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第1話
今日も空はよく晴れている。
暖かな陽射しの中、潤は行き付けのカフェで気に入りの紅茶を楽しんでいた。
行き付けと言っても自分の病院の前にあるカフェだ。
潤がこのカフェを気に入っているのは近いからだけではない。花屋が隣にあるお蔭でテラスからの眺めが良いのだ。
「紅茶の御代わりをいただけますか?」
潤は咲き誇る花々を観賞しながらガラス製のティーポットを軽く持ち上げて馴染みの店員に告げた。隣のテーブルを拭いていた彼女はニッコリと笑って応じ、店内へ入って行った。
近過ぎず遠過ぎずというこの程好い距離感が潤は好きだった。
店員は客の時間を邪魔せず、それでいてサービスは欠かさない。気の利いた接客も潤がこのカフェを気に入った理由だった。
新しく運ばれて来たティーポットの紅茶を半分ほど潤が楽しんだ時だった。
何やら言い争う声が聞こえてきた。どうやら喧嘩のようだ。
テラスと歩道の間には細いフェンストレリスしかない。高さは一メートル程度だ。薔薇の模様のフェンストレリスが目隠しになる事は無く、喧嘩の様子は丸見えだった。
テラスの客から一部始終が丸見えだというのに背の高い男性と中年の夫婦が周囲も憚らない大声で言い争っていた。
「うるせぇ! ちゃんと会ってやったし相手の面子も潰さねぇように場は取り繕っただろうが。何が不満なんだ」
「彰吾! 相手は専務のご令嬢よ。とても綺麗なお嬢さんだったじゃないの。どうして断ったりするのよ」
「俺の好みじゃねぇ。文句あるか?」
両親がお膳立てしたお見合いを息子が突っ撥ねたのが喧嘩の発端だった。母親が言い負けると今度は父親の出番だ。
「彰吾、お前にとって今が一番良い時なんだ。大手の会社に顔を売り込んで繋がりを作る絶好のチャンスなんだ。それが解らない程子供でもないだろう?」
「俺は親父の会社をでかくする為の道具じゃねぇ。俺の人生を会社の駒みたいに扱うな」
正にけんもほろろ。息子は両親の言葉を片っ端から跳ね付けていた。
言動から察するに相当癖の有りそうな性格だが息子の見目はなかなか良かった。鼻梁の通った顔立ちで肌も健康的な小麦色だ。背も高く、着崩したスーツが少し尖った性格をほのめかせていて印象的だ。言い争っている声も低く渋い。
余り見詰めては失礼だが、同性でも魅力的だと思える彼から潤は視線を外せなかった。
「今からでも遅くないわ。考え直しなさい。それとも彰吾、誰か好きな人が居るとでも言うの?」
執拗な母親の叱責に嫌気が差したのか、息子はフイッと視線を逸らせた。その拍子、喧嘩の様子を見ていた潤と目が合った。
「…………」
見詰め合う形になってしまった潤は言葉を失い、手に持ったカップを置く事さえできなかった。とっさに眼鏡を拭く様な振りでもしようかと思ったが体が動かない。何より、見ず知らずの男に正面から目を見詰められたのが恥ずかしかった。
焦る潤を他所に、息子は何か悪戯でも思い付いたように唇の端を歪めて笑った。その笑顔で母親に向き直ると自信たっぷりに言い放った。
「悪ぃが今から『お楽しみ』なんだ。邪魔すんじゃねぇよ」
「な、なんですって!」
金切り声を上げる母親に背を向け、彼は軽やかな動きでフェンストレリスを飛び越えた。テラスに降り立ち、滑るような足取りで潤の元へやって来る。
「行くぞ、立て」
腹の底に響く命令に潤はビクッと肩を震わせた。背筋を撫で上げる渋い声に抗えない。
うろたえる潤の胸中など気にした風も無く、彼は両親の前で大胆な行動に出た。突然、潤の唇を自分のそれで塞いだのだ。
濃密なキスだった。
潤は椅子に座ったまま上を向き、顎を前に突き出す格好で見ず知らずの男のキスを受けた。
二人の間で眼鏡が不都合そうに揺れる。だが男は器用に顔の位置をずらし、何度も角度を変えながら舌を絡ませてきた。ほのかに香る紅茶がキスの甘さをより強く潤に印象付ける。
奥手で自己主張が苦手な潤にもキスの経験ぐらいはある。三十歳を目前に控えているのだから当然だ。
だが息を忘れる程に甘く濃いキスは初めてだった。思わず手を伸ばし、潤は自分の顎を掴んでいる腕に縋り付いた。
「……ぁっ……」
唇が離れた時、熱の篭った溜め息が漏れた。全身から力が抜けて行く。
何も言えずに居ると強引に立たされ、強く胴を抱かれた。
「ま、待ちなさい! 彰吾!」
「彰吾!」
ぼんやりと叫び声を聞きながら潤は男の腕に身を任せてテラスを後にした。
余計な干渉をしない気配りのできる店員は「ありがとうございました」という挨拶と一緒に満面の笑みで見送ってくれた。
晴天の霹靂――。
まさに文字通りの事が起こった午後であった。
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