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第4話
数日後――。
午後の診察を終えた潤がいつもの様に明日の診察準備をしている時だった。
ピンポーン、とインターフォンが鳴った。
「宅急便でも……?」
配達物の予定があっただろうか、と小首を傾げながら潤は白衣姿でエントランスに向かい、閉めてあったカーテンをサッと開けた。
「あっ……」
ガラス戸の向こう側に立っていたのは配達業者ではなく、着崩したスーツ姿の彰吾だった。潤の姿を見た彼が口角を吊り上げる笑みを作る。自信に満ち溢れた笑みだ。
「お誘いに甘えて来たぞ」
ガラス戸を開けると同時に彰吾が踏み込んできた。一歩下がろうとしたがそれよりも速く彰吾の腕が動いた。気付いた時には抱き締められていて濃密なキスを交わしていた。二人の間で眼鏡が不都合そうに揺れる。
「……ッ……ァッ……」
「ゆっくり診て貰おうか。今日は腕が上がらない程、凝っている」
「あ、あの、診察室へ……」
奥の部屋を示した潤はエントランスの鍵が閉まる音を聞いた。彰吾が掛けたのだ。それが意味する事に気付ける程、潤に余裕は無かった。
抱き合う様な格好で診察室に入ったものの、そこは潤の仕事場だ。問診しながら何とか体を離し、潤は彰吾の診察を始めた。
「つい数日前に診たばかりなのに……随分凝っていますね」
診察台にうつ伏せになった彰吾の首や肩を治療しながら潤は眉根を下げた。
「ここ三日、ずっとパソコンと図面に向かいっぱなしだったからな」
「無理をすると体を壊しますよ?」
「客は自分の家や店がどんな風になるのか期待して待ってんだ。長くは待たせられねぇし、俺の中のイメージも待ってはくれん。一分一秒を惜しんでやる仕事だ。肩凝りなんざ無理のうちに入らねぇよ」
彰吾の厳しい言葉に潤は口を噤んだ。ビジネスの世界がシビアなのは解らなくはない。だが体を壊すと元も子もない。どんな言葉を掛けるか迷いながら潤は両手に意識を集中させた。熱を帯びた手が疲労の溜まった箇所を探り始める。
(この前取り除いたはずなのに、また同じ場所に疲れが溜まっていますね。それも、前よりもずっと酷い……)
潤の瞼の裏にどす黒い塊が見えてくる。それを両手で吸い取るイメージを浮かべながら筋肉を揉み解していく。
「あぁ……気持ち良い。触れられた場所が楽になる……。堪らねぇな」
彰吾が楽になる分、潤の両腕がズッシリと重くなっていく。彰吾の疲労を吸い取り、肩代わりするから仕方がない。今日は既に両手で数えられない程の患者を診た。正直、直ぐにでも横になりたいくらい疲れている。充分な休養を取らなければ疲労はどんどん蓄積していく。力の使い過ぎは禁物だ。しかし目を閉じて「気持ち良い」と繰り返す彰吾を見ていると治療を止める事ができなかった。
(もう少しだけならきっと大丈夫……)
カフェテラスの前で喧嘩をしている時、彰吾の父親が「今が一番良い時なんだ」と言っていた。それは雑誌に掲載され、注目を浴びている事を指していたのだろう。会社にとっても彰吾にとっても大きなチャンスだ。それを活かす為に彰吾も必死なのに違いない。そう思うとますます手を休める事ができなかった。
「そこ、ちょっと痛ぇ」
「ここですか?」
「あぁ、そこ……」
潤は体の位置を変え、彰吾が示す上腕部に手を当てた。スポーツをやっていた男性特有の逞しい腕だ。ゆっくりと筋肉を揉み解していると、突然、手首を強く掴まれた。
「あぁっ!」
「っと、そんなに驚くなよ」
起き上がった彰吾は潤の手首を掴み、診察台に胡坐を組んで座った。そして潤を抱き寄せ、溜め息を吐く。続いたのは囁きに似た言葉だった。
「なぁ、潤。これから毎日通っていいか?」
「え? えぇ。構いませんよ。こんなに肩や首が凝っていては辛いでしょう?」
「あぁ、堪らなく辛い。だが表に貼り出してあった診察時間中には来られないぞ」
「毎日時間外に?」
「そうだ。これからは毎晩、俺だけを特別に診るんだ。いいな」
最後は有無を言わさぬ命令口調だった。
Yesと答えれば休診日も何も関係無くなってしまう。だがNoと答えればどうなるだろう。
「い、いいですよ。貴方の都合の良い時間に連絡をください。いつでも診ますから」
Noと答えた後の事を考えるのが怖くて潤は首を縦に振った。その返事に彰吾は当然だと言う様に頷く。
「これで契約成立だな。俺も安心して無茶ができる」
「む、無茶ってそんな!」
「そうだろ? お前が俺を治してくれる。もう肩の痛みや頭痛で煩わしい思いをしなくても済む。思う存分、仕事ができるんだ」
「耶条さん……」
「これからお前は俺の専属医だ。特別のな」
彰吾の唇が潤の額に触れた。くすぐったい感触に潤は身を捩る。だが強く抱き締められ、身動き取れなくなってしまう。
「あの、耶条さん?」
「彰吾と呼べ。いいな、潤」
耳に掛かる吐息が心地良い。それは直ぐ傍に居る証だ。潤は目を閉じて遠慮がちに彰吾の胸に寄り掛かった。
疲労に包まれた体が彰吾の体温で癒されていく気がする。
(彰吾さん……)
心の中でそっと呼び掛けた時、彰吾の鼓動の速さに気付いた。速い心音が潤の胸をざわつかせる。何かが起こる予感がした。
それでも構わない。
そんな想いが潤の脳裏に浮かぶ。
「さぁ、診察を始めようか」
彰吾の呟きが全ての始まりだった。
小さな音と共にシャツのボタンが床に転がる。
今日も突然の出来事が潤の身に降り掛かってきた。
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