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第1話 昼食

 8月も半ばの蒸し暑い土曜に甲斐甲斐しくやってくる。駅から徒歩15分程あるこのボロアパートまで、じりじり焼けるような日差しを一身に浴びて汗だくになりながら、俺に会うためだけにやってくる。  そう想像すると、優越感に浸れる。こんな歳の男のどこが好きなのか未だに謎ではあるが、自分が好かれているというのが手に取るように分かるのは気分がいい。俺自身も晴生のことが可愛いな、と思うようになっている。  11時40分にラインが来た。 「駅に着きました。お昼は天ざるにしましょう。海老の天ぷら買っていきますね。」  晴生は俺が人混みで気分が悪くなり、機嫌が悪くなると思っている。俺のことを気づかい、家で食べてくれる。そういうところが愛らしいと同時に、年下の恋人にいつまでも甘えすぎている自分が嫌になる。 実際は晴生と一緒にこの街を歩いているのを誰かに見られたら、と一人考えすぎてしまい酷く当たってしまったことがあった。 ****************************  付き合いだしてまだ日が浅く、男の癖に方向音痴を拗らせてるから、深く考えずに女と付き合っていた頃と同じように改札で待っていた。  そこで満面の笑みで俺だけを見つめ、駆け寄ってくる長身の若い男が、なんだか非現実のもののような気がして、俺だけにキラキラと眩しすぎる笑顔が向けられているのが小恥ずかしくなった。 「お待たせしてすみません。もう暑いですね。」  ここの改札は待ち合わせによく使われていて、女子中高生が晴生と俺を交互に見ていたし、ここにいる全員が俺らを見ているのではないか、という被害妄想に襲われた。  脂汗がドバッと出て気分が悪くなり、目眩と耳鳴りがした。 「走ってくんなよ。暑苦しい。」  その日は、どこにも寄らず家に帰り、気分が悪いと言い放ち、昼飯も食わずうたた寝を決め込んだ。いつの間にか寝落ちてしまっていて、夕方目が覚めると、唾液線を刺激される食べ物の良いにおいが、狭い部屋に充満していた。  起き上がっても狭いキッチンで鍋を見つめている晴生は、こちらに背を向けていて気づかない。  この狭いキッチンで180センチはある男が料理をしている。冷蔵庫にまともな食材は入っていなかっただろうから、スーパーまで一人で買い物に行ったのだろう。この部屋は晴生には似合わない。ワンルームに美しい毛並みのゴールデンレトリバーがいるようだった。 「悪い。昼飯食べたか?」  のそのそと起き上がり、良いにおいの鍋が何なのか気になり、近づいた。申し訳なさと、謝りたいのに素直に言葉に出来ず、無言で逞しい背中にもたれ掛かり、鍋を覗き込んだ。 「台所借りちゃいました。調子はどうですか?」 「腹へった。悪いな、冷蔵庫何もなかっただろ。」  ごつごつした俺よりも大きな背中から感じる体温に安心する。俺はいつからこんな人間になったんだろう。 「スーパー意外と近いんですね。ほんまこの家ほとんど何もなかったので、色々買っちゃいました。これ見てください。パスタがチンで出来るんですよ。俺も家に持ってて、すごく便利なんですよ。これでチンしますね。もう少し待ってくださいね。」 「これは?」  サッポロ一番のラーメンを作る時に使う行平鍋に蓋がないからかアルミホイルが被さっていた。 「豚汁ですよ。大輔さんに元気になってもらおうと思って、作りました。」 「パスタに豚汁かよ。」 「意外と合いますよ。信じてください。」 ***********************  蚊取り線香に水をかけて消し、ベランダに出し、窓を閉める。冷房を18度でつけて扇風機を消す。  鍋にお湯を沸かすため蛇口を捻る。こんな暑い日は水も生ぬるい。蓋をして強火で待つ間に、換気扇の下で煙草をふかす。  自分の恋人を土曜の昼に駅まで迎えに行くことさえできない自分を情けなく思いながら、鍋を見つめた。こんな俺と付き合っててあいつは何が楽しんだろう、一回りも歳が離れてて、稼ぎも良くないおっさんのどこが良いんだろう。  蓋の穴から蒸気が出てシューと音がし、ぼこぼこと大きな泡が音を出したので蕎麦を二束入れ、箸で徒に混ぜる。冷蔵庫からめんつゆとカットネギとチューブの山葵を出して机にのせる。晴生が買ってきた透明の涼しげな蕎麦猪口を出してお揃いの箸をその上にそっと置く。俺は晴生が買ってきたものを享受するだけで何も返せていない。  12時2分そろそろ来るかなと耳をそばだてる。カスカスカスッと階段を駆け上がる音がする。晴生だ。 ピンポーン 「階段は静かに上がれって。」 「いやー暑いっすね。すみません。そんなに音します?駆け上がっちゃって」 「いま蕎麦やってるから座っとけよ。天ぷらチンする?」 「顔だけ洗ってきても良いですか?暑すぎて汗だっくだくで見苦しいんで…どっちでも良いですよ。」 「タオル置いてるから使えよ。」 「ありがとうございます。」  見苦しくなど全然ない。むしろ俺のために汗だくで、急いで来てくれている晴生は愛おしい。