが終わっていた。
言われるがままモデルを続ける樹に航は罪悪感を感じることもあったが、"描きたい"という誘惑には勝てず、ずるずるとそんな関係を続けていた。
その日も、樹に緩慢な快楽を与えると、少し離れたソファに座り、デッサンを始めた。ベッドの上の樹は航がデッサンを始めたことに気づいていないのか、快楽をもっと求めるかのように、ゆるゆると胸や腰を揺らし、誘っているかのようだった。
「樹、あまり動かないで」
航の言葉に反応し、樹の動きは止まる。そして、航の言いつけを守ろうと、両手両足の指でシーツを握りしめ耐えようとするのも束の間、やはり耐えきれない。許しを乞うかのように航を呼び、微かに甘く上擦った声を漏らす。腰が緩慢と動き出し、切なげに自分で自分の肌を撫でる。視線はどこまでも遠く、熱を帯びていた。
「樹、綺麗だな…」
つい見惚れてしまい、航の手が止まってしまう。理性を僅かに残しながらも快感に浸り、恍惚な表情を見せながも、時折、苦悶の表情を垣間見せる樹。理性と欲望という相反する感覚に揺れ動く樹の姿はひどく美しく、妖艶な輝きを放っているように見えた。
つい目を奪われてしまうが、時計の音で我にかえり、慌てて鉛筆を走らせる。
それからどのくらい時間が経ったか。樹の呼吸は目に見えて荒くなっていた。ベッドの上で体を大きく身じろぎし、何度も航の名前を叫ぶ。怒りはもちろん、不平不満などを言うことが出来ないヒューマノイドである樹は、名前を呼び続けるしかなかった。しかし、航は動じない。いつものことだったからだ。
「あー。樹、まだ待って」
航は鉛筆を走らせる手を止め、ボストンバッグからまだ洗濯していないシャツを手早く取り出すと、樹の鼻先に置いた。途端、樹はシャツを握りしめ顔に押し付けた。そして、飢えを満たすかのように、航の匂いを少しでも多く得るため、せわしなく深呼吸し始める。
「航……航……航……」
シャツの奥から航を叫ぶ声がする。そして、深呼吸を繰り返すたびに樹は大人しくなり、再び快感に酔い始めた。
「ごめんね」
航は呟くと、ソファに戻り再び鉛筆を走らせ始める。
すると、寝室に猫が入ってきた。ヤマザクラのそばで拾った猫だ。全身真っ黒な体毛で、細身の体型と鋭い目つきが特徴的だった。拾われたことや日々世話されていることに恩義を感じているのか、樹にとても懐いていたが、対照的に航にはあまり懐こうとしなかった。
部屋に入ってくるなり、真っ直ぐ樹のもとに向かい、ベッドに昇った。そして、樹の顔を舐めようとする。しかし、声を震わせながら、樹は抵抗する。
「サ…クラ…今は…ダメ…航の…匂いに…サクラの…匂いが…混じっちゃう…ダメ…あっちに…行って…」
体を丸め、猫のサクラからシャツを守ろうとしていた。航は苦笑しながら立ち上がると、サクラを抱き抱える。
「サクラ、ご主人様に嫌われちゃったなー」
サクラを部屋の外に出すと、入ってこられないようにドアを締め切った。
「サクラはもういないよ」
ベッドに戻ると、丸くなった樹の体を仰向けに押し広げる。樹は抵抗しない。
「もう少しデッサンさせて?」
航の言葉に微かに頷く。目に涙をにじませ、航のシャツをより一層強く握りしめて。
しかし、それでも1時間ももたなかった。樹は航の名前を泣きながら叫び始めた。体を静止することも出来ず、ベッドの上でもがく。
「樹、ごめん。もう少し。もう少しだけ」
航はスケッチブックに視線を落とし、描くスピードを上げていた。視界に樹は入っていない。
樹はとうとう我慢が出来ず、転がり落ちるようにベッドから降り、這うように航のもとへ向かう。そして、たどり着くなり、航の大腿部に縋り付いた。
「わた…る…お願…い…します…もう…」
荒い息の中、絶え絶えに樹は懇願する。
「うん、分かっている。ごめん、…もうちょっとだけ待って」
航の手は止まらない。視線もスケッチブックから離れない。樹は耐えるように下唇を噛む。荒く呼吸を繰り返しながら、航にしがみついてただ待つことしかできなかった。
