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第5話

それから10年後。 その日は樹が目覚める日だった。自宅に設置した冷蔵保存ケース中で樹は眠りについている。そのケースの横では専門スタッフが立ち上げ準備をしていた。タッチパネルで計器を確認したり、入力作業をしているが、航にはどのような作業をしているか何一つ分からない。ただ、後方で静かに見守っている。 もう何回も見てきた光景だったが、それでも待ち遠しい。焦れる気持ちを抑えて眺めていた。やがてケースのドアがゆっくりと開く。ひんやりとした空気がケースから流れ出し、航の足元を冷やした。ドアが完全に開くと、様々なチューブや機材が取り付けられた樹を確認できると同時に航の鼓動が跳ねる。樹の胸も僅かに上下に動き、生存していることが分かる。専門スタッフは手際よくチューブ類を外していき、最後に口元を覆っていた麻酔マスクが外された。 「数値類に問題はありません。しばらくしたら目覚めます。こちらにサインを」 事務的な説明の後、スタッフから手渡されたタブレットPCに航は手慣れた様子で認証作業を行った。 「それでは、明日、また伺います」 「分かりました」 専門スタッフは早々に退出した。部屋には航と寝ている樹のみ。航は薄い毛布を準備し、樹の目覚めを待った。しかし、自然に目覚めるまで待とうと思うものの、つい樹に手が伸びてしまう。久しぶりに触れる緊張と興奮が入り混じり、指が震える。 優しく樹の頬に触れると、肌はひんやりと冷たかったが、少しずつ血色が戻ってきているように見て取れた。航は口元を緩め、同じように血色が戻ってきている樹の唇に触れた。柔らかく、ずっと触っていても飽きない。つい弄んでしまう。その刺激がキッカケになったのか、樹がゆっくりと瞼を開いた。反射的に航の指が離れる。 「…ん」 状況を把握しようとしているのか、樹の視線が左右に揺れ、そして瞳が航を捉えた。視線が絡み合う。 航はわざとらしいほどの笑顔を見せた。 「おはよう、眠り姫。…じゃなくて、眠り王子か。」 明るい口調で、茶化すように声をかける。しかし、まだ思考回路が回らないのか、樹はぎこちない笑顔を見せるだけだった。 「おはようございます。…あの、今日は…」 「…1年ぶりだよ…今まで通り、変わらない。」 樹の冷蔵保存は、当初1ヶ月~数ヶ月サイクルを予定していた。数年以内には、ヒューマノイドの延命に関する研究成果が何かしら出る予測だったからだ。しかし、ヒューマノイドの寿命を延ばすことは人間へ危害を及ぼす可能性があると問題視され、研究開始数ヶ月後にはヒューマノイド延命の研究を国から実質的に凍結されていた。そのため、残された方法は稼働停止期間を延長することでの延命しかなかった。航は悩み、そして決めた一時稼働のサイクルは1年に1回。それが航の我慢出来るギリギリの期間だった。 ただ、その事実を知った時、樹は即時での稼働停止を強く求めて泣き叫んだ。自分に存在価値はないと。 それでもどうにか説得して冷蔵保存の眠りにつかせても、一時稼働するたびに泣き、航はなだめすかしていた。しかし何年も繰り返すうちに、樹は自分の中で折り合いをつけたのか、諦めたのか。近年は何も言わなくなっていた。 10年目のその日も樹は泣くことはなかった。一瞬視線を落とすが、航に視線を戻すと笑顔を作る。 「誕生日、おめでとうございます」 「…ありがとう」 一時稼働のサイクル期間を決めた時、誕生日が近かったため、"分かりやすい"と深く考えずに航の誕生日を一時稼働の日にしていた。数年後に後悔することになったが、今さら変更する気にもなれなかった。 そのうえ30歳となり、老いを知らない樹とは身体的な差がどんどん開いていく。正直、歳をとることへの嬉しさは少なかった。しかし、それでも。樹と言葉を交わし、祝ってもらえることはやはり嬉しかった。 樹は起き上がって外に出ようとする。しかし、薬がまだ残っているのか、筋肉が強張っているのか、動きがぎこちない。 