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第16話①

震える右手にカッターを持ち、左手首に刃をそわせる。 耐えがたい恐怖に襲われるのに、どうしてか止めることができない。 左手首を少しひねると赤い線がうっすらと浮かんで、今度はそれを引っ掻きたくなったけれど、どうにか抑えた。 代わりに首に両手を添え、思いっきり締め付ける。 「…っ、はぁっ…、はぁっ…!」 視界が涙で滲み、反射的に開いた口からは唾液が溢れる。 ぴぴぴ、アラームが鳴った。 「学校行かなきゃ…。」 顔を洗って、手首には肌色の絆創膏を貼り、その上から由良さんにもらった時計をつける。 そしてリュックに授業テキストを入れ、菓子パンを口に詰め込んで、よろめきながら外に出た。 Sub性が満たされないと、自傷衝動や体調不良が誘発されると言うが、本当らしい。 由良さんと別れて3週間経ったあたりから症状が顕著に出始めて、はじめはなんとか抑え込んだが、土日に入って人と会うことが無くなり、衝動が抑えきれなくなった。 恐ろしいことに、自傷行為を行うとSub性が満たされたように錯覚してしまう。 大学までの二駅でさえ、自分の手の甲に爪を立てていないと落ち着かなかった。 この状態が続くのは良くないとわかっているし、いっそまた由良さんと出会う前のようにクラブに行って行きずりの相手とプレイした方がいいのもわかっている。 わかっているけれど、俺はそれをしない。 だって、せめて由良さん以外の人間に従いたくないという、この一生消えないであろう自分の気持ちを、俺は大切に生きていきたいと願うから。 たとえそれで自分の身体が傷ついても、自分でその道を選んだのだから、後悔はしない。 「おはよ、幹斗。」 講義室に着くと、俺より先に来ていた東弥が爽やかに挨拶してくれた。相変わらずのキラキラ具合だ。日陰の俺にはちょっと眩しすぎる。 「おはよ。」 友達の前ではちゃんとしないと。 ふらふらの足を踏ん張り、なんとか東弥の後ろに座る。 「あれ、今日はここじゃないの?」 東弥が自分の隣の席を指差して首をかしげた。 「うん、ちょっとね。」 谷津と東弥に挟まれてそこに座るのがいつもの俺の定位置なのだが、流石に授業中ずっと隣にいたら様子がおかしいと心配されるかもしれないので、今日は座らない。 「そっか。」 簡素な返事をして、東弥はなぜだか俺の方にゆっくりと手を差し述べた。 不思議に思って様子を伺っていると、彼は突然立ち上がり、親指と人差し指で俺の顎を掴み、ぐいっと上に向ける。 「…?」 何かついていただろうか。歯磨き粉とか。 「顔色悪いね。大丈夫?」 そう言った東弥の表情は、憂いを帯び、少ししかめられていた。 「大丈夫。ちょっと寝不足。」 「本当に?」 「…うん。」 東弥は”そっか”、と今度は少しため息混じりに言って、前を向く。 「幹斗、東弥おはよーっ!!...って、幹斗顔色悪くない?もしかして昨日課題終わらなくて徹夜とか?俺と一緒ーっ!!」 しばらく経って谷津がやってきて、いつものようにテンション高く言った後、どちらの隣に座るか迷うように俺と東弥を交互に見て、結局東弥の隣に座った。 チャイムが鳴り、授業が始まる。 教授の声、板書の音、後ろから少しだけ聞こえるざわついた声。いつもの光景。 何も変わっていないのに、由良さんといられないという事実を考えただけで、世界に自分1人が取り残されたみたいな、途方もない空虚に襲われた。

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