時折、航の手が樹に伸びてくることがあり、その度に期待して樹は笑顔を見せる。しかし、樹の髪をかきあげ、顔を観察すると、航は再びスケッチブックに視線を戻し、鉛筆を走らせてしまう。
「樹は綺麗だな…すごく美しいよ」
航は何度も呟く。その度に樹の目から涙が溢れる。言葉ではなく、航が欲しかった。
「航…航が…欲しい…」
樹は少しでも航の匂いを得ようと大腿部に顔を押し付け、深呼吸をする。そのまま這い上がろうとした。
「それ以上はダメだよ」
もう少しで航の股間に触れそうになった時、樹の頭を航が押さえた。
「うぅん…航…」
"おあずけ"された犬のように、樹は全身を震わせ、待つしかなかった。何度も航の様子を上目遣いで確認する。
「…うん…もう…いいかな…」
やがて航が満足そうな表情を見せる。描き残しがないか確認し終わると、スケッチブックをテーブルに置き、樹に笑顔を見せた。その笑顔でデッサンが終わったことを悟った樹は目を大きく見開き、慌てて上半身を起こす。
「樹、待たせてごめんね。」
笑顔のまま屈み込み、両手で樹の顔を持ち上げた。そして食むように何度も唇を重ねる。ずっと待っていたこの瞬間に樹の全身は喜びで震え、もっと欲しいと言わんばかりに航の首に腕を絡ませた。
そんな樹に航は目を細め、顔を持ち上げた。物足りなさそうに樹の唇は半開きのままだ。
「樹、焦りすぎだよ。…おいで。」
樹を抱き上げて膝の上に座らせた。そして、悪戯っぽく笑い、舌を差し出す。
一瞬、樹は躊躇するものの、航が何を望んでいるか分かった。体を丸め、震える手で航の頬に手を添えると、自ら進んで、航と唇を重ねた。そして、航を誘うように唇や舌を何度も舐める。しかし、その誘いに航はなかなか応えず、代わりに樹の背中や腰を優しく撫で続けた。久しぶりのなめらかな肌を確認するように、航の指は樹の体をゆっくり這う。
その刺激は樹にとって気持ち良く、快感もあったが、航ともっと深く口づけをしたいと気持ちが急いていた。
「航!…どうかっ…お願いしますから…」
たまらず懇願した。目には涙が滲む。
そんな樹に航は苦笑しつつ、樹の体を強引に密着させるかのように引き寄せた。
「ゆっくり楽しみたかったけど…久しぶりだからかな、つい樹を甘やかしちゃうな…」
樹の後頭部に手をまわし引き寄せると唇を重ねた。すぐさま舌を差し入れ、絡ませる。樹は喉を鳴らして喜ぶと、自らも舌を差し出し、航を求め続けた。
唇を重ねたまま、航は樹の臀部全体を優しく撫でては揉みしだき、時に割れ目も優しく撫でる。そのたびに樹の体を震え、喉を鳴らす。早く欲しいと期待しているように。
やがて樹の腰が揺れ始めた頃、航の指はアナルに向かい、ゆっくりと割って入る。樹の体は大きく震え、唇を重ねたまま、より熱い吐息を漏らし始める。航の両肩を掴む、樹の指にも力が入る。
航は指を出し入れしてほぐし、ほぐしては指を増やす。指が3本になったところでゆっくりピストンしながらも、性感帯を同時に刺激し始めた。
「はぁぁ…っんぅ…いいっ…」
強い快感にとうとう樹は唇を離してしまう。体を丸めるようにして航に抱きついた。それでも航は躊躇することなく、指をピストンし続け、性感帯を刺激し続け、追い詰める。樹の嬌声は止まらず、室内に響き渡り始めた。
「んぅん…航…もっと…ぁあっ…」
「うん、分かっているよ」
航は集中的に性感帯を細かく刺激し始めた。樹の体は震え、自らも腰を振り、より深く強く快楽を求めようとしていた。
「あぁっ!!!」
大きな声を上げると同時に、腰を何回か大きく震わせて達したようだった。息が荒いまま、樹は腰を落とし、航の胸に頭を預けて動かない。航は優しく頭を撫で、耳元で囁く。
「ごめんね。ありがとう。」
5年前、性的興奮の発散方法として口付けを提案したが、結局、口付けだけでは全て発散することができないほど航の与える快感は大きく、樹の興奮は治まることがなかった。そして、鎮静剤を使うことを嫌がる樹のため、出来る限り最初から薬を使うことはせず、ある程度満足するまで行為に付き合うようになっていた。