「慌てなくても良いよ」 微笑みつつ、手伝おうと腕を伸ばそうとした時。航よりも早く、樹の片手が航に向かって伸びていた。今にも泣きそうな顔をして。まるで助けを求めるように。 衝動的に航の動きは機敏になり、すぐさま樹の手を取った。そして、力任せに引き寄せて抱きしめる。樹の存在を確かめ、自分の存在を伝えるかのように。 「樹にとって、1年前は昨日のような感覚だろうから、冷静になろうって毎年思うのにダメだな…」 航は自嘲的に笑いながら、抱きしめる腕に力を込める。この1年で体験した、嬉しいことや悲しかったこと、寂しかったこと、その他にも樹に伝えたいことを色々と考えていたのに言葉に出来ない。ただ嬉しい。触れることが出来、他愛のない言葉を交わせることが嬉しかった。 航は樹の全身をゆっくりと確かめるように撫でる。何も変わらない、滑らかな肌。いつまでも触っていたい。航がきつく抱きしめるあまり、樹が苦しげな声を上げたが止めることができない。 ただ、きつく抱きしめると、樹の肌に残っている冷たさが航にも伝わってくる。その冷たさから、泣き叫ぶ樹、そして己の意志の弱さがフラッシュバックし、罪悪感を感じてしまっていた。自然と腕が緩み、手の動きが止まる。 「ごめん」 航は小さく呟く。自分のエゴで、無意味に樹を延命しているのではないかと自己嫌悪することもあった。会えない辛さから、「ただのヒューマノイドだ」と自暴自棄になり、樹のことを忘れようと、距離を置いたことは何度もあった。 しかし距離を置いても、一緒に過ごした日々を毎日のように思い出し、情が冷めることはなく、忘れることも出来ず、最後は樹を失うことを恐れ、結局は戻ってきてしまっていた。 そうやって戻ってきても、眠り続ける樹は何も変わらない。眠り続ける樹を見て、泣き叫ぶ姿を思い出し、航の思いは揺れる。冷蔵保存などせずに、ひと夏の花火のように、樹が停止するまで思う存分好きなように過ごしたいとも思ってしまう。 それでも、延命技術がいつか出来ることを信じて、自分の人生に少しでも長く樹を付き合わせたくて、己のエゴだとしても押し通すしかないと自分に言い聞かせ続けていた。 いろんな思いが溢れかえり、涙がこぼれそうだった。樹の肩に顔を押し付け堪える。 「…航?」 樹は航の背中に手を回し、ゆっくりと撫でた。航にとって心地良い感触、しかしその感触で我に返る。軽く頭を振ると、樹の背中と腰に手を回し、ケースから抱き上げた。そのまま床へと座り、毛布を肩からかける。 「ありがとうございます」 薄く笑う樹。そして毛布の端を掴んで引き寄せると体を温める。ただ、樹の視線は航から離れることはなく、顔や体の隅々を観察するように泳いでいた。航は寂しげに笑う。 「樹、いいよ」 「…ありがとうございます」 樹の震える指が航の胸をゆっくりと撫でる。そのまま指は肩に移り、腕を撫で、そして足に触れる。 樹は目覚めるたびに、航の肉体的変化を確認することが習慣になっていた。自分がいない間に航がどう変化したのか、些細なことでも見落としたくないようで、真剣な眼差しで航の体に触れて確認していた。 そして、そんな樹を見ていると航は再び罪悪感を感じてしまう。自分の気持ちを誤魔化すように微笑むしかなかった。その航の顔を樹の指が撫でる。 「…顔が大人びましたね。それに、ずいぶんと体を鍛えられて…」 樹が寂しげな笑みを浮かべた。年を追うごとに、航の筋肉は鍛え上げられ、服の上から触っても分かるほどだった。 「…あぁ、樹とどんどん差が開いて衰えていくから。釣り合うように、少しでも鍛えておかないと。」 冗談と分かるように、明るい口調で航は言ったつもりだった。しかし、樹の顔は途端に暗くなる。目を伏せ唇を噛み締めたかと思うと、強い視線を航に向けた。 「私は…!」 「樹、言わなくていいから。分かってるよ。」 樹の言葉を遮ると、髪を優しく撫でる。老いを気にしないことは分かっていた。 「俺の自己満足だから。」 …それに、俺のエゴに付き合わせているんだし。 