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昼下がり
「ご馳走さまです。いやー腹一杯です。洗っちゃいますね。」
手際よく、器用にゴツゴツとした大きな手で食器を一度で持って行ってしまった。そのまま、こちらを振り向くこともなく、キッチンで食器を洗い出した。晴生がラランランランと鼻歌を歌っている。忘れてしまったが、ジブリの曲だった気がする。
俺は冷蔵庫にめんつゆをゆっくりとしまった。手伝うにも狭いキッチンでは、男二人が並んで洗い物が出来るスペースはない。ただ邪魔になるだけだ。手持ち無沙汰でなんとなくテレビをつけ、癖で煙草に火を付けた。ライターのシュッという音に敏感に反応し、晴生がこちらに咎めるような一瞥をくれ、食器洗いに戻った。心地いい鼻歌はなくなった。
ベランダの窓を開けて、急いで外に出て思い切り肺まで吸い込み、吐き出した。日差しが燃えるように暑く、今日外に出ていない俺にとっては眩しすぎる太陽だった。外に常備している灰皿代わりの空き缶に突っ込むと、ジュッと音がして消えた。
晴生は煙草にだけは煩くて、一緒にいる時は換気扇の下でしか吸わせてもらえない。そそそくさと部屋に戻り、晴生を見るとまだ食器洗いに勤しんでいた。
「俺の前だけで取り繕ってもあかん。全部バレてるからね。」
たまに出てくるタメ口と方言はどういう心境なのか。俺は未だに分からない。多分怒っているのだろう。これからはもっと気を付けないといけない。
ヤニ臭い右手を今すぐに洗いたい衝動に駆られ、晴生の後ろを触れないように気をつけながら無言で通りすぎ、洗面所で手をゴシゴシと洗った。
洗面所には緑と青の歯ブラシが恋人同士のように寄り添って立てかけてある。晴生がいつの間にか買ってきて置いたステンレスの歯ブラシスタンドは、上から見ると四つ葉のようになっていて、4つまで刺せるようになっている。無意識でいつも寄り添うように立てかけてしまう。ついでに歯もいつもより念入りに磨いて、晴生の緑のブラシの隣にまた寄り添うように立てかけた。
「西瓜買いにいってきますね。」
食器洗いを終えて、晴生の機嫌が戻ったのか、にこにことこちらを見てきた。いつもならこのまま映画を観るが、こいつにとって西瓜はそこまで重要項目なのか。返事を出来ずにいると、既に財布だけポケットに入れて出ていこうとしている。
とっさに腕を掴んでしまった。大きな栗色の瞳をもう一回り大きくして、こちらを見つめている。こっちは煙草の件もあり、ばつが悪く、言葉に出して引き留めるのも恥ずかしく、目線を外した。
「どうしたん。」
子どもを宥めるような言い方で方言が出た。そのまま抱きすくめられて、あやすように頭をなでられた。鼻腔を蕩かす晴生のにおいに身体中が歓喜し、ぐりぐりと顔を肩に埋めた。
今まで付き合ってきた女の子達は、皆良い香りがした。甘いバニラの女らしい香り、他と違うことを主張するトロピカルな香り、清楚なバラの香り。俺は鼻が利く方で、嫌いな香りは少なかったが、特別好きな香りもなかった。
晴生は香りではなく、彼自身が発するにおいが好きだ。形容しがたいそれは、俺を優しく包み込み安心させる。理性的に考えると、二十代男の汗だくのTシャツが、急激な冷房で乾き、繊維に汗が染みこんでいる。かなり臭そうだが、俺はそのにおいが、なぜだが分からないがたまらなく好きだ。シャツに顔を埋め、ばれないように深呼吸した。
「まだ外暑いから…」
もう少しだけ抱きしめていてほしい、そんなことは言えない。
「俺は大丈夫ですよ。西瓜は冷やした方が美味しいから今買いに行かないと。」
晴生はどうしても西瓜が食べたいらしい。俺も好きだと言った手前、食べたくないとは言えない。
言わないでも察してほしい、そんな今までなかった感情が、湧き出る。
「いい加減、察してよ。」
俺が、元妻と離婚する際に言われた言葉だ。彼女は俺と別れて直後、違う男と暮らしだしたそうだ。共通の知り合いから俺に心配の連絡が来て知ったが、俺はその知らせが嬉しかった。
今思えば、もっと早く彼女を解放してあげるべきだった。今では全て言い訳だが、働き盛りで毎日の生活が忙しく、夫婦として大切なことからは目を逸らしてしまっていた。
彼女のことは愛していた。俺なりの愛で。欲しいものはできる限り買い与えた。子作りのことをそこまで深く考えておらず、性欲も低かった俺は、彼女のご機嫌を取るために買い物を容認し、欲求を解消させ、現実から逃げていた。
