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第3話

 一人で夕食を終え、食器の片付けをしながら潤はぼんやりと昼間の事を思い返していた。 「耶条さん……」  唇を奪われた熱い感触は今でもはっきりと思い出す事ができる。最初は女と間違えてキスをされたが、その後も彰吾に繰り返しキスをされた。男と解っていながら舌を絡ませる情熱的なキスを交わした。 「あの人は……一体……」  強引で横暴だが、それも男の魅力と思わせる人だった。同性ですら見惚れてしまう男と出会う事は滅多に無いと思う。  それに他人の疲れや痛みを癒す事ができる自分の手は彰吾の事を知っていた。過去に治療した事のある相手だ、と言っている。 「いつ……どこで?」  不思議な縁だと思えた。  物思いに耽っていた潤はキッチンに人が入って来た事に全く気付かなかった。 「潤?」 「えっ! あ、はいっ!」 「……どうかしたのか?」  潤の慌てぶりに小首を傾げたのは長い黒髪が特徴的な医師・佐宗真だった。  真は元々大学病院に勤務していたが訳あって君津整形外科病院の雇われ医師となっている。往診が主な担当だ。一見、陰りのある女性の様に見えるが正確に的を射る鋭い言葉を容赦無く吐くので、口を開くとそのイメージは一瞬で覆ってしまう。容姿で損をしているのか、口で損をしているのか解らない男だ。とはいえ決して怖い訳ではなく、親切で丁寧な治療をするので患者には人気があった。 「な、何でもありません。それよりも何かあったのですか? 休診日なのにその姿……往診に出ていたのですか?」  平素を装いながら潤は白衣姿の真に尋ね返した。今日は休診日だ。往診の予約は入っていなかった。真の勤務予定は無かったはずだ。 「泉さんから連絡が入ったから行って来た。大した事は無かったが階段から滑り落ちたそうだ」 「そんな! 大した事は無いと言っても、もうあんなお年ですから……」 「軽い捻挫程度だと思うが念の為、明日、来院する様に言ってある。それと待合室用の雑誌を買って来た」  淡々と話す真は言葉を切ってからジッと潤の顔を覗き込んだ。妙に焦る潤の様子が気になった様だ。 「顔が赤い」 「そ、そうですか?」  どぎまぎしながらも潤はすっ呆け、コンビニ袋に入った雑誌を受け取った。逃げる様にサッと身を翻すと手も拭かずにキッチンを後にする。 「……もう、急なんですから……」  小走りにキッチンから離れ、チラリと振り返って誰も居ない事を確認してから潤は深呼吸した。高鳴る心臓が静まるのを待って階段を降りる。  潤の自宅は一階が病院で、二階と三階が住居スペースになっている。階段を降りて玄関の様な扉を開ければ待合室に出る。潤は壁のスイッチを押して灯りを付け、本棚から古い雑誌を抜き出し始めた。 「これは捨てて……こっちの新しい雑誌の表紙に病院名を……」  棚にあったサインペンで雑誌に病院名を書き付けていく。病院を訪れる患者は高齢者が多い。それも女性の割合が高いので彼女達が読みそうな雑誌を選んで置いていた。  真が買って来た雑誌は主婦向けの物で、毎月購入している物だった。何気なくパラパラとページを捲った潤はある特集記事に目を奪われて手を止めた。 「空間デザインのカリスマ・耶条彰吾?」  潤の目に飛び込んで来たのはリフォームを特集した記事の見出しだった。  そこにはキッチンやリビングルーム、庭や駐車場をリフォームした例が紹介されていて、リフォーム前と後の写真だけではなく設計・デザインを手掛けた建築デザイナーの顔写真も載っていた。記事のトップにYJ Co.,Ltd.が出ていて「耶条彰吾」という名前と写真が大きく掲載されていた。 「……建築デザインコンクール優勝? 今、注目のデザイナー?」  そこに映っているのは確かに昼間出会った男・耶条彰吾だ。記事を読む限り、通りのど真ん中で喧嘩をしたり見ず知らずの男にキスをしたりする者とは思えない。デザインセンスのある、将来有望な素晴らしいデザイナーとして紹介されていた。 「こんなに注目されている人なんですね」  驚嘆し、何度も記事を読み返していた潤は再び真の呼び掛けに飛び上がった。 「な、ななな何ですか?」 「いや、帰ると言おうと思って……」  見ている方が驚く程、露骨に驚いた潤は何故か雑誌を自分の背後に隠していた。反射的にそうしてしまったのは彰吾の事を真に知られたくないという本心の表れだったかもしれない。初対面でありながらキスを交わした事が原因だろう。喋らなければ知られる事は無いのだが、正直で嘘が吐けない潤だ。態度に表れてしまうのを抑えられなかった。 「お、お疲れ様でした。今日の勤務分はちゃんと記録しておきますから」 「……あぁ。明日の朝は病院に寄らずに直接、往診に行く」 「わ、解りました。お気を付けて」 「……お疲れ様」  真が帰る先、それは恋人の家だ。以前は潤と同居していたが、一年程前から恋人と同居中だ。相手は近寄り難い雰囲気の男性だが礼儀正しい者で潤の所へ挨拶に来た事もある。仲の良さは見ている方が妬いてしまう程だ。  そんな恋人の元へ帰ろうとした真が足を止めて振り返った。 「……眼鏡がずれている」  潤の様子が気になったのか、真は「絶対に変だ」と視線で訴えかけて来た。目は口程に物を言うというが正にその通りだった。  二人は暫く無言で視線を交わしていたが根負けした真が先に視線を逸らせた。その姿が扉の向こう側に消えてから潤は大きな溜め息を吐いた。 「あぁぁ……もう驚いてばかりです」  ペタン、とソファに座り込んだ潤は眼鏡のずれを直してから背後に隠していた雑誌を膝に置いた。視線は自然と彰吾の写真に向く。 「耶条さん……貴方は……」  特別な想いを込めて呟いた後、潤は自分の唇に指を当てた。柔らかい唇は少し熱を持っている様だった。それは「綺麗だ」と男に褒められ、初対面とは思えない様な関係を結んでしまった唇だ。  そんな唇に触れたまま潤の指は長く動かなかった。その様子は呟きの続きを制している様であり、昼間のキスの感触を楽しんでいる様でもあった。

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