ただ、それでも、やはり、航は樹と肉体関係をもとうとはしなかった。情欲にまみれている樹の姿を見て興奮しないわけがなかったが、関係を持つことで樹との距離が変わり、見る目が変わり、絵のタッチが変わることを、昔から変わらず、まだ恐れていた。
そして、心の片隅では、ヒューマノイドに心酔していく自分が怖かった。関係を持てば、もう後戻りできそうにないほど、樹の存在が航の中で大きくなりそうで怖かった。
「樹、俺の声、聞こえてる?」
「…はい」
航は樹の頭を自分の肩に誘導すると強く抱きしめた。
「今度さ、樹の絵の個展をまた開くんだ。すごく好評みたいで。」
「…そう、…ですか」
「個展に来てくれたみんなが、絵を、樹を綺麗だって言ってくれる。」
樹を描くようになってしばらくして、航はSNSに樹の絵を何気なく投稿した。それが巡り巡って一部で話題となり、数年前から個展を各地で開くようになっていた。
「俺、とても嬉しいし、樹のことをもっと自慢したい。…だから、もっともっと樹を描きたい」
「…ありがとうございます」
嬉しそうに話す航とは対照的に樹は寂しげな表情を浮かべている。航のペンダントトップの石を再び手に取り、手の平の中で弄び始めた。
「それで、明日は隣町で個展の打ち合わせがあるから、朝早く出るよ。
一人で起きられる自信がないから起こしてくれる?
あと、朝食は要らないから、そのあとはゆっくりしてて」
「…明日も航と一緒にいたいです」
その瞬間、航の顔から笑顔が消えた。樹の顔を覗き込む。
「樹?さっき話したよね?どこにも連れていかない。ここでサクラと待ってて」
明るい口調から一変し、航の声は低い。強い視線が樹に向けられていた。航の強い意志を感じ、樹は目を伏せる。それでも意志は変わらなかった。
「…どうか…お願いします…邪魔などしませんから…」
「ダメだよ!!!」
感情的になり、航は声を荒げてしまう。そんな自分に驚き、狼狽えた。
「…大きな声を出してごめん。…でも、…とにかくダメなものはダメだよ」
しかし樹は目を伏せたまま何も答えようとしない。
航はため息をつく。いつもの樹と何か違っていた。もしかしたら、まだ快感に酔っているのかもしれない。準備していた鎮静剤を手繰り寄せる。
「…ほら、薬飲もう」
樹は口をつぐみ、顔を背ける。
「もう一度だけ…気持ち良く…なりたいです…お願いします」
再び違和感を感じ、航の眉間に皺が寄る。今まで樹が性的欲求を口に出して求めることが少なかったからだ。
しかし、2週間ぶりに会うということもあり、樹の思いを全て無碍にするのは嫌だったし、甘やかしたい気持ちがどうしても湧いてしまう。わざと明るく話す。
「…じゃあ、薬が効くまで、ね。
あと、明日はさ、あのサラサラした、水っぽいカレー作ってよ。久しぶりに食べたい。」
「…かしこました。…人参抜きでお作りします」
「そうそう、それ。」
航は笑いながら、錠剤を手に取り、樹の口元に運ぶ。
一瞬躊躇うも、樹は錠剤を口に含んだ。そして、そのまま航の指に舌を絡め、舐める。親愛の情とも、誘惑ともとれるような心地良い感触。航は慌てて指を引き抜く。樹に興奮してしまいそうだった。
「樹、どうしたの?いつもに比べてずいぶんと今日はワガママだね。…俺がいない間に何かあった?」
「…いえ、何も。…申し訳ございません」
樹は謝るばかりで理由や言い訳を口にしない。航もその場で問い詰める気にはなれなかった。
そんな航の首に顔を埋め、樹は再び深呼吸をし始めた。
「航……航……航……」
何度も呟く樹の背中を航は優しく撫でる。樹も航の指に敏感に反応し、小刻みに震える。
「航…もっと…触って…いただけますか。薬が効く前に…」
「…うん」
デッサンに集中していた名残で先ほどまでは樹に欲情することはあまりなかったが、今の航は樹に魅了されてしまいそうだった。努めて冷静になろうとゆっくり呼吸をし、樹の臀部に手を伸ばした。樹の臀部を時に優しく撫でたり、時に強く揉みしだく。気まぐれに与えられる、その緩急つけた刺激に樹は喉を鳴らし、腰は震え続ける。
