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0話 真相 後編

 どれほどの時間をそうして過ごしたのか。  自分の立てる音を封じ込めることに必死になり過ぎるあまり、僕は隙間から射し込む光が大きくなっていたことに気がつかなかった。  扉が、開いている。指一本をそこから出すことができるかどうかといった程度の、開きだ。  外は僅かばかり白んできたような気がする。音は、ない。  獣の爪音も、誰かが身動ぐ音も、ないんだ。  扉を押してみる。なにかが引っかかっていて、開かない。  なにかだなんて、言ってはいけないね。引っかかっているのは、扉を塞いでいたのは、間違いなく……。 「く、う……!」  下唇を噛んで、扉に肩をつける。縋りつくようにして体重をかけ、すこしずつすこしずつ押していった。  広がった隙間から片腕を出す。地面に手をついてみると、ぱしゃんと濡れた音がした。冷たく、少々ぬめりのある感覚とともに。  肩で隙間を広げながら、頭を出す。  僕の手は赤色の水溜りに半ばほど浸かってしまっていた。 「あ、あ……」  顔を上げて最初に口をついたのは、気が抜けたような、そんな音を伴う吐息。  そこは、まさに血の海だった。  みんなが、僕よりもずっと大人の人たちが、血の海に横たわっている。  こんなにたくさんの人々が僕を護るために死んだのか。命を投げ打ったのか。  そう思うと、血溜まりについた手から力が抜けていきそうだった。  身体を捻じ込み、物入れから這い出る。ボトムスが吸い込んだ血は、ずしりと重く感じた。  重い。本当に、重い。  大切な人々の命で護られてしまったこの身体は、僕の精神にはあまりに重すぎる。  扉を塞いでいたのは、いかにも屈強そうな外見のゲールさんだった。  手足を投げ出し、その大きな背中を凭れさせて、扉が開かないようにしてくれていた。  きっと、彼だけではなかったのだろう。  物入れは見事なまでに真っ赤に染まりきり、覆いかぶさっていたのではないかと思われる体勢の人が何人かいた。  彼女も、その一人だった。 「あ、あ……。ああ……、ああっ……!!」  横向きになって血の海に浸るマリベルさん。  僕は彼女に駆け寄り、すぐに脈を確かめた。脈動は、なかった。  血溜まりに両手を浸し、血を掬う。マリベルさんの傷は無数にあったが、なかでも首のものが一番大きそうに思えた。そこへ、僕は一心不乱に血をかける。  手で掬って、何度も何度も傷口に押し込んで。砂も他の人の血も混ざってしまっている上に、こんなことをしたところで体内に血は戻らないとわかっていても、どうしてもなんとかしたかった。  なぜなら、彼女は。 「マリベル、さん……っ」  彼女は、言ったんだ。  物入れの扉を閉める瞬間に、下を向いて。自分のお腹を見つめて。  『ママを、許してね』と。 「マリベルさん……! だめだ、だめだ……。マリベルさん……!」  僕じゃない。僕なんかじゃない。あなたのお腹には、街の未来があった。  本当の、未来が。  新たな、命が。  ああ、ああ。気が付かなかった。知らなかった。  マリベルさんが、母親になっていただなんて。  生命を宿した彼女が、僕などのために犠牲になるなんて。  そんなのは、あってはならない。 「ああ……、ぅあ、あ……!! マリベル、さん……!」  マリベルさんは、動かない。  目を閉じて、血の海に身を委ねたままだ。僕の行動は、彼女の頸部を更に汚しただけ。 「ぼ、くは、違うんだ……」  僕は街の未来などではない。  あなたこそが、あなたたち、領の民がいるから、街は活きるのだ。  僕は、あなた方を導きたかった。護りたかった。  街そのものであるあなた方を、護りたかったのに。 