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第2話

 向かった先は公園だった。  手入れの行き届いた花壇や遊具が点在する広い公園で、親子連れやカップルに人気がある場所だ。  自分の意志とは無関係に連行された潤は公園の隅にあったベンチに座らされた。隣に座った男は極自然な動きで潤の肩を抱いている。これでは何処からどう見ても恋人同士だ。 「あ、あの……貴方は……」  どなたでしょう、と尋ねかけたが瞳を覗き込まれてしまい、潤は口を噤んで俯いた。何の準備も無く初対面の人と対峙するのは苦手だった。 「邪魔だ」 「え?」  突然の言葉に驚いて顔を上げた拍子、スッと眼鏡を取り上げられてしまった。視界がいっきにぼやけてしまう。返して下さい……と言い掛けた唇がヌラリとした感触を得た。男の唇が重ねられていた。 「……っ……ぁ……」  カフェテラスで交わしたキスよりもずっと長く、情熱的なキスだった。 「お前の唇……綺麗なだけじゃねぇな」  鼻先を触れ合わせたまま男が笑った。息をしようと喉を喘がせていた潤はカッと頬を赤らめて視線を逸らせた。だが逃げるのを許さないとでも言う様に男の指が顎に絡む。まるで女扱いだ。 「恥らう顔もいい。久し振りの初々しさだ。堪らねぇな」  唐突に色々な事が起き過ぎて何をすれば良いのか解らない。それに次、何をされるのか解らず体が硬くなってしまう。すっかり恐縮してしまった潤はただひたすら解放される時を待っていた。  不意に潤の目の前に名刺が差し出された。上質の和紙を利用したビジネス用の名刺だった。  YJ Company Limited  建築デザイナー  耶条 彰吾(ヤジョウ ショウゴ) 「耶条さん……珍しい苗字ですね」  名刺を受け取り、おずおずと顔を上げた潤は小さな声で告げた。 「良く言われるが、三つも泣きボクロがある奴の方が珍しいと思うぞ」  彰吾の指が潤の目元をなぞった。  潤の左目の下には小さなホクロが三つ横に並んでいる。泣きボクロ自体は珍しく無いが三つも並ぶのは稀だ。  この泣きボクロのお蔭で初対面の相手にも直ぐ顔を覚えて貰える。だが人目を惹いてしまい、恥ずかしく思う事もある。何とか隠そうと眼鏡をしているのだが効果は薄い様だ。 「……お前が相手だったら見合いもその気になっただろうな」  余程気に入ったのか彰吾は潤の泣きボクロに唇を押し当てながら告げた。  耳に滑り込む蠱惑的な声は相手をその気にさせるものだった。ゾクリと背筋を震わせながら潤は顔を逸らせた。そうしながら僅かに表情を崩す。またか、という思いが胸を過ぎった。 「あ、あの……。私は……男です」  出来る限り相手が気を悪くしない様に気を配りながら潤は告げた。母親に似て細身で女顔なのが災いし、よく女に間違えられる。しかし今日の服装はベージュ色の綿パンと白地にグレーのストライプが入ったシャツだ。決して女らしい格好ではないと思う。気を付けて言ったつもりだったが彰吾の反応は潤が想像したとおりだった。 「冗談だろ? 男? ランチの後のティータイムを楽しんでいるOLかと思ったぞ」 「よ、よく間違われますが男なんです。こう見えても整形外科医なんですよ」 「せ、整形外科医って……お前、医者?」  頼りない風に見えたのだろうか。男である以上に医師だという事の方衝撃的だったらしい。彰吾の驚き様に潤は眉根を下げた。 「カフェの前にある『君津整形外科病院』の院長なんです」  やっと自己紹介ができた事にホッとしながら潤は名刺を差し出した。キスをした後に自己紹介するなんて初めてだ。名刺を渡す代わりに眼鏡を返して貰ったのも初めてだった。 「君津整形外科……院長、君津潤……」 「院長と言っても祖父から継いだ小さな病院なんですけれどね」  謙遜する潤と名刺を交互に見遣った後、彰吾は名刺を革のケースに仕舞いながら首を傾げた。 「整形外科ってのは捻挫した時なんかに行く病院だな?」 「そうですね。他にも肩凝りや腰痛、関節炎等でお困りの方がいらっしゃいます。最近ではデスクワークが多い方もよくみえますね」  自分の肩や腰を示しながら話す潤の顔は患者と向き合う医師の顔になっていた。柔和で人の良い雰囲気だが患者を不安にさせる様な弱さはない。 「俺も肩凝りに悩む事がある。一日中パソコンに向かったり図面を引いたりしてると頭痛がしてくるしな」  自分の肩をトントンと叩きながら彰吾が告げた。その言葉に潤は眉を寄せる。医師としてその言葉は聞き流す事のできない物だった。 「それは酷いですね。ちょっと診せて貰っていいですか?」  潤は立ち上がり、真剣な表情で彰吾の背後に立った。ジャケットを脱いで貰い、肩に触れる。触れた瞬間、ガッシリとした感触が伝わってきた。着痩せするタイプなのだろうか。 (男らしい方ですね。……それにしてもこの体……この感じ……)  ある思いが脳裏を過ぎり、潤は一瞬動きを止めた。しかし直ぐに手を動かし、逞しさに感心しながら首筋から肩、上腕部に掛けて診ていく。