「航…気持ち…いい…です…もっ…と…」
樹の腕は航の背中に回り、きつく指を立てている。そのまま、もっと刺激が欲しいと言わんばかりに、樹は腰を持ち上げ、腰を大きく揺らす。その誘うかのような動きに航はつい唾を飲み込んでしまう。
航は高揚する感情を押し殺しながら、樹のアナルに再び指を押し入れた。今度は2本同時に。何度かピストンし、指で軽く性感帯を叩くと、樹の体はそのたび大きく震える。航の耳元で上擦った声も上げ始める。
ピストンを続けながらも、航は空いているもう片手で樹のペニスを優しく包み込み、上下に動かして刺激を与える。
「んっあぁあっ!!!…いぃっ!!!」
樹はたまらず声を大きく上げた。両足はカタカタと震え始め、止まらなくなる。それでも、航は躊躇することなく、アナル内の性感帯やペニスの先端などを強弱つけながら刺激し続ける。
「急いだ方がいいよね…。…樹、自分で動いて。一番気持ち良いの、自分が一番分かっているでしょ?」
微かに頷く樹。恐る恐る腰を前後に動かし始めた。
「んぅん…すご…い…」
最初はゆっくりと、動く範囲も狭かったが、腰を動かすたびに、アナル内部と樹の指、ペニス全体と樹の手のひら、それぞれが同時に擦れ合って刺激され、強い快感が生まれる。そして、ただ摩擦しているだけでなく、樹の腰の動きに合わせて、航はペニスの裏筋やアナル内部の性感帯を刺激する。
「あぁあ…いい…はぁあ…止まら…な…い」
樹はあっという間に快楽に飲み込まれ、貪欲にさらに求め始めた。腰の動きはどんどん速くなり、少しでもより気持ち良いポイントを探そうと、前後左右と乱暴に不規則に振っていた。
「わた…るぅ…あぁん…んぅ…やぁあ…もっと…欲し…」
目は虚になり、口は閉じることなく口端からは唾液が漏れ、熱のこもった息を吐き続ける。その姿はとても卑猥だった。
そして、いつもと違い、声を押し殺して我慢することもなく淫乱な姿を曝け出す樹に、航も興奮を隠しきれなくなっていた。
「…樹、キスして」
樹は小刻みに首を縦に振る。航の背中にしがみついていた両手を樹は解き、航の肩に手を置くと上半身を起こした。その間も快楽を求め、樹の腰の動きは止まることはない。
「樹、早く」
航は口を薄く開く。樹もつられたのか、目は虚なまま、口を半開きにし舌を差し出す。そのまま吸い寄せられるように航と唇を重ねた。何度も唇を重ね、何度も舌を舐め、何度も絡ませる。全身が性感帯になっているかのように、舌を絡ませるだけで樹は喉を甘く鳴らし、上擦った声が漏れる。
「はぁっ…んっ…わ…たるが…もっ…欲し…い…もぅ…足り…な…」
口づけの合間に言葉を紡ぐ樹の声、2人の唾液の絡まる音と息遣い、樹が腰を振るたびに軋むベッドの音が混じり合い、室内に薄く響く。
舌の感触に加え、耳も浸食され、航もどんどん興奮が加速してしまう。もっと淫乱な樹が見たかった。唇を重ね、深く舌を絡ませながらも、樹のアナルを責める指を3本に増やして性感帯を時々より強く刺激したり、ペニスを包む手も時々イタズラするかのように爪を立てる。
樹はその度に体を大きく震わせ喉を鳴らした。嫌がっているのか、喜んでいるのか、それともその両方なのか分からない。ただ、唇は航から離れることはなく、樹の腰の揺れはさらに加速していた。
「わた…るぅ…あん…ぅんっ…もぅ…うぅん…」
名残惜しそうに唇を離すと、樹は航の胸に抱きついた。
「うん、分かったよ」
航は下唇を舐めると、樹の腰の動きを無視して、両手の動きのスピードを早めた。絶頂へと強引に追い詰める。途端、樹の嬌声は今までになく大きな叫び声となり、全身がガタガタと震えだした。目には涙が浮かぶ。それでも航は手を止まらず、出来うる限りの早いスピードでピストンし続けた。
「やぁあっっっ!!!」
一際大きい声を上げると、樹は腰を落とした。絶頂を迎えたようだった。余韻を引きずるかのように、顔を紅潮させたまま視点は定まらず、口も閉じることはなかった。そして、腰が微かに揺れ続けている。
