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最終話 安着
ボランティアサークル活動日。
四週間ぶりに図書館へ顔を出したというのに、一人で遊んでいた翔麻は腰を落とした真を見るなり、なにも言わずに膝の上に乗ってきた。
妙に慕われているらしい事実に喜びをおぼえるが、理由がわからず戸惑う。
翔麻の母親に笑われながら身動きできないでいると、手の空いた妃も寄ってきて同様に笑った。
「真の距離感、翔麻くんにちょうどいいのかもね。俺だと、あれやろうよこれやろうよってグイグイいっちゃうから」
積極的に関わることで喜ぶ子どもも多いが、見守るだけのほうが落ち着いて遊べる子どももいるのだろうと妃が分析してくる。
「ならさぁ、私が翔麻のコトたまにほっとくの別によくない?」
翔麻の母親のひとことに、妃は間髪入れずに噛みついた。
「ほっといても見守ってあげて!」
それでもなに食わぬ顔をする母親、だが妃は意外にもそれ以上とがめることはなく、苦笑しながら彼女の意を汲んだ。
「まぁ子育てってなにが正解かわかんないからね。ほっといて自主性育てるのもアリかも知れないけど、かまってやるのも試してよ。育てる側じゃなくて育てられた側の意見だけどさ」
ようやく翔麻がひざから降りて玩具で遊びはじめ、真は息をついて妃を見やる。
「前は結構手厳しかったのにな」
過去に彼女に対して腹が立つと言い暗い表情を見せたというのに、気さくに適切と思える提案を示してみせた。
「あの人、一応ちゃんと翔麻のこと考えてるから安心してんだよ」
自分にはいまだ放任主義に見えるのだが、妃がそう言うのなら、そうなのだろう。
「真のこと食事に誘ったの、翔麻が真を気に入ったからで、本人は真は趣味じゃないんだって」
妃はやや情けなさそうに微笑む。
彼女を理解した上に警戒が解け、結果おだやかな態度を見せるようになったのか。
次いで妃は、照れ笑いのような表情を見せてつぶやいた。
「あとさ。俺も真の距離感ちょうどいいよ」
想いを明確に示してくれることに安堵する。
陽織との交際では相手の望むものが自分の中に存在しなかったのだと、自責のみで疎通をあきらめている。
いいように扱われていただけなのだと今ならわかる、現在がそうではないのだということに心がなごむ。
はじめて交わったあの日から、おだやかな日々が続いている。
想い合ってもすれ違いもどかしさを感じていた日々がなつかしかった。
互いの性質は大まかに理解し合ったが、なにげない生活やものの好みについては知る機会があまりなかった。
ボランティア活動が終了すると真はバイク用品店へ、妃はテーブルゲーム専門店へと立ち寄り、趣味について新たに把握し合う。
先日同様妃とともに自宅アパートへと戻る。
真は隣に座ってこの部屋でくつろぐ妃がふと愛しく思えて、腕を伸ばし肩を抱いた。
しかし、そのままくちづけることはできなかった。
妃は柔らかく腕を逃れ、手のひらで真を静止する仕草を見せる。
「ごめん、イチャイチャする前にひとつ、説明しときたいことあったんだ」
自分に対する後ろめたさが再来したのではないかと、不安になったが。
「こないだ真のトコに賢一連れてった日からさ、賢一が時々、フツーに声かけてくるんだよ」
平穏な日々が続いたため忘れていた、あの男にも難解なからまれかたをしていた。
以前の交際相手が親しげに接してくるという後ろめたさで、妃は自分を静止したらしい。
「それたぶん、俺に喧嘩売ってるんだ」
二週間前、相原にからまれ陽織か妃を口説くと挑発されてから、賢一は喫煙所で話しかけてくることがなかった。
自分ではなく妃に圧をかけ、妃が音 を上げ自分が喧嘩を買うことを待っていたように思えてならない。
妃はいたたまれない表情で再度わびると、現状を説明した。
「絶縁したと思ったのに今さら誘ってくるし、しないって言っても気ぃ変わったかって、なにごともなかったように聞いてくんだよ。フった罪悪感がハンパないから、真と付き合ってるしもう話しかけるなとも言えなくて」
妃が言うには賢一と関係があった時期、四年の青沼とも関係があると故意に明かしたが賢一は意に介さなかったらしい。
賢一が妃と復縁したなら痛手であると自分はあせりをおぼえたというのに、賢一は痛手を負いながらも付き合い続けたのか。
あの男の目的は妃ではないと思ったが、執着が本物である可能性もなくはないのか。
「今度会ったとき、俺から言う」
