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0話 真相 中編

 階段を駆け下り、勢い良く扉を開けて、外へ。  噴水広場に続く並木通りを駆け、僕は声を張った。 「大丈夫ですか! 一体、なにがあったのですか!」  僕の視線の先では、女性が一人座り込んでいる。数年前に都会から嫁いできた、服屋のシェーラさんだ。彼女は呆然と虚空を見つめていて、品のあるドレスの裾がぐちゃぐちゃに汚れていることにも気が付いていない様子だった。衣装を汚すことがとても嫌いな人だったはずなのに。 「シェーラさん! しっかり! しっかりしてください。僕がわかりますか? 大丈夫ですか?」  前に回り込み、目線をあわせてもう一度声をかける。  すると、シェーラさんの瞳が大きく揺らぎ、我を取り戻したかのように焦点があわせられた。 「エ、エミっ……! エミッ、エミリ……ッ!」  途端にがたがたを震えだす彼女。カチカチガチガチと歯がぶつかる音が鳴り、言葉を紡ぎきれないまま、唇をあけたり閉めたりを繰り返している。 「立てますか? さあ、僕に掴まって。ベンチに座りましょう」  ひどくおぼつかない足取りのシェーラさんを導き、地面に散らばる化粧道具を拾う。微かな砂土の汚れを払って差し出したが、彼女は目を見開いて震え、自身の身体を抱きしめたままで、受け取ろうとはしなかった。 「大丈夫。大丈夫です。落ち着いて。呼吸をしましょう。吸って……。そうです。ゆっくり吐いて」  指が腕に食い込むほど力が入ってしまっている彼女の手に触れ、目線をあわせて、僕も見本を見せるように呼吸をする。  彼女の歯の隙間から漏れる息が平穏さをとり戻すまでそれを繰り返し、なにが起こったのかをもう一度問おうとしたときだった。 「キャアアアアッ!!」  東に伸びる道の向こうから響いてきた悲鳴。 「失礼!」  僕はすぐさま立ち上がり、声の方向へと走った。  石畳を靴裏で蹴り、がむしゃらに足を動かす。僕の足は急く気持ちに応えてはくれず、あまり速くはない。それが、とてもとてももどかしかった。  夜の帳を晴らす街灯の光を頼りに、目を凝らす。  最初に僕が息を飲んだのは、石畳の色が変わっている場所があることに気が付いた時だった。  光の届かない薄暗い場所から、どす黒さが広がってくる。それは石畳の溝をつたい、音を立てずに街灯に照らされた場所へと流れてくるのだ。  見事なまでに、真っ赤な血液が。  僕の身体がこわばり、足がとまる。反射的に顔を上げて地面に向けていた視線を道の向こうに移したのは、微かな物音を耳に捉えたからだ。  チャッ、チャッ。  石を軽やかに爪弾くような音とともに、それはあらわれた。  黒……。そう、黒い躯体だ。正確には違うのかもしれないが、夜闇が蔓延るこの暗さでは、そう見える。  四つ脚で歩き、豊かな毛が生えた尾を揺らし、三角型をした耳をピンと立て。獣は、口に咥えていたものをどさりと下ろした。  そうしたことではっきりと見えるようになった面形(おもかた)は、僕の記憶にある動物と似ている。  長く、スタイリッシュな鼻面。  つぶらな眼。しかし、暗闇で光るそれはどこか獰猛さがあって、僕の息が自然と潜められていく。 (犬……。いや、違う。狼……?)  動物好きな街の人が飼っている犬とは、姿勢と顔つきが違っていた。それに、なんと言っても、大きい。恐らく、獣の体長は僕の身長とそう変わらないだろう。  ふいに、獣が頤を下げた。そうして、自らがおろしたものを咥えたかと思うと──。 「ッ……!」  ぶんぶんと激しく頭を左右に振って振り回し、液体めいたものを飛び散らせた。僕の元まで飛んできたそれは目の下にあたり、ひどく不快な感覚を生み出す。  指先で拭い、一瞬だけ獣から目を逸らして確認する。赤く、ぬるりとした液体だった。 「うああああッッ!! この野郎ッ! この野郎オオオオ!!」  揺れ、割れた音で叫ばれた声。  これは、父や母とともに走りさったロメルさんの声だ。