痴態を曝け出す樹に航の興奮は収まらず、樹の顔を強引に持ち上げると再び唇を重ねた。樹は朧げな意識の中、航の求めに必死に応え続けた。
翌日、航は隣町のスタジオにいた。個展のスケジュールや運営体制などはある程度は事前に確認済みで、個展に飾る作品決めが一番の目的だった。
しかし、航にとってはどの作品も愛着があり、甲乙をつけがたいものだった。展示の優先順位や展示順を決めることがなかなか出来ない。個展開催前にいつも悩むことだった。
「すみません。ちょっと一服します」
スタッフに断りを入れ、気分転換にスタジオの出入り口近くで煙草を吸い始める。煙草を燻らせながら、航の思考はいつのまにか個展ではなく、樹のことを考えていた。
結局、その日の朝も「ついて行きたい」と懇願してきた。航は受け入れるつもりはなく、怒ったりなだめすかしたりしたが、樹は納得せず、沈んだ表情で航を玄関で見送った。今まで無かった樹の行動に深く溜息をつく。
早く帰るためにはまず個展開催に向けて決定しないといけない。そう思いながらも、ぼんやりとガラス越しに人通りを眺めていた。タバコ2本目に手を出した時、通りを歩く人々の中、1人の人物に目が止まる。
「世の中には樹に似ている人がいるんだなあ」
つい独り言を呟いてしまっていた。それほど樹に似ていた。再び樹に想いを馳せながら、どんどん近づくその人物を何気に見ていたが、近づくほどに航の顔はどんどん険しくなる。
「なんで来るんだよっ!」
航はスタジオを飛び出した。似ている別の人物だと思いたかったが、服装はもちろん、歩き方などの立ち居振る舞いがどう考えても樹本人だった。
スタジオを探して視線を左右に揺れているものの、初めて会った時と同じく、涼しげな表情で樹は歩いていた。ただ、何があったのか、サンダルを手に持ち、裸足で歩いていた。必然的に膝下は泥だらけの状態になっている。
「樹!どうして来たんだ!」
樹の肩を掴み、つい大声を出してしまう。
「…申し訳ございません。」
航の諌める声に樹は謝罪しつつも、航に会えたことで僅かに安堵の表情を見せていた。
「それに…買っていただいたサンダルの鼻緒が切れてしまいました。…申し訳ございません。」
樹は頭を下げる。サンダルは泥にまみれ、ボロボロになっていた。よく見ると、泥だらけの足にも傷を作っている。おそらく家からスタジオまで長い時間をかけて歩いてきたのだろう。樹を外出させるつもりはなかったため、樹用の靴はサンダルだけだった。そして金銭の使用も許していなかったことが裏目に出ていた。
航は深い溜息をつく。 いろいろと言いたいことはあったが、人通りのある街中で話すことは躊躇われた。
「おいで」
樹に背中を向けて航がしゃがむ。樹は微かに微笑みながら、嬉しそうに航の肩に手をかけ、自身の体を委ねる。樹の重さを感じると、航はゆっくり立ち上がった。
「俺の匂い、…あんまり嗅いだらダメだよ」
「…かしこまりました」
そう言いながらも、樹は目を細め、航に気づかれないよう、首筋に鼻先を近づけて深呼吸し始めた。航は気づくことなく、スタジオへ直行する。
「すみません、奥の部屋を借ります」
スタッフに一言だけ言うと、真っ直ぐにスタジオの奥にある個室に向かった。こんな時でも航の中で独占欲が膨らみ、樹をスタッフに紹介する気にはなれなかった。
個室に入ると、航はソファに樹を降ろす。名残惜しそうに航から離れた樹は、室内を観察するように視線を泳がせ始めた。何年も家を出ることがなかった樹にとって見るもの全てが新鮮なようだった。
航はタオルを取り出すと、テーブルに置いてあったペットボトルの水で濡らした。樹と正対するように床へ腰を下ろすと、タオルで樹の足を丁寧に拭き始める。
「航、おやめください。自分でやります。」
樹は慌てて足を引こうとした。しかし航は強く握りしめ、離そうとしない。むしろ強引により近く引き寄せると、無言で樹の足についた泥を拭き落としていく。