「ごめんなざい……」  赤く濡れた石畳に膝をつき、両手をついた。  顔も、髪も、なにもかもを地につけても構わないと思った。  僕には力がない。ただの、非力な若者にすぎない。  それを詫びなければならないと。彼らの思うような輝かしい人間ではないのだと。  上擦り、喉に張り付く声を剥がしながら、僕は謝罪の言葉を述べていた。  マリベルさんの腹部に触れることはできなかった。  どうしても、できなかった。  血の海を這いまわったことで、僕の身体は一層重さを増した気がする。  立ち上がり、歩き出すと、自分でも驚くほどに足がおぼつかない。  本当に、本当に、なんと重い身体なのだろう。  嘆息するように呼吸をすると、濃厚な鉄の味がする。  僕の手は、ずっと赤いままだ。  この手は、一体何人の血で染まったのだろう。  ロメルさん、レイティくん、マリベルさん、ゲールさん……。だめだ。数え始めると、足が崩れ落ちてしまいそうになる。 「だ、れか……。だれか……」  誰か。誰かの顔が見たい。  この地獄は夢だと、誰か言ってください。  かつての平和さは見る影もない噴水広場。こんなものは、悪い夢だ。  そう、誰かに言って欲しかった。  みし、みし、と心が軋む。  そんな幻聴すら、聴こえてきてしまう。  夜闇が薄まった世界は、僕の願いを嘲笑うかのようだった。  これからもっと見えてくるぞ。太陽が顔を覗かせれば、残酷な現実がもっともっと鮮明に見えてくるぞ。まるで、そう言っているかのような。  緩慢な動作で、首を動かす。  屋敷へ続く通りの並木は、ずたずただ。細いものは悉く折れてしまっている。  そのなかで、僕はふと、黒い毛が折れた枝に付着していることに気がついた。一本二本などではなく、塊で。  人の髪ではないと思う。もっと細く、柔らかそうに見えるからだ。獣が引っ掛けたのだろう。  屋敷へ続く道に、目を向ける。  すると、薄暗い世界のなかに、誰かが座っているのが見えた。  僕はすぐさま駆け出した。靴のなかまで血みどろで、べしゃべしゃと濡れた足音が立った。  近づいていくと、項垂れた黒色の頭が見える。  弟の親友だ。 「ジェイク! ジェイク!! 大丈夫かい!? 立てるかい!?」  彼のすぐ隣に屈み、がっしりとした腕を掴む。 「肩を貸そう! 怪我は!?」  ジェイクは立とうとしない。彼の背中にまわした腕がひどくすべり、僕もまた思うように彼を支えることができない。  恐らく、彼は大怪我をして動けないのだ。下手に動かすと危険かもしれない。  そう考え、一度怪我の程度を確認した方がいいと思い直し、腕を離す。  ジェイクはなにも言わずに、ただ俯いていた。 「大丈夫かい……? 僕の声が、聞こえるかい?」  彼の心を考えると、顔を覗き込むのは失礼だとは思った。  しかし、僕はどうしても彼の顔が見たくて。生きている人の顔が、見たくて。  自分が安心したいがために、傷の程度を確認するのだと言い訳をつけて、そっと、彼の顔を窺い見たんだ。 「ジェイク……?」  陰になり、なかなかに窺うことができない彼の表情。  その睫毛が揺れないことにどうしようもなく不安になり、僕は震える手で、彼の頬に触れた。  ゆっくり、ゆっくりと、顔を上げさせる。  抵抗がないことが、恐ろしくてたまらない。  彼の前髪を、風が揺らした。  僕に両頬を挟まれ、薄闇のなかで顔を晒した彼は──。 「っ…………」  薄く目を開いたまま、表情を失っていた。  ああ、ああ。瞳に、光がない。  目があわない。視線を返してくれない。  恐る恐る触れた胸部からは、生命を打つ鼓動が感じられなかった。静寂を、保っていた。  無意識に後退(あとずさ)ると、僕の手からジェイクが落ち、力なく項垂れる格好に戻ってしまう。  ああ、僕は、一体なにを見ていたのだろう。  