そう言おうとしてやめた。再び目を伏せ、寂しげな顔を見せる樹が目に入ったからだ。 航の衰えを気にしないが、歳を重ねる日々を共に過ごしたい。その樹の気持ちは伝わっていたし、だからこそ、少しでもその時間を埋めたくて、目覚めてすぐに航の体を触れて確認行為をしているということも理解していた。そして、それでもまだ物足りていないことも知っていた。 航は小さくため息をつくと立ち上がり、樹に手を差し伸べる。 「樹、おいで」 樹の気持ちにわざと気づかないふりをして、出来る限り明るい口調で言葉をかけた。樹もぎこちないながら笑顔を見せて、航の手を取って立ち上がる。 10年間何も変わっていない家の中、樹の手を引いて航は廊下を歩く。ただ、まだ足の筋肉が強張っているのか、樹の足取りはやや重い。樹を気遣うように、航の歩調はゆっくりだった。 「…航、サクラはどこですか?」 いつもだったら、様子を窺うようにサクラが樹へ近寄ってきていた。それなのにまだ姿を見せていない。そう訝しむ樹も無理はない。航は一瞬、樹に視線を投げると再び前方へ視線を戻す。 「…あとで会えるよ。」 そう言い終わると同時に辿り着いた部屋には、いくつものキャンバスが壁にかけられ、埋め尽くされていた。壁にかけられない絵は、立てかけるように床に置かれている。 部屋に入るなり樹の表情は明るくなる。手身近な絵から一つ一つ大事そうに見ていく。そんな樹を見て航は安堵のため息をついた。 「気に入ってくれるといいけど。」 樹の横に立ち、航は制作過程の話やその時の思いなどを語る。樹はキャンバスを眺めながらも、航の言葉に笑ったり驚いたり恥ずかしそうにしながら聴き入った。 全てのキャンパスには樹が描かれていた。樹と触れ合うことが出来ない苛立ちや寂しさ、悲しさ、そして僅かな希望など、全ての感情を昇華し、創造へと転換して絵を描くようになっていた。 当然10年前とは画風がガラリと変わる。以前は重苦しいほどリアルさを追求していたが、全ての絵が空想になったためか、一転してリアリティは無くなり、抽象的なイメージが強くなった。しかし、キャンバスの中は常に寂しさを帯び、そして樹はどこか瑞々しさがあった。描かれた空想の世界の中で絶妙なバランスを保ち、不思議な魅力を放っていた。 「航の絵は素晴らしい…」 独り言を呟く樹の顔には、満面の笑みが戻って来ていた。どのキャンパスを眺めてもいつまでも変わることなく嬉しそうだった。その横顔が綺麗で、愛おしくて。航の手が樹の頬を撫でる。 「絵を描き出してからしばらくはなかなか褒めてくれなかったけど、今は褒めてくれるから嬉しいよ。 やっと樹に満足してもらえる絵が描けるようになったのだろうな。」 「そんなつもりは…以前から…」 慌てて釈明しようとする樹の口を航の指が優しく塞ぐ。航の顔には笑みが浮かんでいた。 「いいんだよ。…褒めてくれて、ありがとう。」 恐縮するように樹は小さく首を振ったが、微かに口元は緩んでいる。 航は目を細め、樹をゆっくりと抱きしめた。耳元に口を寄せる。 「この1年にあったこと全てを共有できないけど…。 この1年も、俺がずっと樹のことを考えていたって分かるよね? そうじゃないと、これだけの絵を描けないよ。」 樹の手が航のシャツに絡みつく。そして、小刻みに何度も首を縦に振る。航は再び安堵のため息をつくと、面白がるように囁いた。 「ご満足ですか?眠り王子」 「また、そのような言い方をされて…」 諌めるような独り言を呟きつつも樹の首が縦に揺れた。それでも、航の中には一抹の不安があった。樹が少しでも不安を残していれば、その不安は火種として燻り続ける。気がかりで、樹の顎を持ち上げた。 すると、目に涙を滲ませながらも、樹は笑顔を見せる。いつもの涼しげな笑顔。航の中から不安が無くなり、笑みがこぼれた。そのまま航の指が樹の唇に触れようとしたが、突然止まる。所在なさげに微かに動くと、頬を撫でた。 「俺、ちょっと一服するから、ゆっくり見てて」 「…かしこまりました」 樹の手が名残惜しそうに航のシャツから手が離れた。