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番外編 Love Addict 3

 壱流が去ってしまったあと、瀬尾は妙に緊張していた自分に気づき、まひるが出してくれた少し冷めたコーヒーに口をつけて一気に半分くらい飲んだ。  目の前に腰掛けてその様子を見ていたまひるが、「冷めちゃいましたよね。淹れ直します?」と言ってくれた。しかし一気飲みするには丁度良い温度だった。 「いやあの、ほんとおかまいなく」 「もしかして先生のこと、びっくりさせました?」 「……まあ、少し。実はその……結構ファンだったりしまして。実物はやっぱり、かっこいいなあと」 「社交辞令はいいのに」 「いや、社交辞令とかじゃなくて! ……あっ。す、すみません。ちょっと興奮して。保護者の名前見た時、同姓同名の方かな……なんて、うっすら思ってたんですが。本人出てきたから……なんてゆうか。……芸名とかじゃないんですね」  わけもわからず謝る。言わなくても良いことを言っている気がする。 「ああ、可愛いでしょう? 壱流って名前。デビューさせる時どうしようかって話したんですけど、似合ってるからそのままでいいかって」 「は……、え、と、そうですね……?」  ちょっと不思議そうな顔をした瀬尾に、ああ、とまひるは付け足した。 「あたし、彼らのマネージャーやってたものですから。今は信頼出来る人に任せてるけど。子育てってあの仕事続けながらだと、ちょっときつくて」 「ああ。そうなんですか……そうですよね。すみません、なんか」  またしても意味不明に謝った瀬尾に、まひるは面白そうに笑んだ。頼りない感じの先生だとか思われていそうだ。何を謝っているのだろう、もっと教師らしくしなくては。と瀬尾も自分を振り返る。  なんとなく、立ち入ったことを聞いた気がしたから。  忙しいのだろう、確かに。  ZIONは結構ライブ本数をこなすし、その関係で全国あちこちを点々としていることが多い。留守にする時間は多いに違いない。それに付き合っていたら、他人に預けたりしない限りまふゆのことなどまともに育てられない。 「……えーと、まふゆちゃん、お父さんとの関係は良好ですか」  先ほどの壱流にまとわりついていたまふゆを見れば良好らしいというのはわかったが、なんとなく壱流に関連付けた質問をしたくなって、聞いてみる。まひるは一旦瀬尾から目を逸らし、自分の隣に腰掛けている娘を見た。  何をするでもなく、壱流に座らされたままの体勢でじっと瀬尾の方を向いている。わりと大人しくしていることが多い印象を持っている。しかし単に大人しいわけでもない。マイペースで、自分が気になるものがあったりすると、脇目も振らずにそちらに行ってしまう傾向がある。 「まふゆ、壱流のこと好き?」  母親を経由して到着した質問に、まふゆは即答する。 「大好き」 「どんなところが好き?」 「可愛いとこ」  素で答えているまふゆに、瀬尾はちょっとコーヒーをむせる。自分の父親に対し可愛いとこが好きだなんて言う娘は、瀬尾の知る限りいない。 「あのね、竜ちゃんも大好き。でもたまに壱流のこと泣かせるのは、嫌なの」 「……そ、そう。まあ、その話は、あとでね」  ちょっと顔を引きつらせたまひる。竜ちゃん、というのはギタリストの入江のことだろう。何故泣かされているのだ、と瀬尾はぐるぐる考え始める。  あの図体のでかい深紅の髪の男。言葉少なで、いかつい印象。情報が少なすぎて何を考えているのかまるでわからないが、そのギターは骨の髄まで響く、重たくも心地良い音色で好きだった。  その男に、壱流が泣かされる。 (……あ、妄想が暴走)  今ここでしてはいけないようなディープな妄想をしてしまって、瀬尾はすぐに我に返る。何を考えているのだ。壱流は妻子持ちだ。今うっかり考えてしまったようなことが、あるはずもない。  きっとたまに音楽的なことで衝突したりもするのだろう。そんな関係で、さっきまふゆが言ったような展開になることも、なきにしもあらずだ。多分。 「ねーママ、ピアノ弾いてきてもいい?」 「蓋に指挟まないようにね」  まひるの手が小さな頭を撫でた。その手からすり抜けるように椅子から立ち上がり、まふゆはたかたかと走り出す。程なくして別の部屋から聞こえてきたピアノの音に耳を傾け、あの年にしては随分上手だな、と瀬尾は感心した。ピアノを習ってどれくらい経つのだろう。 「結構上手に弾けてるでしょう?」 「そうですねえ。……それに、興味が持てることがあるのは良いですし、伸ばしてあげたらいいんじゃないでしょうか」 「頑張って上手になって、自分のピアノで壱流に歌って欲しいんだって」  くすりと笑んだまひるにつられ、瀬尾も笑った。  瀬尾が帰ったあと、まひるはピアノの音が途絶えない部屋に足を向けた。黒光りするアップライトピアノは、去年壱流が買ってくれたもので、今のところ竜司の影響で興味を持ったギターには触れていない。  まひるが来ても止まらない手は、まだ小さい。それでも頑張って譜面を追う目が、指先に落ちることはない。 「瀬尾先生帰ったよ」 「なんのお話したの? ママ」 「まふゆのこと、いろいろよろしくねって。……ねえまふゆ。ママや壱流たち以外に、ああいうこと言っちゃ駄目よ」 「なにを?」  