薄闇がすこしずつ、晴れていく。夜の帳が、薄まっていく。  彼は、血の湖の中央に座していた。あまりに血の色を見続けていて、そんなことにも気付かなかった。彼の身体から流れた、血の泉の存在に。  そして、彼が座り込んでいるのがマディール邸のすぐ手前であることにも。  屋敷に入ろうとして襲われてしまったのか。辿り着けなかったのか。  一瞬そう考え、胸が凍るような気持ちになったが、なにかが違うと考えを改めた。  ジェイクの姿は、逃げて力尽きたようには見えなかったのだ。  それに、玄関に続く短い階段には、汚れが見受けられない。両開きの玄関扉には、爪痕ひとつない。  まさか、とは思う。たまたまだと考えるのが妥当なはずだ。  しかし、辿り着いてしまった仮説があまりにも彼らしくて。  地面に落ちている、僅かな血と獣の毛が付着した木の枝が、その答えに思えてならなくて。 「リタを、護ろうとしたのかい……?」  屋敷に、獣たちを入れまいと?  こんな、武器にもならなさそうな枝で、戦ったのかい?  彼は、答えない。  ゆるく腕を開いて。まるで、まるで……、通せんぼをしていたかのような、格好をして。 「──……!」  なにを言えばいいのか、わからなかった。  喉から飛び出した息も、音も、なんと形容したらいいのかわからない。  ただ、息が苦しくて。  脳が処理しきれない感情が、喉と胸のあいだでぐじゃぐじゃに絡み凝って。  気が付けば、自身の胸を押さえて蹲っていた。 「あ、あああ……」  細く、高く、情けない声が唇から漏れていく。 「…………れか」 「あああ……」  彼は、人を護って死んだ。  僕は、護られて生きた。  僕は、僕は──。 「……れか、いま……か……」  僕の思考が止まった。  幻聴……。そうだ、幻聴かもしれない。  人の声。声がする。細い、細い声。  風に乗って、ほんの微かな、人の声が……。  ああ、でも、違う。きっと違う。  なぜって、これが勘違いだったら、僕は立ち直れない。  僕の頭が、勝手にあの子の声を再現しているに違いないんだ。  そう思っているはずなのに、僕の足は立ち上がって、後ろを向く。  どくどく、どくどくと心臓が脈を打ち、手足が勝手に駆け始める。 「だれか……! だれか、いませんか……!」  口が、喉が、舌が、あらんかぎりの声を放とうとする。 「ミィナ……! ミィナッ!!」  見るも無惨な姿になった噴水広場に駆け込み、辺りを見回す。  幻聴などではない。確かに聞こえた。幼馴染が、泣きそうな声で人を呼んでいる。 「ミィナ、どこだい!? 僕だ! エミリアだよ! 無事かい!?」  こんなにも早口になって声を張りあげるのは、初めてかもしれなかった。 「エミリア、さま……?」  涙に濡れた声の方向へと、僕は即座に身体を向けた。  すると彼女は街壁の陰から顔を出し、僕を見て、びくりと肩を震わせた。  無理もない。僕は今、血に濡れた凄まじい姿をしているのだろう。おそらく、顔まで血塗れのはずだ。 「どうか怖がらないで……! いま、いま、血を流すから……!」  本当に僕がエミリア・マディールなのかを疑われているような気がして、僕は急いで噴水へと手を伸ばした。  瓦礫に溜まった水へ手をつけると、透明だった水があっという間に赤褐色に染まってしまう。水中で擦りあわせると、この手についた血の持ち主たちの顔がよぎって、表情が歪んでしまいそうだった。 「け、怪我を、しているの……?」  彼女の足音が鳴る。おずおずと踏み出した一歩をあらわすそれは、砂と石畳が擦れる音だった。 「これは、僕の血ではないんだ……。僕を護ってくれた……、僕が護れなかった、みんなのもの……」  赤く濁った水から手を抜くと、まるで病人のような色の肌があらわれる。