何度も手を往復させた後、肩甲骨の周囲や背骨にも触れてみた。 「筋肉が凝り固まっていますね。それに左右の背筋の付き方が違っています。利き腕を使うスポーツをやっていました? 力の使い方が左右で異なっていて体のバランスが崩れています」  首筋に手の平を押し当て、触れた筋肉全てを掴み上げる様にする。それを何度も繰り返して揉み解すと彰吾が首を前に倒し、肩の力を抜いてフッと溜め息を吐いた。 「触っただけで解るんだな。バスケットボールを中学、高校と続けてやっていた」 「恰好良いですね。随分もてたんじゃありませんか?」  医師と患者という明確な関係が成り立つと冗談を言う余裕も出て来る。茶化す様に言いながら潤は両手に意識を集中させた。全身の血液を手の平に集め、彰吾の体内へ送り込む様なイメージを浮かべる。直ぐに両手が熱を帯び、湯のベールを纏った様になる。そして徐々に相手の体と自分の手が一体化していく様な感覚に襲われていく。 (……ゆっくり……少しずつ……貴方の疲労と痛みを癒します)  潤は目を閉じ、両手を動かしながら一番酷い患部を探し始めた。目の奥にぼんやりと像が浮かび上がってくる。どす黒い色をしたゼリーの様な物体が見えた時、潤はゆっくりと息を吸い込んだ。空気を吸うのに合わせ、塊を両手で吸い取るイメージを脳裏に描く。 「腕を持ち上げると肩に違和感があったり、痛みを感じる事はありませんか?」 「仕事を始めてから何度もあるが職業病だと思っていた。治るものなのか?」 「完治させるには姿勢を正したり生活習慣を改善しないといけませんが楽にする事はできますよ」  潤は会話をしながら治療を続けた。彰吾の首から肩、腕などをゆっくりと揉み続ける。受身の彰吾にしてみれば、自分が辛いと感じる部分を的確に押さえる潤が不思議だった。それに潤の手が触れた箇所が驚く程楽になっていく。筋肉に縛り付けられた錘がポロポロと外れていく感じだ。 「あぁ……気持ち良い。揉む力は強くねぇし痛くも痒くもねぇのに凄く楽になる」  初めて潤の治療を受けた患者は必ず同じ事を言う。「気持ち良い」や「楽になる」という言葉は最高の褒め言葉だ。 「……はい、今日はここまでです」  二十分程続けただろうか。  潤は小さく溜め息を吐き、笑顔で彰吾に告げた。両腕が重く感じられる。彰吾の首や肩に纏わり付いていた錘を肩代わりした気分だ。目を閉じた時に見えたどす黒い塊が両腕の中にずっしりと溜まっている感じがする。 「もう終わりか? 何か惜しいな」  潤の顔を見上げながら彰吾が残念そうに言った。両肩を持ち上げたり、腕を回したりしながら感覚を確かめている。 「しかし本当に凄い。こんなに楽になるとは思わなかったぞ。とにかく肩が軽い」 「宜しければ一度病院へいらしてください。少し時間が掛かるかもしれませんが慢性的な肩凝りになる前に治療しましょう」  潤にとっては自然な言葉だった。これもひとつの縁だし、通院して貰えれば治療プランを立てて診る事ができる。だが彰吾は違う風に受け取った様だ。ジャケットを着ながら立ち上がり、潤の耳朶に唇を押し当てて囁いた。 「上手い誘い方だな。まぁ、腕も良さそうだし、美人先生の白衣姿にも興味はある」 「あ、いえ、誘うなんて……」  彰吾は潤の泣きボクロに何度も唇を押し当てた。その唇が下に向かって滑り、再び唇を重ね合う雰囲気になった時、携帯電話の着信音が邪魔をした。 「ったく、誰だ。空気が読めねぇ奴だな」  強かに舌打ちして彰吾は電話に出た。また彰吾のペースに流されそうになった潤は高鳴る胸を抑えながらホッと溜め息を吐いた。  別に誘ったつもりはなかった。だが考えてみれば彰吾が通院する様になれば「これっきり」ではなくなる。 (……本当に……貴方は病院へ?)  携帯電話に向かって真剣な顔で話している彰吾の横顔を見ながら潤は心の中で呟いた。色とりどりの花が咲き誇る花壇をバックに立つ彰吾は見惚れる程男らしい。 「……あぁ。今夜設計図を送ると先方に伝えろ。見積書は作っておけ。今から戻る」  電話を切った彰吾が向き直った次の瞬間、潤は口の中に熱い物を感じた。何度目の情熱的なキスだろう。ベンチを挟んで交わすキスに潤は目を閉じた。 「近いうちに診て貰いに行く。その時はゆっくり診察してくれ。頼むぞ、潤先生」  細い唾液の糸を引きながら離れていく彰吾の唇がそう告げた。潤の返事を待つ事無く彰吾は背を向け、足早に去って行く。遠退いて行く背中を見送りながら潤は暫くその場に立ち尽くしていた。 「耶条さん……」  彰吾の姿が見えなくなった時、潤は小声で呟き、自分の手を見詰めた。体に宿る疲労や痛みの源を探り出し、それを奪い取る事ができるこの手は一度治療した体を忘れない。 「初めて会ったのに……この手はあの人を知ってる……初めてなのに、初めてじゃない」  潤の呟きは花の香りがする風に乗って消えていく。  不思議な出会いに心を奪われながら潤は甘い香りの微風と共にゆっくりと歩き始めた。

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