彼女の苛立ちはどんどん目に見えるようになっていったが、宥めたり、見て見ぬふりをしてごまかした。俺は当時は、いわゆる優良物件で図に乗っていたのだ。彼女が俺と別れることはないだろう、と高をくくっていた。
彼女は結婚から二年程経った頃から浪費家から前向きな努力家に様変わりし、大きな買い物もしなくなった。その代わりに、不妊治療についての本を何十冊と買い占め、読み漁るようになった。俺はその忌々しい本に丁寧にカラフルな付箋がつき、開かれたままのページに、刺々しいピンク色のマーカーが引かれているのを見ると胃が痛くなったりした。
まず食事が変わった。外食好きだったはずの彼女は毎日、俺の精子のために同じような魚料理を作り、白米は雑穀に変わった。牛肉は食べないように、コーヒーはブラックで飲むように、アルコールは控えるように、と他にも色々なルールを作った。
朝晩と俺が食事するのを横目に見ていた。弁当なんか付き合っている時には、数回作った程度だったのが、毎日持たせるようになった。
その時にはもう結婚生活は破綻していたんだと思う。最初は食べていた弁当も、彼女に全て管理されているようで気持ち悪くなり、捨てて帰ることも多くなっていった。
弁当を捨てている罪悪感もあり、隠れて吸っていた煙草はきっぱり辞めたし、彼女に言われジムにも通った。彼女が君臨する我が家にいるのも息苦しく、ジムで汗を流すのはいい気ばらしになっていた。
彼女は努力していた、しかし妊娠しなかった。そのショックは次第に大きくなり、それを俺に悟らせないように無理に微笑みを作り、俺を励ます彼女を見ているといたたまれなかった。自分も精神的に追い込まれていき、性欲もさらに薄くなった。指定された日に必ずしなければならない、という行為は苦痛でしかなく、それは彼女にとってもそうだったと思う。そこに愛はなく、ただの実験だった。
検査をしてほしい、そう言われて落ち込んだ。俺は、多分怖かったんだろう、その検査をすれば全て露呈してしまう、彼女はとっくに検査を受けていたはずだ。問題があるのは、俺だと二人とも分かっていた。
「いい加減、察してよ。」
結局検査をせずにいた俺は、彼女から離婚を切り出された。当然の結果だ。その後少し経って俺は仕事を辞めた。
俺はいつでも逃げている。晴生に察してほしい、と思うのも烏滸 がましい。晴生から愛されているからと図に乗って、自分の問題から逃げている。
同じことの繰り返しで、成長しない子どものようで、自分のことがつくづく嫌になる。そして晴生も俺に愛想を尽かして離れていくのだろう。
「離れないで。」
ポロッと溢 れた本音を晴生は聞き逃さなかった。
「俺は、離れません。ずっと。」
抱きついていたが、肩を掴まれ、顔をのぞき込まれた。大きな暖かい手が顔を包み、親指で優しく目元を拭われた。その時、俺は涙を流している、と自覚した。
「意地悪してごめんなさい。まさか泣くとは思わなくて」
晴生が困惑して謝った。何もないのに急に泣き出すおっさんで申し訳なく、急に恥ずかしくなった。
近所に西瓜を買いに行くだけで泣いて、離れないで、など言っていいのは幼女だけだ。
「ごめん。なんか、今日おかしいな俺。キモいこと言って悪かったな。全部忘れてくれ。歳取ると涙脆いのか。晴生のせいじゃないし、気にすんな。暑いし家にいろよ、俺が気晴らしに買いに行ってくるから。」
普段あまり喋らない自分が、焦って言い訳しているのも、晴生に伝わっているのじゃないかと思うと直視出来ない。早くこの空間から逃げてしまいたい。
顔を逸らし、クローゼットを開け、一番上のジーンズを掴み出したが、この狭い部屋では逃げることさえ難しい。後ろから長い腕が伸びてきて、きつく抱きしめられて身動きが取れなくなった。
「大輔さん、俺、キモいなんて絶対思わないですよ。むしろめっちゃ可愛いし。大輔さんは俺にとってただただ可愛い人なんで。」
晴生の顔は見えないが、体温が伝わり、優しいにおいが俺を包んで、今なら伝えられる気がした。
逃げるのはもうやめて、悪態ばかりつくのもやめて、素直に晴生に伝えてもいいだろうか。実際、何を伝えたいのかも分からない。でも言いたい。俺がない頭でぐちゃぐちゃ考えていることを。もう全てぶつけてしまいたい衝動に駆られた。
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