航は胸ポケットから煙草を取り出すと、部屋の真ん中に鎮座するソファへ深く座る。 そんな航を見て樹は少し寂しそうな表情を見せたが、再びキャンパスへと視線を戻した。意識もキャンバスへと移り、しばらくすると表情を明るくして眺め始めた。 航は何度目かの、いや、違う意味での安堵のため息をつく。1年ぶりのためか、樹の潤んだ瞳を見ただけでずいぶんと欲情していた。無意識に樹に口付けしようとしていた。危なかった。 いつもだったら、このままベッドの上で1日過ごしても良かったが、今回は樹にどうしても報告をしなければいけないことがあった。気は重くなるが、それでも言わなければいけない。そのためにも自分の情欲を抑えるため、煙草を深く吸って肺を満たす。そしてぼんやりと天井を見つめる。 煙草1本吸い終わる頃にはずいぶんと落ち着いていた。煙草の煙を目で追い、そして樹を目で探すと、しゃがみ込み、一つの絵を見続けていた。それはラフに近い絵で、小さな浜辺に座る樹の絵だった。 「その絵、気に入った?」 ゆっくり立ち上がり近づきながら声をかけるが、樹は絵から目を離さない。 「えぇ。…なんだか懐かしいです…不思議です」 「…そう。夢に出てきたんだよね…」 樹と並ぶように横に座る。 「その絵が今回一番高く売れるかもしれないな」 10年近く前、樹の描かれた絵を個展で販売した際、購入者が偶然にも著名人だったことがあった。そこからトントン拍子に航の知名度は上がり、今では絵画の世界では多くの人が知るような存在になっていた。結果、航の絵は高額で売れるようになり、皮肉なことに画風が変わったことで売れっ子画家になっていた。 そして、1年かけて描いた絵のほぼ全てを売るようになっていた。絵を売って得た金銭は最低限の生活費と、樹の延命費用に充てられていた。この生活は続き、売り払う前に樹に見せることが習慣になっていた。 「なぜか樹が気に入った絵は毎年高く売れるんだよ」 今回も樹が再び眠りに入ったあとに売る算段は整っていた。樹は複雑な表情を浮かべながらも何も言わない。今まで散々話し合って納得したことだったからだ。名残惜しそうにキャンパスの縁を撫でる。 「あのさ、"高く売れる"で思い出したけど、樹に報告があるんだ」 「はい」 樹の視線が航に向けられる。航も視線を合わせて微笑む。 「大したことじゃないけどさ。…結婚した」 突然の告白に樹の目に動揺の色が浮かぶ。視線は泳ぎ、でもそんな顔を見られたくないのか、慌てて俯いた。 「おめでとう…ございます…」 樹の体が小さく震えている。ある程度は予想していた反応だったが、それでもやはり航の心の奥が痛む。だからこそ、殊更明るい口調で話を続けた。 「だから大したことじゃないって。俺と樹の生活は何にも変わらないから」 樹を落ち着かせるため、肩を抱き寄せ、何度も優しく撫でる。 「結婚相手にとって俺の名前が必要だったんだ。 …俺も結婚することで、絵がさらに高く売れることが分かっていたから。 ギブアンドテイク、の契約結婚だよ」 ビジネスライクだと、あっけらかんと話し続ける。 「いつ延命の研究が可能になるか分からないだろ?その時のために出来る限り資金を貯めておきたいんだ」 航はヒューマノイドの延命技術の開発を諦めていなかった。世論の情勢が変わり、研究の許可が公に認められるようになれば、いつでもすぐに研究開発へ費やせるように、優先的に樹に適用されるように、少しでも貯蓄を増やしたかった。 しかし、その話をしても樹の顔は冴えない。 「…私のために…そこまでしていただかなくても…」 今にも泣きそうな樹の声に航は内心動揺する。理由を話せば、すぐに理解し受け入れるだろうと思っていたからだ。しかし、言うタイミングが悪かったかもしれないが、もう無かったことには出来ない。航は大袈裟に笑う。 「何言ってるんだよ」 強引に樹を腕の中に抱き寄せた。 「俺にとって、樹はそこまでしても苦にならない存在だよ。…まだ気付いていなかった?」 