その汗だくのまま抱き締めて欲しい。本当に晴生と付き合いだして、俺はだんだん女子高生のような思考になっている。蕎麦に集中しよう。  ざるに蕎麦をあげてそのまま流水で揉み洗い、粘りを落とす。冷凍庫から氷を出してざるにぶっこみ、もう一度揉み洗う。皿二枚にあいつの方が気持ち多めで盛り付け、机に持っていく。 「タオルありがとうございます。いやーさっぱりしました。こう暑いと水もぬるいですね。」 「タオルは洗濯機に入れとけよ。麦茶あるぞ。」  グラスに氷を入れ、冷蔵庫から昨日買った麦茶を取り出し注ぎ、手渡す。カラコロロと涼しい音がした。一気にゴクッゴクと喉仏を上下させ飲み干し、おかわりとニコニコ言う恋人はまるで犬だ。笑顔が眩しくて、目をそらし紙パックの麦茶をそのまま突き渡した。 「麦茶買ってくれたんですか。大輔さん緑茶派じゃないですか。」 「たまたま飲みたくなったんだよ。天ぷらチンするから座って涼んどいて」  皿にキッチンペーパーを敷き、天ぷらを見つめる。海老2本、蓮根2個、玉ねぎ2個、かき揚げ2個、男2人だと普通の量にも思えるが、付き合っている恋人同士で昼間からこんなにガツガツ食うと後々大変だということを晴生は分かっていないのだろうか。  前にも昼飯にコロッケを4個とメンチカツを2個買ってきたことがあった。  海老2と蓮根2、玉ねぎとかき揚げはこいつの分だけ取り出して、残りは後で頂くとしよう。プラスチックの容器に再びゴムをはめ冷蔵庫に入れた。 「俺そんなに腹減ってなくてさ、後で食べるからごめんな」 「大輔さん少食でしたよね。すみません。俺が腹減ってて量多かったですね。」 「いや、昨日夜遅くて飲み過ぎで胃がな、ごめんな、ここの天ぷら好きだし食べるから。」  この昼のやり取りは何回もしている。こっちも本当は食べたいのを我慢しているわけで、少食なわけではない。昨日食べ過ぎても飲み過ぎてもいない。むしろ最近は野菜ばかり食べていてOLみたいな食生活をしている。チンなんかせずに大きなかき揚げに今すぐかぶりつきたいくらいだ。  だいたい土曜日にはそういう雰囲気になる。まだ25歳の性欲は俺とは比べ物にならない。もともと俺は強い方ではないので、合わせているつもりではいるが、晴生が満足できているのかは分からない。それを確認するのも小恥ずかしい。  こっちは準備しておかないと、悲惨なことになってしまう。嫌われるようなことはしたくない。いつか離れていくだろうと分かっているつもりだが、まだ手放したくはない。  こんなに人に執着する気持ちは今まであまりなかった。女の子と付き合っていた時は、向こうが俺を好きになって、俺もだんだん好意が芽生える。そして彼女たちが俺に飽きるのだ。中身は空っぽの俺に愛想をつかして。  結婚した時も向こうからプロポーズされ、向こうから離婚を切り出された。その時も仕方ないな、俺といるより違う人といた方が幸せになれるだろう、と思ったのだ。  晴生が今までどんな女や男と付き合ってきたのかは知らないが、その中でも俺は一番歳を食っているはずだ。満足に外も一緒に歩けないヘタレなやつが、恋人のために何を頑張れるかと言われたら、下手なりにも粗相はないようにするくらいだ。  可愛げもなく、こいつみたいに素直に言葉で伝えるのも苦手だ。普段の会話に恋人への愛の言葉をさらっと散りばめることは高等テクニックすぎて、俺は一生習得できないと思う。  歳を取るとどんどん卑屈になり、愛を伝えるのも照れくさく、悪態ばかりついてしまう。自分が声に出してそれを言うと、陳腐な台詞になる気さえした。  頭だけぐるぐるとフル回転し、喉の奥に言いたい言葉がつっかえ、出てこない。それが取れないしこりのように、日に日に膨張している。 「お待ちどうさま。汗は引いたか?」 「ここは天国ですね。大輔さんが俺のために料理してるのを涼みながら待つのって最高に幸せですね。」 「蕎麦茹でて、チンしただけだろ。はい、いただきます。」  晴生は前世はイタリア人の女たらしに違いない。相手の頬が緩む言葉をポンポン投げつけてきて素知らぬ顔をしている。こっちはにやけないように必死になって、目の前の蕎麦に集中する。 「準備ありがとうございます。いただきます。」 「あーそういえば、西瓜が売ってたんですよ。一緒に食べたいなーと思ったんですけど、好きですか?」 「好きだよ。」 「え、今なんかキュンってしちゃいました。」 「西瓜が好きだって話だよ。」  こっちが急いで付け足すのを流し聞き、ガツガツと拳大のかき揚げにかぶりついて、サクサクと良い音を鳴らしている。晴生は思ったことをそのまま口に出すタイプの人間で、なんでも良いように捉えがちだ。俺とは全く逆の思考回路で、そういうところが羨ましくもあり、振り回される。 「あとで買ってきますね。冷やして夜か、明日食べましょう。」  一緒に行こうと言わないのは、気づかいだろう。なぜか胃がきゅっとして腹は減っているのに、食欲が失せた。

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