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第4話 温度差
恐らく「まひる」だと思われる女は、マンションの地下駐車場に停まった白いセダンの運転席でエンジンをかけて待っていた。
長いストレートの髪が、亜樹乃を思わせてどきりとする。
まだ俺の心の中に残っている女。性別を忘れるくらいに激しいギターを弾く、真田の妹。
後部座席に乗り込んだ俺に振り返ったまひるはしかし、オレンジ色のフレームの、細い眼鏡をかけていた。美人ではあるが、亜樹乃に似てはいない。似ているのは後姿だけだ。20代後半くらいだろうか。
「はじめまして?」
「……え、う。どうだろう」
言い淀んだ俺にまひるは困ったように笑んで、また前を向いた。
「二ヶ月ぶりよねえ、はじめましての入江くんは。じゃあ主だった関係者の写真と名前とか、どうぞ」
ダッシュボードからA5サイズのアルバムを取り出し、俺に渡してくれる。そこにはたくさんの顔写真と、その人物のプロフィールが仔細に書き込まれていた。
「いつもこんなん用意してるんですか」
「マネージャーだし? 可愛い子が困るのは可哀想じゃない。あと、敬語は気持ち悪いんで、いつもの調子で」
「竜ちゃんに『可愛い子』はおかしいよ」
すかさず真田が突っ込む。
確かに、俺は可愛くはない。でかい図体しているし、顔だって可愛い部類ではない。
まあ……自分で言うのもなんだが、けして不細工ではないと思う。路線で言えば、若干強面だ。
しかし……いつもの調子と言われても。
困った俺に気づいたのか、まひるが苦笑まじりに「ごめんなさい」と呟いた。
「つまり、壱流相手にするみたいな感じで。あたしのことは、まひるでいいし。呼びにくかったら、まひるさんでもまひるちゃんでもまひるくんでも」
気軽な感じだ。
しかし明らかに年上な気がする女相手に、ちゃんやくんはないだろう。ていうか、苗字で呼ぶ選択肢はないのだろうか?
まひるの上の名前は、なんだろう。それとも以前の俺は彼女をまひると呼んでいたのだろうか?
「もー、まひる。おしゃべりはいいから出ようよ」
何故だか真田が苛立ったようにせっついた。まひるが軽く相槌を打って緩やかに発進した車の中で、俺は渡されたアルバムをめくる。
「壱流、もうそのマスク取ったら? ここは平気でしょ」
言われて真田は息苦しそうなそれを顔から外した。サングラスはそのままだ。
……ふうん。
俺は「入江くん」で、真田は「壱流」か。
温度差のようなものを感じたが、すぐに記憶がリセットされてしまう男と、連続した記憶を持っている男とでは温度差もあるのだろう。まあ別にどうでも良いんだけど。
「曲かけて。今日演るヤツ。竜司に復習させるから」
「これは気づきませんで」
おどけた調子で言ったまひるはカーオーディオのボタンを何度か押して、曲を選択する。数秒後、先ほど俺が弾いていた曲が流れ出した。
真田のボーカルが入った、曲。
……どくん、
と心臓が鳴った。
え、何こいつ。
歌、上手くなってやがる。
俺の知ってる真田より、数段レベルアップしている。声量も表現力もぐんと上がっている。
消えてしまった月日の中で、真田なりに努力をしたのだろうか。伸びが悪くなると言って薬を飲むのを嫌がったし、それなりに気を使っているのかもしれない。
俺が好んで作る音楽と、前にいたバンドの音楽性は若干異なる。
バンドだからいろんな人間の音が絡むし、俺とは個性の違う音を繰り出してくる奴がいた。結構衝突もしたが、そういうのもバンドならではだ。
それは軋轢ではない。葛藤だ。そうやって音を作り出すのは、悪くない。
今は真田と俺だけだ。音が変わるのも道理だ。それもまた、悪くはない。
「どうよ」
アルバムをめくる手が止まっているのに気づいた真田が、俺の顔を覗き込んでいた。
「……成長してんだな」
褒められた真田は、にっと口元を歪めた。こういう表情をたまにするのは、嫌いじゃない。
嫌いじゃない……けど。
今朝のことをふと考えてしまう。
寝起きの笑顔で俺に絡み付いていた、真田。今夜はどうするつもりなのだろう。また同じベッドで、一緒に寝たりするんだろうか。
――何か、求められちゃったり、するわけ?
男同士って一体どんなふうにするんだ? いや、なんとなく知ってはいるけど、だけど。
ぐらぐらと激しい眩暈がした。
良くねえ。
全く以てよろしくない。嫌な想像をしてしまった。
「真田さー、今はどんな女と付き合ってるんだ? 前は結構色々と、お盛んだったよな」
「……え?」
サングラスの奥で、真田の目が微妙に細くなったのがわかった。
今のは俺なりの抵抗だ。俺とおまえはなんでもないのだと、突きつけてやりたかった。
俺の中の真田壱流像は、別に男が好きとかいう認識はまるでない。それなりに女と付き合ったりしていたし、俺に対して友達や仲間以外の何かの感情をキャッチしたことも、まったくない。
それとも二人でいる時間の中で、気持ちが変化してしまったとでも言うのか? たとえば真田が俺をそういう意味で好きになったとして、俺はそれを受け入れるだろうか?
……今の段階で、それは無理な注文だ。
まひるの前で、今朝のことを持ち出したりはしないだろう、というのもあった。
真田はほんの少しの間黙ってから、俺から視線を外して質問の答えとは違うことを言った。
「今夜は3Pといこうか」
予想していなかった科白に、アルバムを足元に取り落とした。
「まひるは? いいよな」
「えー? あはは。壱流はオイタが好きだよねえ」
あんたも軽く笑ってんじゃない。
もしかしてこれまでもそういうことはあったのか!?
妙な汗が出てしまった。俺の知らない俺は一体何をやっていたんだろうか。
三人でなんて、したことねえし。いつのまに真田や俺はそんなふしだらな男になったのだろう。……いや、ふしだらって。清らかでもないけど。
「竜ちゃん、まひるは何年か前までグラドルやってたんだよ。今は引退しちゃったけど。ほら、いい胸してんだろ」
真田が運転しているまひるの胸元に、後部座席から手を伸ばした。運転中だった女はくすぐったそうに「今はやめてー」と笑う。少しだけ軌道がブレた。怖いので運転に集中してくれるとありがたい。
「……冗談だよな? なんで俺の質問から3Pに発展するのかわかんねえんだけど」
真田は俺から完全に顔を背け、窓の外を見た。
無視かよ。
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