僕の手は、こんなにも生白かっただろうか。  そんな見るからに非力そうな手に水を受け、ぱしゃりと顔にかけた。 「僕は、みんなに生かしてもらったんだ……」  ミィナに届くかどうかもわからないほど小さな声で呟き、顔を向ける。  すると彼女はほっとしたように肩の力を抜いて、歩み寄る足を速めたようだった。  一応、もう一度水を掬って顔を洗う。  自分の立てる水音に混ざって、彼女が瓦礫を踏むパキパキという音がした。 「……僕は、誰も護れなかった。無力だったよ……」  次々と失われていく大切な人々。  真っ赤に染まった、街。  ああ、絶望するとはこのことかと、身をもって痛感させられた。  そんななかで彼女の声を聞いたとき、僕は本当に……、本当に、心から安堵した。光だと思った。 「よかった……。君が、生きていて……。本当に、よかった……」  地獄に射した一筋の光だと。  パンドラの箱に残った希望だと。  僕は本気で、彼女のことをそう思ったんだよ。  パキパキ、ミシミシと音がする。  こんな状況で笑むなんておかしなことだとわかっていても、とても嬉しくて。  自身の手のひらを見つめる目が細まり、曖昧に微笑むのを自覚しながら、僕は再び彼女に顔を向けた。  ミィナは涙ぐみ、しかしながら、僕と同じように安堵を瞳ににじませて歩んでくる。  空気が音とともに揺れたのは、そのときだった。 「危ない! ミィナ!!」  反射的に声を張り上げ、僕はすぐさま走り出した。  木々が一斉にざわめき出したような悲鳴を上げ、彼女ははっとしたように後ろを振り返る。  止まってはいけない! 走って! 走るんだ!!  そう、僕は叫んだつもりだった。  ちゃんとそれが彼女の耳に届いたのか。ちゃんとそれは明確に言葉になっていたのか。  ミィナの背後にある大木が立てたミシミシバキバキという巨音に紛れて、僕には判断が付かなかった。 「ミィナッッ!!」  手をのばす。必死に、地面を蹴る。  怪物の爪で抉られた木。それがミシミシと音を立てて、彼女の方へと倒れていく。  大木が悲鳴をあげている。彼女も、僕も。  一瞬、すべてがスローモーションに見えた。ミィナが、巨木の下敷きになる、その瞬間まで。 「そんな……!! ああ、そんな、そんな……!!」  砂煙が舞う。木の葉が舞う。  それらを払いのけて、僕は彼女に駆け寄った。 「あああ、う……。うあ、あ……っ」  彼女はうつ伏せになり、指で地面を掻いていた。  目を見開き、眉根を寄せて、ひどく苦しげな唸り声を漏らしている。 「ミィナ、ミィナ! しっかり……!! 今、助けるから……!」  彼女の背中と十字になるように倒れた大木。その下に手を差し込んで、僕はすぐに救出を試みた。  しかし、僕の腕でも抱えきれないほどの太い幹をもつそれは、あまりにも重かった。僕の非力な腕力では一ミリたりとも動いてくれない。  どんなに力を込めても、持ち上げることも転がすこともできそうにないのだ。 「誰か! 誰かいませんか!! 手を貸してくださいっ! 誰か!!」  諦めない。諦めてたまるものか。  辺りを見回し、なにか棒状のものがないかと探す。地面と木のあいだに入れて作用させれば、大木を動かすことができるかもしれない。  そう考えたが、良い具合の棒は見当たらなかった。  それに、大木の幹から伸びる太々とした枝。これがひっかかって、やはり転がすことは難しそうだ。  ああ、ああ……。  苦しんでいる。ミィナが、とてもとても苦しんでいる。  助けたい。助けてあげたい。死なせたくない。 「誰かッッ!!」  僕は大声で助けを呼んだ。  誰でもいい。誰でもいいから、彼女を助けてください。  大切な幼馴染なんだ。一緒に育って生きてきた、僕の……。  弟の、大切な人なんだ。  誰か。お願いです。誰か。  