無言であることでかえって航の怒りが樹にも伝わっていた。樹はもう何も言えず、ただ身を任せた。沈黙が続く。
泥を落とした樹の足を航は細かく確認する。細かい傷はあったが、大きな傷はない。ただ、裸足で長時間歩いていたためか、足裏は赤く腫れ、熱を帯びていた。自然とため息をついてしまう。新しいタオルを水で濡らし、樹の足裏に貼り付けるように巻いた。
「…それで何があったの」
泥だらけになったタオルと鼻緒が切れたサンダルをゴミ箱に捨てながら、航はようやく口を開いた。声は低く、不機嫌さが伝わってくる。樹はうなだれた。
「申し訳ございません。…どうしてもおそばにいたくて仕方ありませんでした。」
いらだたしげに航は髪をかきあげる。
「俺は…何があったのか、聞いているよ」
「…何もありません。…申し訳ございません」
航は足早に樹に近づくと肩を掴み、上半身を持ち上げた。
「今までこんなこと一度だってなかったじゃないか!
この2週間であったこと!今、考えていること!言って!」
航は我慢できずに声を荒げた。部屋の外まで響こうが構わなかった。樹は大きく目を見開き、一瞬の後、目を伏せた。涙が溢れ出す。
「どうしても…航と一緒にいたかったのです。申し訳ございません」
航は眉をひそめる。理由もなく、ただ感情のまま動くことがあまりにも唐突すぎた。
ただ、樹に自覚はなくとも、航がいなかったこの2週間に変化のキッカケがあったかもしれない。航は手がかりが欲しかった。樹の横に腰掛ける。
「謝ってばかりじゃ何も分からないでしょ。この2週間にあったこと、全部教えて」
出来る限り優しく話しかける。樹は俯いたまま訥々と語り出したが、樹自身が言う通り、変化は何もなかった。家事をし、サクラに餌をあげて遊び相手をする。その繰り返し。樹が意図的に嘘をつくとも航は思えなかった。航は何度目か分からないため息をついた。
「樹、この部屋で待ってて。…すぐに戻ってくるから」
両手を強く握りしめ、黙って頷く樹を横目に航は部屋を出た。スタッフの元へ行くと、待たせたことを謝罪し、そして、展示作品の選定を全て任せられないか相談し始めた。
スタッフと話し合いをしながらも、頭の片隅では、樹とちゃんと話して、最悪の場合、精密検査を受けさせなければいけないかもしれないと考えていた。もし精密検査を受けさせた場合、期間や副作用など気になることを考え出したらキリがない。航は早く帰って調べたかった。
スタッフと話し合った結果、選定や展示方法などを一任出来ることになった。航は感謝の言葉を述べ、個室に戻り始めた。すると、航にとって信じられない光景があった。樹が部屋を出て、物陰から航を見つめていた。
「樹!」
反射的に航が駆け出す。その姿を見て、樹は慌てて部屋に戻ろうとした。しかし、傷だらけの足で歩く樹が走る航に勝るわけもない。すぐに航が追いつき、強引に樹の肩を掴んだ。
「どうして、俺の言うことを聞けないの!?信用していないの!?」
「違います…!…ただ、航のそばにいたいのです」
樹の目から再び涙をこぼれ始めた。止まらない。
もう問い詰める気にもなれず、航は樹を強く抱きしめた。
「ずっとそばにいるから。…一緒に、家に帰ろう」
樹は黙って頷き、航のシャツを握りしめた。
航は自分の荷物を持ち、樹を背負うと、再びスタッフの元へと行く。選定などの仕事を全て任せた身として、流石に挨拶しないままスタジオを出るのは非礼だと感じていた。
「展示作品の選定、すみませんが、よろしくお願いします。」
「構いませんよ。…あ、この方は?」
流石に背負っている樹に気づかれた。
「絵のモデルをしている樹です。…樹、挨拶して」
航の背中に抱きついていた樹は顔を上げた。笑顔をどうにか作ると会釈する。
「初めまして。…航の個展、よろしくお願いします。」
挨拶をすると、再び視線を落とし、航の肩に顔を埋めた。スタッフはやや驚きつつも笑顔を絶やさない。
「実際に見ても綺麗ですね。…そうだ、1番好きな作品はどれですか?