賢一から妃に手を出すと告知されている、先日は躊躇したが、はっきりやめろと言ってやればいい話。
すると妃は、過去に幾度も見せたわびる表情を浮かべた。
「賢一が気になるとかじゃないから。ただホント、罪悪感なだけで」
妃に非があるため罪悪感がわくのもわかる。
だが、自分にわびる必要はない。
「あぁ、なら、俺の気持ちも言っとく」
妃が賢一についてわびるなら、自分もわびねばならなかった。
「俺も前の彼女に心残りがあるんだ。縁は切った、二度と信頼もできない、けど嫌ってはいないんだ」
妃を不安にさせることなどなにも言わないほうがよかっただろうか。
思わず正直に語ってしまったことに後悔し目をふせると、妃は真の胸に腕を回し、ふところに顔をうずめた。
「同じなのかな。俺も縁は切ったけど、嫌いではなかったから」
妃の良心の呵責がゆるんだように感じ、真自身も安堵する。
妃が顔を上げる。
「でもね、『好き』って気持ちもなかったから。そういう気持ちは、真が最初だからね」
胸を打つその言葉に真は妃を抱き返し、くちづけた。
揺さぶられたとしても愛しく思い合うこの気持ち自体は、まったく揺るぎがなかった。
翌日、雨天の室内喫煙所はいつにも増して混雑していた。
喫煙者との遭遇率も増し、後から訪れた賢一に、真は煙草を捨てて歩み寄る。
気づいた賢一は即、満足げに口元をゆがめた。
明らかにこちらの動きを待っていた。
真は顔をしかめ、速攻で用件を言い放った。
「妃を口説くのはやめてくれ」
賢一はこざかしく笑いながら煙草に火をつけたが、要望には回答しなかった。
「奈良場の元カノな、あいつ男に言い寄られたぶんだけ自分の価値上がったとか思ってんだろ。はっ、逆に下がってるっつーの」
この男はしばらく口をきかない間、自分を煽るためにいくつ手札を用意したのか。
妃の件を突き詰め損ね、陽織については情報がまとまらない。
陽織と接点を、どこまで持ったのか。
「妃と間違ったフリして声かけて、あとはビビるくらいとんとん拍子だぞ。余裕でついて来やがったからな」
言葉の出ない真に反して、賢一は意味深い言葉をつらね続けた。
「けどなぁ、常識の範囲内ですんのは物足んねぇな。ヤバい橋渡ってるみたいなのが欲しいよな」
周囲に人は多いが当事者はおらず、話し振りは事実を特定できるものではない。
しかし、賢一は陽織と関係を持ったのではないか。
なんともいいがたい感情がわき上がり、唇を、噛みしめる。
「妃さぁ、手だれだからラクだったろ? 初めてのヤツはめんどくせーらしいぞ。俺は他のは知らねぇけど」
元来の話題であるはずの妃の件、またもや一方的で抽象的な物言い。
挑発しているのか察したのか、自分が妃と交わったと断定して語っているように思う。
そして妃が幾度となく同性を受け入れていると、自分も抵抗なく交わったと、言ってくる。
「女は満足度低すぎるけど、男で面倒くせーのもやなんだよ。だから妃を俺に回せ」
愛情があって妃があきらめきれないわけではなく、遊びで抱くなら妃が好都合だと言ってくる。
賢一から出てくる言葉のすべてが不快な文字列で、思考が、ついていかない。
「あんた、どれだけ俺と喧嘩したいんだ」
不快ではあるが、事実無根の暴言ではなかった。
前回のように敗北感を植えつけられたわけでもない、意味もなく吠えられたようにしか思えない。
その喧嘩は、買う気が起きない。
賢一はすわった目つきで、声を落とす。
「おまえさぁ、もっと気ぃ短かっただろ。なんで突っかかってこねーんだよ」
その言葉に、妃や陽織を侮辱され不明瞭な負荷にやや気分を害していた真は、一瞬で気抜けした。
以前はここまで言われたなら、手を上げていただろうか。
しかし状況が理解できるせいか、激昂はしない。
「そんな他人に迷惑かけるようなストレス発散してないで、趣味に夢中になるとかすればいいだろ」
初めに遭遇した時点で賢一は、『単に殴り合いがしたくて喧嘩を売った』と言っていた。
今現在もおそらく、そうなのだろう。
「このストレス、発散できる趣味なんてねーよ? おまえどこで発散してんだよ」
拳を見せつけるようにいきどおる賢一が自分を同類と思っているようで腑に落ちない。
そして恋愛話に次いで趣味の会話までしなければならないことにも納得がいかないが、付き合った。
「単車に乗るとか」
「バイカーかよ。俺は四輪だ」
「趣味、あるんじゃないか……」
愛車についてしばし自画自賛し合い、どちらともなく時計を見上げるとつれだって喫煙所を出る。
別れ際に、
「妃のこと、本気でもう口説くなよ」
