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第2話 現実と非現実

「とりあえず、これ速攻で覚えてくれる」  顔を洗ってすっきりした真田が、リビングでわけもわからず用意された朝食を摂っていた俺の手元に譜面をばさりと落とした。  壁に掛かったカレンダーは、20**年3月。  俺の認識より二年半くらい未来だった。俺の中で今は3月などではなく、8月の終わり頃だったはずだ。  そんなことはないと思いたいが、俺は過去からタイムマシンに乗って未来にやってきてしまったのだろうか?  そういう非現実的なことを信じる性質ではなかったが、実際俺の身に起こっているこの現実こそが非現実的だった。  おかしい。  真田もおかしい。  最初はすべてわかったような笑顔だったのに、さっきの「気持ちわりぃ」発言からどうにも不機嫌だ。あんなホモネタを急に振られたら、あんな反応してしまったとしても仕方ないではないか。  真田とそんな関係であるはずがない。覚えもない。  ぐだぐだと考えながら譜面を見ていたら、真田が静かに俺の向かいの椅子に腰を下ろした。 「ごめん、竜司。怒ることないよな」 「……わかってんじゃねえか。あんな冗談もうやめろ。そういうの、苦手なんだわ俺」 「そのことは冗談じゃないけど……。全部忘れちゃってる奴相手に怒ったのは、大人気ないと思っただけですよぉ」  拗ねた口調の真田は、ついと視線を逸らして朝の情報番組をどうでもよさそうに見た。お天気お姉さんが告げる花粉の飛散量に顔をしかめている。  その横顔は、ほんの少し妹の亜樹乃に似ている。わりと綺麗な造りをしている。真っ黒な髪と目が、肌の白さを際立たせる。しかしそれでも相手は男だ。なんとも思わない。  それに「そのことは冗談じゃない」と言われても……記憶がないのでなんとも対応に困る。  さっきの「残骸」だって、真田に使ったとは断定出来ないではないか。もしかしたら女を連れ込んでよろしくやったあと、真田がベッドに闖入してきたとは考えられないだろうか?  ……いや、それにしたって意味不明だ。  何故一緒に眠る必要があるだろう? そして何故裸である必要があるだろう。まさか俺の知らないうちに、恋人関係でも築いてしまったのだろうか。  一緒に住んでるみたいだし……。  けれどそのことについてはっきりと尋ねるのは色々恐ろしかった。聞いてみて、肯定されたら俺はどうしたら良いのだろう。  とりあえず、少し違う方向を攻めてみることにした。 「この、譜面は?」 「ああそれは。午後MVの撮影あるから、その時に弾いてもらう曲。竜ちゃん覚えるの早いし、そもそも自分が作った曲なんだから、なんとか間に合わせて。……どうしても間に合わないようなら、延期させるけど」 「――MVって?」  不審な声を上げた俺に、真田が視線をこちらに戻す。 「ミュージックビデオ、の略」 「いや、なんで?」 「去年デビューしたんだよ。俺たち二人、ZIONで。竜ちゃんこんなだから生番組とかには出ないけど、ぼちぼち稼いでるよ。多少のNGは許す。だから落ち着いていこうな」  真田は励ますように言って、自分の朝食を食べ始めた。  ……この朝食は、こいつが作ったのだろうか?  大根の味噌汁と白いごはん。味のしみた肉じゃがにいりたまご。そして浅漬け。  似合わない。作っている姿が想像出来ない。普通においしい。しかし先ほど俺に起こされてからそんなに時間は経過していないし、作る時間などなかったはずだ。それとも作り置きか?  わからない。  俺はどこに迷い込んでしまったのだろう。  俺の知らない、少しばかり年を重ねた真田。  そういえば顔を洗った時に自分の姿も見たが、やはり妙な違和感を覚えた。意識だけがおかしいのだろうか。  俺がこんなだから、と……真田は言った。  こんなというのは、やはりこの現実世界と精神とのギャップを示しているのだろう。しかし何故こんな事態に? 理解不能だ。 「こんなだから……ってなんだ?」 「物忘れがひどい。昨日までのことを、何かの拍子にころっと忘れちゃうんだ。ここ二ヶ月くらいは大丈夫そうだったのに、今朝になったらこれだよ。まあ……怪我の後遺症とでも言っておこうか? だから俺から離れたら駄目だよ」  真田はなんだか微妙な笑顔を作って、俺の目をじっと見つめた。  怪我?  何を言われているのかわからない。俺はバイクに乗ったりするが、それですっ転んだりして怪我でもしたのだろうか?  だとしてもそれはいつのことだろう。では俺は本当にタイムマシンなどに乗ってきたわけではないのか。本当に、時間は経過しているのか。二年半も?  昨日までの俺は、何を思い、何をしていたんだろう。  俺の知らない自分。  俺の知らない真田。  混乱する。  真田は急に立ち上がって、正体不明の冷や汗が出てきた俺の背後に回ってきた。  俺の髪に触れる。  赤い髪をかきわけて、「ほら、ここ」と指の動きを止める。真田の指が示している場所を自分で触ってみたら、そこだけ髪が生えていない。 「げっ、禿げてんじゃん!」 「傷痕んとこね。ま、普通にしてたら禿げなんて見えないし、気にするこたない。……頭かち割ったんだよ、おまえ。今は元気だけど。でもたまに記憶がおかしなことになる」  真田は痛みもないその傷痕を指でなぞった。壁際に置かれた縦長の姿見に映った自分たちの姿を見ていたら、急に真田が俺のことをぎゅっと抱き締めたのでびっくりした。 「もう、痛くない?」  振りほどくことなど簡単だった。脊髄反射でその腕を解いた俺に、背後の男は少しばかり傷ついたような顔を一瞬だけ見せたが、すぐに消えた。  それよりも……  腕を振りほどく際に、真田の左手首にたくさんの切り傷が残されているのが、目に留まった。 「真田、それ……」 「ん? ああ……猫傷。野良猫にやられた。大したことないよ」  俺の向ける胡乱な視線を無視して、真田はまた自分の席に戻ると、食べかけだった朝食を片付けることに専念した。  猫傷だなんて、嘘臭い。  傷をつけた「猫」は真田本人ではないのか。  あれは多分、リストカットの痕だ。  生々しい傷は今のところない。切られた場所は乾いて塞がり、色白の肌にやけに痛々しい。不自然に手首に何本も入ったラインは、一体何を意味するのか。  こいつにリスカなんてする性癖があっただろうか? そんなことをするような人間じゃなかった。  それとも俺の認識不足だろうか。

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