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第3話 怪我の原因

 ギターを握りながら譜面の記号を音でなぞっていたら、ほどなくこれが俺が作った曲なのだとうっすら認識出来た。  曲自体は聴いたことがなかったが、音のラインに俺の癖がことごとく出ている。  ギターの弾き方まで忘れなくて良かった。  記憶がないことよりも、弾けないことの方が俺にとって恐ろしいという事実は、ある意味妙に納得した。けれどやはり、忘れてしまった記憶は気持ちの良いものではない。  真田は弾いている俺のことを眺めながら、空気清浄機を傍に寄せて壁にもたれ、ぺたんと床に座り込んでいる。 「俺のことは忘れても、コードは忘れない」 「うっせえな。思い出してやっただろうが」 「怪我する前のことまでね。だろ?」  小さく笑んで、近くに置いた甘酸っぱい香りのする毒々しい色の茶など飲んでいる。非常に不味そうに思えたので、出してくれようとした真田の好意を、俺は断った。  ――怪我する前のことまで、か。  確かにそうかもしれない。いくら考えても今朝起きる前の記憶は戻ってこなかったし、怪我をしたという覚えも見当たらない。俺の頭は本当におかしなことになっているようだった。  思い出せないなら、無理に思い出さなくても良い。真田の言うことが本当なら、俺はまたいつか、すべてを忘れてしまうのだろう。頑張って思い出したところで、いつ(もや)の中に隠れてしまうかわからない。  それは、怖い。 「竜司の音は、いつも変わらない。記憶をなくしても、ずっと同じ。今んとこ支障なさそうだね」 「体が覚えてんだろ、きっと」 「……そうかあ」  どこか意味ありげに呟いた真田はふと目を逸らして、時計を見た。  午後はMVの撮影があるとか言っていた。  デビューなんていつしたんだろう。嬉しいような、不気味なような。  ……もしかしてこれは、俺が見ている夢だったりしないだろうか?  それなら簡単だった。  もう一度ちゃんと目覚め直したら、今は空気清浄機なんていらない夏で、俺は俺の知る世界でギターを弾いている。真田の手首に切り傷なんてない世界。好き勝手にギターを弾いて、目先のことだけ考えながら楽しく生きる。  でも夢だとしたら、  弦を押さえる指が止まった。  俺は真田とやりたい願望でもあったのだろうか? 一緒に寝ていたり、抱き締められたり、深層心理にそんな意味不明の欲望が隠れていたとでもいうのだろうか。考えたこともない。 「大丈夫? 出かけようか。そろそろまひるに車出させる」 「まひる?」 「マネージャー。隣の部屋に住んでる。ごはんとかも作ってくれる。これは本当は仕事からは逸脱してるんだけど、まあ好意で。旨かったろ?」 「……ああ、道理で」  心底頷いた俺に、真田は少し不思議そうに首を傾げる。黒髪が傾いた顔にかかった。傷みのまるでない、染めたことなんてない綺麗な髪。禿げも、多分ない。  ……思い出してしまった。  怪我の痕とはいえ、自分の頭皮の一部に髪の生えていない場所があるなんて、なんだか物悲しい。  そうだ、違和感の原因はここにもあった。  前はもっと短くしていた。今は微妙に長い。長いと言っても長髪の部類ではないが、きっと頭の傷が見えないように少しばかり伸ばしたんだろう。短髪では、目立つ。さっき合わせ鏡でそれを確認した。  記憶に障害が残るような、怪我。 「なあ真田。俺なんで怪我したんだ?」 「……壱流って呼ばないんだ?」 「しつけえなてめえは。なんでそこにこだわる?」 「俺は竜ちゃんて呼んであげてんのにさあ」  呼んでくれと頼んだ覚えはない。これは記憶をロストしているうちにそう変化したわけではなく、昔からだったが、勝手にこいつからそう呼び始めたのだ。  高校の頃、知り合った。17だったか。  その頃組んでいたバンドでは、当初同じ学年にいた男がボーカルを務めていたが、途中で抜けた。  同じ学校で代わりのボーカルを探すことも出来なくはなかったが、真田の親父が経営しているスタジオで、バイトに来ていたこいつと出会った。  それからの付き合いだ。俺の認識である22歳からすれば付き合いは大体五年だが、実際は空白の記憶の間もずっと一緒にいたのだろう。  俺がバンドを抜けたら、何故か真田もついてきた。  抜けた原因というのは、まあ他愛もない。失恋したのだ。  俺と同じくギタリストである亜樹乃はわりと仲良くしてくれたが、それは恋愛とは別らしかった。傷心の俺は「ちょっと放浪の旅に出る」と言い残し、バンドを抜けた。  真田はその放浪に、ちゃっかりついてきた。  こいつの歌は好きだったし、一人も寂しかったのでそのままずるずるとつるんでいる。  困ったことが発生したら真田に頼ること。  スマートフォンのメモにあった、一文。  うっかり記憶喪失になってしまう男の世話を、煩わしいとか面倒だとか思ったりはしないのだろうか?  それともギターは忘れないようだから、弾ければまあ良いとかそんな感じだろうか。  それなりに気心は知れていたが、一緒に住むなんてプライベートを割いてまで、俺の傍にいる必要などない気がする。  心配だとしても、せいぜいさっき会話に出てきたマネージャーと同じく、隣の部屋で充分だ。更にベッドが一緒である必要など皆無だ。  怪我の原因を答えて貰っていないことに、ふと気づいた。 「なんで怪我したんだか教えろよ」 「ライブハウスで……その辺にあった椅子だかなんだかで、思いっきり殴られたんだったかな。俺も混乱してて、状況はよく覚えてない。とりあえず救急車を呼んであげたことは、覚えてるよ」 「喧嘩とかか?」 「――まあ、そんな昔のこと言っても始まらないし、出かける準備しろよ。俺はいつでも出れる」  真田は立ち上がってごそごそと上着を着ている。  振り返ったその姿は若干怪しかった。サングラスにマスクをしている。何事だ。 「変質者かよ……」 「花粉対策です」 「そんなに辛いなら、薬飲めばいいのに」  クローゼットから真田がチョイスした服を受け取り袖を通しながら呟いた俺に、真田は「言語道断」と首を振った。 「声の伸びが悪くなるから駄目だね。喉は渇くし、心臓にも負荷がかかる気がする」  多分それは薬が合っていないんだろうが、俺は花粉症ではないからわからない。

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