力を、貸してください……。助けて……。 「あ、ぁ……」  魂をも吐き出してしまいそうな、弱々しい吐息。  痛苦にあえいでいたミィナの表情が、虚ろなものへと変わっていく。 「だ、だめだ! 意識を手放してはいけない! しっかり、しっかり……!! 誰かッ! 誰かいませんかッ!!」  僕の叫びは凄惨な街にむなしく響いただけで、人はおろか、怪物すらやってこなかった。  大木を押す。持ち上げようとする。  早く、早く。助けないと。木をどかさないと。  そうしているうちにも、彼女は命の灯火を小さくしていってしまう。 「リ、タ……ぁ……」  彼女の指が、さり、と地面を掻いた。  それ以降、彼女は声を発さなくなってしまった。  唸らない。動かない。  地に落ちたお下げ髪すら、そのままにして。 「ミ、ィナ……?」  震える唇で、彼女の名前を紡ぐ。  応える声はない。誰も、来ない。  ミィナの手に触れ、肩に触れ、そっと揺する。  異様に感覚が鈍くなった指をお下げ髪の下に潜らせて、頸動脈を探した。  ああ、冷えて、霞んでいくみたいだ。世界が、頭が。  いくら指を這わせても、脈動が見つけられない。ミィナは、動かない。  僕が踏んでいる地面が、急に硬さを失っていく。  ふわふわして、ひどく安定しない。まるで巨大な焼き菓子の上に乗せられているようだ。  立ち上がり、歩く。  大木の頭をまわり込み、西の方向へと。 「誰か……。だれか……」  幽霊のような声だ。生き延びた誰かの声だと思ったが、それは僕自身の声だった。  赤い。真っ赤な、みち。  鉄臭くて、生臭い。異臭の満ちた、街。  人はいた。力なく横たわり、衣服を真っ赤に染め上げた街のみんなが。  たくさん、たくさんいた。  時折、光のない目をこちらに向けている人がいる。それが、恨めしそうに思えてならない。  『どうしてお前が生きている?』  そう言われているような気がして、ならない。  わからない。わからないんです。  ああ、どうしよう。僕は、どうしたらいい。  助けてください。導いてください。  誰か。誰か……。  父さん……。僕の進むべき道を、教えてください……。  母さん……。神さま……。  ふにゃふにゃの地面を歩き、街のはずれへと向かう。  ひらけた場所から吹きつける風が、花びらを連れて舞い上がっていった。  朝陽に照らされた花畑は、もうすぐ見頃を迎える時期だったはずだ。  白く、うつくしい花々。  生命の息吹を感じさせる若い緑。  無惨に散らされていてもうつくしい場所に、僕は自分と同じ色の髪を見た。 「とう、さん……?」  すぐ近くには、優しかった母の姿もある。  二人は、動かない。 「かあ、さ……!」  動けるはずがない。  なぜって、父には足がなかった。下半身が、丸々なくなっている。  母は左肩から胸までが、ごっそりと。  夥しい血が花畑を真っ赤に染めて、僕の足下まで流れてくるかのようだった。  手が、震える。  足が、竦む。  けれど視界だけが異様にクリアで。  見たくない現実だけが、鮮明に僕の目に映るのだった。 「あ……、あ、あぁ…………」  僕の生白い手が、無意識に両方のこめかみを抱える。  心が、破裂しそうだ。  なにに? 悲しみ? 苦しみ? わからない。  ただ、僕だけが生き残ってしまった現実が、僕の心をガタガタにする。  ああ、ああ。もう、だめだ。  父さん。母さん。ミィナ。  ジェイク。マリベルさん。護るべき、街の人たち。  僕は、全てを。  全てを失ってしまった。 「ああああああぁぁァァアアッッ!!」  僕の喉から迸る絶叫。  それは、街のみんなが放っていた死に際の悲鳴に酷似していて。  ああ……。僕の中で、なにかが壊れていく。崩れていく。  パリンと。あるいは、ボロボロと。  