モデルが選んだ作品をピックアップして飾っても面白いかもしれない」
スタッフの思いつきの案だったが、今まで航すら思いつきもしなかったことだった。飾るかどうかは別として、樹がどの作品を選ぶか気になる。僅かに振り向き、声をかけた。
「1番好きな作品、ある?」
樹はしばらく考え込むと顔を上げた。
「全て素晴らしいですが…強いて言えば、航の寝室に飾ってある絵です」
手短にそう言うと、もう話したくないと言わんばかりに航の背中に樹は顔を深く埋めてしまった。そして、深呼吸をし出した。スタッフは苦笑してしまう。
「ご自宅に飾ってらっしゃるんですね」
「…あぁ。初めて樹を描いた絵です。…初めて描いたから下手すぎて…誰にもお見せできないんですよ」
「それは…見てみたいですが…残念ですね」
航はスタッフに会釈するとスタジオを後にした。タクシーを手配し、帰路につく。歩き疲れたのか、樹は窓に寄りかかり、瞼を閉じていた。
航はぼんやりと流れる風景を眺め、先程のことを思い出していた。初めて描いた絵を樹が選んだことは航にとって意外だった。実際、樹をモデルに何度もデッサンの練習をして、初めて描きあげたという思い入れはあるものの、どうにも全体的にアンバランスで、上手いとはお世辞にも言えない作品だった。だから、樹に渡すことが出来ず、2人で初めてヤマザクラを見に行った時に描いた樹の絵を完成させて渡していた。
ただ、下手な絵でもどうしても捨てられず航が飾っているように、樹にも何かしら思い入れがあるのかもしれない。そういえば、樹が満面の笑顔で絵を褒めてくれたのはあの頃の絵だけだった。
そんなことを考えていたら、自宅へ到着した。
「樹、起きて」
樹は瞼を薄く開き、どうにか体を起こそうとするが体が思うように動いていない。そんな樹の手を引き、航が抱き上げた。樹は薄く笑い、手を航の首にまとわりつかせる。
航はそのまま家へと入る。一旦、リビングのソファに樹を下ろすと、煙草を取り出し一服する。煙草の煙が室内を漂う。その煙をぼんやりと眺め、これからどうするか考えなければいけないと思うのに、感情が拒否する。そして、昨日からの出来事が走馬灯のように頭の中をめぐる。
そんな時、サクラがどこからともなく現れて樹の膝の上に乗った。そして、甘えるように顔を擦り付けている。樹は気だるそうにしながらも、サクラを撫で始めた。
「あぁ、そうだ。樹に土産があったんだ」
サクラの瞳を見て航は思い出した。寝室に置いていたボストンバッグの奥底から取り出しリビングに戻る。
「樹に似合うと思うよ」
航の土産は、ペンダントトップに石が付いているペンダントだった。サクラの瞳と同じ、明るい青色に輝く石。
「海で拾って、すごく綺麗だったから。」
航が樹の首につけると、嬉しそうに樹はペンダントを手に取る。
「とても…綺麗…ですね…大変…嬉しい…」
どうにか聞き取れるほどの小さい声。言い終わらないうちにバランスを崩し、ソファへと倒れ込んだ。サクラは驚き、床へと逃げる。
「…樹?」
樹を抱き上げようと、航が手を伸ばした。しかし、樹に触れる前にその手が止まった。
樹の瞼は薄く開いたまま固まり、瞬きをしていなかった。手足も不自然に硬直している。呼吸もかろうじて確認できるほどに小さかった。
「樹!!!」
航は慌てて抱き上げ、何度も声をかけた。しかし樹が返事をすることはなかった。
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