安心させようと明るく言い放つ。そして、樹の顔を持ち上げ視線を合わせる。 「気づいている?もう俺の人生の半分は樹のことばかり考えていることになるんだよ。」 冗談めかして笑う航だったが、樹は視線を落とし、目に見えるほど体が震え始めた。 「そんな…航…私には…もったいない…」 樹の声も震えている。その震えを抑えるため、いや、震えを吸収するかのように、航がきつく抱きしめる。 「突然どうした?何が怖くなった?」 「私のような者に…」 ヒューマノイドの自分には不釣り合いな、身に余る行為だと言葉を続けそうだった。そしてその流れで謝ることは容易に想像できた。あやすように航の手が樹の背中を何度も軽く叩く。 「謝らないでよ。樹が自分を否定して、俺に謝ったら、俺が否定されているみたいだ」 出来る限り優しい口調で語りかけた。 樹は慌てて口をつぐみ、自分を卑下する言葉を継ぐことをやめた。体の震えを抑えるため規則的な呼吸を繰り返す。そして、樹が落ち着くまで航はただ黙って、背中を軽く叩き続けた。 「…樹、落ち着いた?」 航の声に反応するかのように、恐る恐る航の背中に樹の手が回る。 「航はお優しい方ですね…。ありがとうございます」 何度も何度も感謝の言葉を呟く樹。その樹の髪を航は撫で続ける。 「…うん。…これからも、だよ。安心して。」 樹の手が一際、力強く握りしめられた。意を決して顔を上げ、航と視線を合わせる。 「私は幸せです」 「…俺もだよ」 樹は自然と瞼を閉じ、口は半開きになっていた。航も自然に、無意識に、樹の顎に触れようとした。 しかし、航は我にかえり、再びグッと堪えた。1年ぶりになる樹の柔らかい唇、誘うように絡まってくる舌を味わってしまえば、己を止めることができず、このまま押し倒すことは確実だった。航の手は宙を舞うと、樹の肩を大袈裟に叩く。 「楽しみは夜にとっておこう」 そう笑うしかなった。自分にも言い聞かせるように。しかし、樹の手は航のシャツから離れない。むしろさらに深く食い込む。 「航…ベッドに行きませんか?…デッサンしていただきたいです」 おそらく自分の存在価値を確かめたいということもあるのだろう。樹の気持ちが航にも分からなくはなかった。 「樹はワガママだな。…俺、甘やかしすぎた?」 そうやって誤魔化すことが精一杯だった。樹の背中を軽く叩きながら笑い飛ばすと、樹の手は静かに離れた。しかし、俯いた顔には辛そうな表情が浮かんでいる。涙を堪えているようだった。 自分のエゴに付き合わさせている、その負い目が見過ごすことを許さなかった。 「…やっぱり甘やかしちゃうな」 困ったように笑うと、樹の顎に指を添えて持ち上げた。 「軽く、ね」 樹の唇を指でなぞると、ゆっくり唇を重ねた。しかし、柔らかい感触が伝わった瞬間、慌てて唇を離した。思っていた以上に早く、体の芯が熱くなりそうだったからだ。樹の顔を見ると、物欲しげそうだが、それでも口元が緩み、嬉しそうな表情を見せている。航は安堵し、笑顔を見せた。 「今日は行きたいところがあるんだ。…いい?」 「はい」 樹は笑顔で頷いた。 それから数時間後。2人はヤマザクラの木の下にいた。ただ、季節外れのため、花は咲いていない。紅葉した枝が風に揺れていた。 「樹は久しぶりだよね」 「…はい」 久しぶりではあったが、老木ながら生命力を感じさせる枝振りは相変わらずで見事だった。樹は静かに樹木に触れ、目を閉じる。木漏れ日や枝を揺らすように吹く風、微かに聞こえる沢の流水音、遠くから聞こえる鳥の声に包まれる。穏やかな時間のようにも思えたが、見守っていた航が口を開く。 「もう薄々気づいていると思うけどさ、…サクラ死んだよ。…半年前に」 一瞬大きく目を見開くと樹は項垂れた。何も言葉を発しない。 航は静かに言葉を続ける。 「いきなりいなくなってさ、ようやく見つけた時はもう息もほとんどしてなくて。 樹を起こしたかったけど間に合わなかった。…ごめん」 項垂れたまま樹が首を横に振る。 「もうだいぶ…長生きしていましたから。