なんだろう。とても、大切なもののような気がする。  気はするのだけど、なんだか、どうでもよくなってきて──。 「あぁ、そうだ……」  指先から力が抜けていく。たらり、と腕を落とせば、ふわふわとした高揚感に、つつまれる。 「そんなものより、ずっと大切なものが、あったじゃないか……」  そうだ。僕には、なにより大切な弟がいる。  あぁ、まだ、僕は全てを失ってはいない。  うん……? すべて? すべてとは、なに? 「あぁ……。リィタァ……。君こそが、僕の全てだったね……」  僕の、可愛い弟。血肉をわけた、たった一人の。  僕には、リタさえいればいい。  ああ、そうだよ。リタ。リタ。  リタにはもう、僕しかいない。  だって、誰もいないのだよ?  僕だけ。僕だけが、リタのそばに居ることができる。  ほかの誰でもない、この僕だけ……。  僕だけの、リタ──。 「ふふっ……。ふふふっ……」  なんて、素敵な響きなのだろう。 「僕だけ……。僕だけの、リタ……」  口内で転がし、唇にそっと乗せたその言葉は、驚くほど舌触りがいい。甘美な、言葉だね。  あぁー、リタ。君に会いたい。君の全てを手にしたい。  愛しいよ。愛しくて愛しくて、あぁ、頭がぐちゃぐちゃになってしまいそうだ。  そうか、そうなんだね?  これが、人を愛するということなんだね?  こんなにも胸が焦がれたことはないよ。  ああ、会いたい。会いたいよ。  リタ、リタ、リタ。  可愛い僕の弟。僕の半身。  僕の、稀有なる光──。  白花が咲く花畑で、僕は天を仰いだ。  朝がやってきたよ。リタ。  暗く淀んだ世界が終わり、新しい世界が幕をあける。  僕もね、生まれ変わったような気持ちだよ。なんて素晴らしい朝なのだろう。  見える世界がね、今までとはまったく違うんだ。  けれど、僕が見たいものはここにはない。僕がこの目に映したいのは、君だけなんだ──。  花を踏み、歩き出す。  ああ、心が跳ねるようだよ。弟に会いにいくというだけでね。おかしいかい?  そう、なにもおかしくはない。なぜなら、僕の胸はこんなにも愛おしさであふれているのだから。  花畑から街へ戻り、石畳を踏むと、建物のあいだを抜けてきた風が僕の髪を揺らした。  頬にあたる感触は固く、爪で薄くひっかかれているような不快感を感じる。摘んで見てみると、赤茶けたものがべっとりと付着して髪を固めていた。  そのまま視線を下げてみれば、僕の格好たるや、ひどいものだ。こんなに汚れた姿では、君に会いに行けないね。  君を愛するに相応しい男でいなくてはね。そうだろう?  街を歩くと、太陽とは違う明かりが見えてくる。赤や黄、橙に揺らめく輝きだ。  煌々と空に立ち昇るそれは、太陽に負けじと世界を照らしているね。  ほら、ごらん? 火だよ。聖なる炎が燃えている。  愛の気付きを祝福するように。  君へと続く道を、神が照らしてくださっているんだ。 「なんて、うつくしいのだろう……」  さあ、踏み出そう。  炎に祝福された、赤き道を。  リタ。今日は素晴らしい日だね。  全てが僕らを祝ってくれているよ。  ああ。愛しい。愛とはなんて素晴らしいものなんだい? 胸から歓喜があふれて、僕は今にも歌い出しそうだ。  リタ。リタ。  今行くよ。  真っ赤に染まった異臭のする街を歩いて、僕らの愛の住処へ。 「君と愛し合うその瞬間が、待ちきれないよ。リタ……」  愛しているよ。リタ。  僕の可愛い弟。僕だけの君。  僕に残された、最後の──。 「僕が君を、護るからね──」  必ず、護るから……。  僕のなかで、ひどく弱々しいものがそう呟き、消えた。   0話 真相 完

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