と再度告げると、
「殴り合いになんねーのに口説くかよ、面倒くせぇ」
などと身勝手な回答が返ってきた。
一人教室に足を向けながら、真は賢一に対していきどおらなかった自分をあらためて疑問に思った。
これはさほど憤慨する案件ではなかったのか。
妃とともに過ごすことで自分自身に変化があったのか。
わずかに思案し、妃に限らず複数の人間に関わった経験の結果であると実感する。
妃から『おろかな人間にかまっていたら損をする』と指南されただけの段階では、考えなしに賢一を殴り、妃に面倒をかけていた。
その後の悔悟や懸念、理解や配慮の結果、先ほどの賢一を受け流すことができたのではないか。
いずれにせよ、問題を回避できる自分であれて、よかった。
・・・・・
広く白壁のすがすがしい集会室。
真夏の日差しが届かない席で、真は数人の部員と新たな紙芝居制作にいそしむ。
やたら周囲がほめるから、真は妃とともに率先してサークル内の美術関係に携わるようになっていた。
バイトがあるためすべての活動を妃に合わせることはせず、自分が必要とされる場面のみの参加。
参加の動機はほぼ『妃がいたから』であったが、妃につられるように気を張って活動することは非常に有意義に感じる。
昼休憩が終わりに近づくと次第に部屋から人が減ってゆく。
空きコマのかさなった妃と二人きり。
向かい合い坦々と作業をこなしていたが、ふと顔を上げると白い部屋に映える妃が視界に入る。
端麗であるが不思議と穏和で、作業の手が止まる。
視線に気づいた妃は、わずかに照れながら微笑む。
「どーしたの」
「好きだなと思って」
問いに素直に答えると、
「ありがとう」
妃は困りながらも嬉しそうに返してきた。
しかしすぐに、真顔になる。
「あのさ、朝に賢一が教室来て」
面倒だと言っていたのにまだからんでくるのかと眉をひそめると、妃は軽い調子でため息をついた。
「真と飲み行きたいから連絡先教えろだって。教えなかったけどさ」
「直接聞けばいいのに」
時間を合わせずとも嫌でも遭遇することはわかっているはず。
妃が思い悩んでいないようだから、賢一の軽い嫌がらせなのだろうと判断する。
「賢一、意外とシャイなのかもね。好かれてたと思うんだけど、言葉のはしばしで匂わせてきただけで、それっぽいことは言われてないんだ」
それは簡単に想像がついた。
最初に会話した時点から、あの男は端的に過激な発言をしながらも本当の目的をなかなか明かさなかった。
妃に未練があるのかないのか、いまだに判別できない。
「また真、やっかいなヤツに好かれてるし」
以前にも聞いた言葉。
やっかいな人間とは、陽織や翔麻の母親、そして妃のことか。
「妃はやっかいじゃないだろ。やっかいなヤツがボランティアサークルでまともに活動とか、しない」
テーブルに並ぶイラストボードに目を落とす。
自分は色を塗っているだけだが、妃は絵を描く作業にも携わっている。
「いや、俺はただ、母親が支援関係の仕事してて、知識あったからやってるだけ」
納得のいかない顔をする妃は、謙遜しているのではなく本当にみずからがやっかいな存在であると思っているように見える。
妃の母親は国内外で長らく家を開けるほどの仕事をしているのだと把握している、そして母親は自分を放置していないと妃は言っていた。
「そんなの、一層まともじゃないか。親と親の仕事、尊敬してて後に続くとか」
妃の好ましい部分を新たに垣間見て心酔し、ゆるみかけた口もとをとっさに隠す。
「妃は俺のこと好きなの?」
そのまま、平静なフリをしてたずねる。
「うん」
かすかにすねた表情で、妃は答える。
「なら俺が好きな人のこと、悪く言わないで」
「ん。努力する」
返事を聞くと、真はひとつ咳払いをして作業を再開した。
妃も一瞬続いて筆を取ったが、
「真、俺が喜ぶこと言いすぎだからね」
と、小さくぼやく。
「別に困らないだろ」
真は何食わぬ顔でぼやき返す。
妃のことは、この先も知ってゆくたびに好意が増してゆくのだろう。
不穏な問題が起きたとしても、妃が難なく解決策を示してくれるだろう、妃の問題なら自分が投げ出すことなく助力する。
長く続くとはあまり思えないおだやかな今。
本質の優しい彼がえがいたやわらかなイラストに、目を細める。
自身が彩色することでひときわぬくもりを感じられるようになった気がして、真はほのかなため息をもらした。
了
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