…寿命だったと思います」 拾った時から15年。大往生ではあった。しかし、樹にとってサクラと過ごした期間は5年と少し。 あっという間に逝ってしまった感覚が強く、悲しみがあるのだろう。樹の声は震えていた。 「樹、おいで」 樹の手を引き、少し離れた場所へと連れて行く。 「サクラを見つけた場所が山の入る道の入り口だったんだ。 それがまるでさ、サクラを見つけた、この場所に戻りたいように思えて。 …だから、分骨してここに埋めている」 明らかに一度掘り返したような跡があり、石が積み上げられていた。 膝を折りしゃがんだ樹は手を合わせる。感謝の言葉などを小さく呟いていたが、やがて涙が溢れ出してきた。 「…おいで」 航にとって想定の範囲内だった。手を引き立ち上がらせ、抱きしめた。すると、堰を切ったかのように声に出して泣き始めた。 航は何も言葉をかけない。ただ、子供をあやすように背中を軽く叩き続けた。 やがて泣き声が少しずつ小さくなるが、ほぼ同時に樹の手が航の体を這い出した。樹が何を考えているか、航には容易に推測できた。軽くため息をつくと、耳元で囁く。 「樹、俺はまだ死なないよ」 樹の手が止まる。 「少なくとも、あと20年は生きるつもりだから」 そう笑いながら言うと、樹の髪を優しく撫でる。 10年前のラボの検査で分かった樹の残り稼働は、長くて数年、最低で1か月だった。もし残り1か月だとすれば、既に10日間稼働し、残りは20日間。このまま1年に1日稼働するとなれば、あと20年。航はどんなことがあっても生きるつもりだった。 そのことが分かっているのか、樹は再び声を上げて泣き出した。 「どうか…1人に…しないで…ください…また…主人を…失うのは…辛いです…」 「うん、分かってる。俺が死にそうになったら、ちゃんと起こすから。…その時、選んでいいよ。」 航の笑顔も、優しい語り口調も変わらない。 「離れたく…ない…です」 「うん、分かってる。出来る限り長生きするから。」 航はヤマザクラを遠くに見る。 「桜が満開な時に樹をまた連れて来たいしね。…あぁそうだ」 樹の髪を撫でていた航の手の動きが止まった。胸ポケットから煙草ケースを取り出すと、残っていた煙草数本全てを取り出し、胸ポケットに入れる。 「樹、持ってて」 航の優しい口調に促され、涙を流しながらも樹は顔を上げて煙草ケースを受け取った。 航は変わらず笑顔のまま、今までずっと肌身離さずつけていたペンダントを外す。あの、白と赤がまだらに輝く石がついたペンダント。煙草ケースの中に入れると、乾いた金属音が響く。 「この石もこの沢でサクラと一緒に拾ったからさ。一度、ここに返すよ。 それで…そうだな…とりあえず10年後にまた一緒に取りに来よう」 10年後のタイムカプセル。それは少なくともこれから10年間は生きるという約束だった。樹は小さく何度も頷く。涙も止まっていた。 「サクラの近くがいいかな」 太い枝を拾うと、削るように航が土を掘り始める。鍛え上げた航にとって大した苦労ではなかった。しかし、樹もただ黙って見ていることも出来ず、煙草ケースをポケットに入れると慌てて手伝う。やがて30cmほどの深さの穴が広がった。 「樹、ケースを」 航が樹に向かって手を差し出す。しかし、ポケットから取り出しものの、煙草ケースを手放そうとしない。 「樹?」 「私のペンダントも…入れてよいでしょうか?私も目標が欲しいです」 真っ直ぐで真剣な表情の見せる樹。樹自身が意図的にどうにかすることはできないが、それでも寿命を延ばしたい強い意志が航には感じ取れた。航は驚き、一瞬目を丸くするが、すぐに笑い出す。 「うん、いいよ。…そうだな…樹が10年間、…俺を信用して、ワガママ言わなくなると助かるな」 樹の気持ちは嬉しかったが、樹の精神的な負担を増やしたくなかった。航は笑い話に転化した。ただ、信用して欲しいという願いは本当だったが。 そんな航に樹は何も言えず、口をつぐんでしまっていた。