まふゆは手を止めて、ピアノの横に置かれたソファに座るまひるを見た。何を駄目出しされたのかわかっていない表情だ。 「壱流、泣いてたの?」 「……前に聞こえたから。そのあとは普通だったから、仲直りしたのかなって。竜ちゃんに聞いたら、そうだよって。大切なパパ泣かせてごめんなーって」  うーん、とまひるは考え込むように眉間の辺りをこつこつと指で叩いてから、天を仰いだ。 (それって、泣いてたわけ?)  もしかして、違うシチュエーションだったりしないだろうか。  まふゆは相手のOKがなければ絶対にドアを開けたりしない。何か怪しげな展開になっていた時に、ドアの外にまふゆがいたとしたらどうだろう。  その雰囲気にノックを躊躇って、引き返す。 (頭いたーい)  困ったものだ。壱流は竜司限定のセックス依存症と言っても過言ではない。まふゆの前で竜司とべたべたすることはないが、ドア一枚隔てたらすることはしている。 「……ねーまふゆ。泣かされちゃう壱流、どう思う?」 「ん? んー……」  まふゆは静かにピアノの蓋を閉じて、椅子から下りる。ソファまでやってきて、じゃれるようにまひるにくっついた。 「血の匂いがしなければいい」  唐突に核心を突かれた気がして、まひるは一瞬目を見開いた。  子供は結構、細かいところを見ている。  最近壱流から血の匂いがすることはあまりないが、まふゆが生まれてからも何度か手首を切る機会はあった。それを覚えているのだろう、と思う。  不用意な摩擦が生じないように、竜司が工夫していろいろしてくれているのは知っているが、それでもたまにお互いの気持ちや価値観にズレが生まれる。おのずとストレスが溜まって、壱流の手首に傷が増える。ピアスの数が増える方がまだしもだ。  なるべくならまふゆの為にもリスカなんてしてほしくなかった。教育上良くないのはわかりきっている。  ベッドシーン見られるより、良くない。 (いや、どっちもどっちだけど)  自傷癖のある、竜司なしでは生きられない男。  父親としてはだいぶ問題がある。  そういうのもあって、一緒に住むことはない。食事の時とその前後だけ、一緒の空間で過ごす。たまにまひるのベッドで寝ることもあるが、今は竜司が壱流大好きオーラ全開なので、週に一度くらいしかそういうのはない。  別に寂しくはない。  血の匂いがしなければ、それでいい。 (……そのとおりだなあ、ほんと)  随分とおおらかな女になったものだと、まひるは少し呆れた。 「ママのことも、大好き」  自嘲気味で考え込んでいるまひるに、真っ黒い瞳を向けてまふゆが微笑んだ。壱流に似た、綺麗な目。 「……ママも、まふゆが大好き」  考えても仕方なかった。  今に始まったことではないのだから。嫌ならとっくに、ここにはいない。 「何が一回だ……」  疲れた声で、ベッドにくたりと横になりながら壱流が呟いた。  恐らく瀬尾はとっくに帰っただろう。時間的にはそろそろ夕食だからと呼ばれる頃合だ。いつまでもこんな乱れた恰好でいるわけにはいかない。 「壱流は二回かもしれないけど、俺的には一回」 「人を早漏みたいに言うな」 「言ってねえだろ別に」  すっかり服を着てギターを弄り始めている竜司を恨めしく見る。なんでこんなに元気なのだ。 「壱流、風呂入ってくれば?」 「次からそういうのは始める前に言ってくれ」  結局風呂に入る前からいろいろされてしまった。デリカシーのかけらもない。思い出してちょっとむっとする。 「済んだことをぐだぐだ言うのは男らしくねえぞ。ほら、頑張って起きる。ごはんーって言われる前に入ってこいよ」  苦笑いした竜司から顔を背け、壱流は立ち上がった。一応服を着て、ドアを開ける。風呂に入るからと言って裸のまま部屋を出るのは、時間的に良くない。 (まひるは先生と家庭訪問やってるってのに、俺は竜司と何やってんだか)  裸足で廊下を歩きながら、少し自己嫌悪した。  まふゆは壱流を名前で呼ぶ。まひるのことはママと呼ぶのに、壱流のことはずっと壱流だ。確かに父親らしいことはあまりしていないが、もしかしたら隣に住む親しい人間的な位置づけだったりしたらどうしよう。  そんなことを考えていたら、玄関の方で気配がした。 (うわ、すごいタイミング……)  服を着ていて本当に良かった。  そちらの方を覗き込むと、まふゆが靴を脱いでいるところだった。バスタオルを握っている壱流を確認すると、「お風呂?」と可愛らしい声でやってくる。 「……ああ。先生、帰ったのか?」 「うん。お風呂、まふゆも一緒に入っていい?」  壱流は目立つキスマークなどなかったろうかと反芻したが、まあ少しくらいいいかと、やがてまふゆの頭を撫でた。 「着替え持っておいで。お湯、ためておくから」  にこにこっと笑んだまふゆは、嬉しそうに玄関へ引き返していった。  とりあえず、まふゆが戻ってくる前にざっと体を洗ってしまおう。娘と風呂に入るのに精液の匂いとかしたら嫌だし、あと数年もすればきっと、一緒に入るなどとは言わなくなる。今が良ければ父親だろうが隣人だろうが、構わない。  くだらないことを考えながら浴室でシャワーを捻った。  熱いお湯が壱流の肌を伝い、排水溝に流れていった。   終

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