航は笑ったまま、樹の首からペンダントを取り外すと、煙草ケースに落とした。ケースの中から、2つの石と鎖が擦れる音が聞こえてくる。 樹の手から煙草ケースを取り上げると、穴に入れ、土をかける。最後に、航は沢から大きな石を数個運んでくると置いた。 「これで分からなくなることはないでしょ」 「はい」 「10年後が楽しみだ」 航が微笑み、その航につられて樹がようやく微笑む。 その時、突然、強い風が吹き、紅葉した葉が樹を包むように舞った。途端、哀愁を帯びた雰囲気が樹の周りに生まれ、桜の花びらとはまた違う魅力を放つ。 「…ここで少しデッサンしてもいい?」 航の中で樹を描きたい欲求が沸いてしまう。一緒に過ごせる残り時間は減っていくが、どうしても目覚めている樹を描きたかった。 「はい、喜んで」 樹はすずしげな笑みを見せた。いつまでも変わらない笑顔。 ヤマザクラの元に戻ると、風が吹くたびに枯れ葉が舞い散る中、樹は近くの石に腰を下ろした。そのまま、航も離れた場所に座ろうとしたが、動きが止まった。少し悩ましい表情を見せると、樹の横に座る。 「あのさ、さっき、"また"って言っていたけど、本当は以前の持ち主のことを覚えているでしょ?」 途端、樹の顔が強張った。 以前、"覚えていない"と樹は言っていたが、主人を失う怖さを知っているということは、記憶があるのではないかと航は感じ取っていた。 2人の間に一瞬の沈黙が流れ、そして樹が口を開く。 「…申し訳ございません。…少しだけ…記憶があります。…ただ、あまり良い思い出ではありません」 それ以上、樹は何も言わなくなった。話したくないようだったし、航も根掘り葉掘り聞く気はなかった。樹の肩を抱き寄せる。 「ごめん。樹の過去を詳しく知りたいわけじゃないんだ。 …ただ、…おそらく…前の持ち主はあえて記憶を残したんだろうと思ったんだ」 樹は目を見張り、航と視線を合わせる。 「…たぶん…樹の中に…生きた証を残したかったんだろうなって」 「…そうでしょうか」 そう言って視線を落とす樹を航が抱きしめた。 「樹にとっては前の持ち主との記憶は辛いかもしれないけど。 俺との思い出は絶対に良い思い出になるようにするから。そのために長生きして、樹を大事にするからさ。」 航は樹の頬に優しい口づけを落とすと、笑顔を見せた。 「それだけ、言いたかったんだ」 航は立ち上がると、少し離れた場所へ陣取る。小さなスケッチブックを開き、樹を描き始めた。 樹は何も言わず、微笑み続けた。目に涙を滲ませて。 沢を吹き下ろす風が2人を包みこみ、穏やかな日差しと相まって心地良さが広がる。2人の視線が絡むたびに互いに笑みが自然と浮かぶ。明日にはまた樹が眠りにつくことも忘れ、この瞬間を楽しんだ。 「もう帰りましょう」 空の端がオレンジ色に染まり出していた。 樹の顔には笑みはなく、航の返事も聞かないまま立ち上がる。 「私の夕食を食べていただきたいです。…それに、一緒に…寝たいです。」 歩み寄り、膝を折って腰を落とすと恐る恐る航の手を取る。そして、手の甲に口づけを落とし、上目遣いに見上げた。樹にとって精一杯の機嫌取りだろうが、航を誘惑するには十分だった。 「…樹をずいぶんと甘やかしちゃったなあ。」 そう困ったように笑いつつも航が立ち上がった。 途端、樹の表情が明るくなり、笑みが戻る。 「ありがとうございます!…もう一度、サクラに挨拶をしてきます」 急いで立ち上がると、小走りでサクラの墓へと樹が向かう。 見送りつつ、その間に航はスケッチブックや鉛筆を片付け始めた。 「…しかし、さっきは良い思い出を作りたいとは言ったけど。 …そのために樹を泣かせないようにするのは大変だな」 航の老いや病気、そして迫りくる死を見て、樹が平常でいられるとは思えなかった。 航の口から独り言が漏れ、そしてその独り言は風に流された。 それでも、スケッチブックの中の樹は微笑んでいる。航は静かに撫でた。

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