彼は雄叫びをあげ、斧と思しきものを振り上げてまっすぐに獣へと向かっていく。 「ロメルさん! いけない! 危険で……」 「レイティーーッ!!」  悲痛なまでに揺れた叫びが、夜の空気を揺らす。僕の心を、揺らす。  獣は頭を振っていた勢いのままに咥えていた獲物を離し、ロメルさんに向かって走り出した。  放物線を描く、その子。  僕の方へと落ちてきた、男の子。 「レイ、ティ……、くん……?」  ロメルさんの一人息子である、まだ小さな彼。  光の宿らない目で僕を見つめる彼は、全身を真っ赤に染めた上に、左腕をおかしな方向に曲げていた。  身体も、表情も、ぴくりとも動かさずに。 「────ッッ!!」 「あああァァアああッ!!」  僕が声にならない悲鳴をあげたのと、ロメルさんが声をあげたのは、ほぼ同時だった。 「ロ、ロメルさん!!」  ロメルさんは滂沱の如き涙を流し、口からは叫びを放って、横腹に食らいついた獣に斧を振り下ろしていた。  ギャンッ! と動物らしい鳴き声をあげた獣は、ロメルさんから口を離し、四つ脚を駆使してあっという間に家々の隙間へと走りさっていく。  膝をつき、横倒しになるロメルさんの身体。彼の手から落ちた斧は、重い金属音を響かせて石畳に転がった。 「ロメルさん! ああっ! ロメルさん……っ!!」  駆け寄り、膝をついて傷を窺う。彼の横腹からはとめどなく血が流れ、地面を赤く染めていた。  このままではだめだ。出血がひどすぎる。血を、血をとめないと。圧迫して……、そう、強く圧迫するんだ。 「しっかり……! ロメルさん……!」  パニックを起こしている場合ではない。助けなければ。  唸り、(むせ)ぶロメルさんの傷に手を触れる。あたたかなぬめりを押し戻すように、強く強く圧迫する。 「レイティ……! レイティ……ッ」  破れた服を手繰り寄せて、もっと強く。  しかし、ロメルさんの出血はとまってくれない。布をあっという間にべちゃべちゃにして、僕の指の間からも垂れつたってしまう。  傷口が大きすぎるのだ。 「レイ、ティィィ……!!」  ロメルさんが、手を伸ばす。喉が潰れたような声を出して、レイティくんを呼んでいる。  顔をぐしゃぐしゃに歪めて、声をあげて泣いている。僕よりも遥かに大人の、男性が。  胸のなかがナイフでえぐり回されるようだった。  ロメルさんの血は一向にとまらない。とまる気配すらない。僕の手は、生命が流れ出ているのを如実に感じている。  それなのに、ロメルさんは自分の身体を顧みようとしない。ただ、ただ、息子を呼んで慟哭している。  僕の口内で奥歯が震える。息が止まりそうだ。  傷口を圧迫していた手を離す瞬間は、思わず叫んでしまいそうだった。  ロメルさんは手を伸ばしている。その手の先へと、僕は歩く。冷たい石畳に転がされた、レイティくんのもとへ。  小さな身体の下に手を差し入れると、腕が痙攣でも起こしてしまったかのように震え出した。  彼は、あたたかかった。体温があった。  それなのに、血溜まりに沈みかけている。呼吸がない。瞬きもしない。  抱き上げても、鼓動が感じられない。  身体の震えを無理やり抑え込んで、ロメルさんのもとへと歩きもどる。  ロメルさんは目を見開いて下唇を噛み、唸り泣きながら両手を伸ばしていた。その腕のなかへ、レイティくんの身体をおろす。そっと、そっと。 「レ、イ……ッ!!」  地面に横たわったまま、愛する御子息を抱きしめるロメルさん。  僕は、その姿を見ていることしかできなかった。動くことすら、できなかった。  地面に血溜まりが広がって、ロメルさんの咽び泣きが聞こえなくなるまで。  なにもできなかった。  どこかから響いてくる悲鳴に我をとり戻し、僕は自分の手を見つめた。  真っ赤だ。ロメルさんと、レイティくん。尊い親子の血で、僕の生白かった手は余すところなく濡れている。  二人を、どこかあたたかな場所へ連れて行ってあげたい。こんな硬く冷たい石畳ではなく、もっと柔らかな場所へ。  そう考えて膝を折りかけ、僕は血塗れのこぶしを握り込んだ。  悲鳴が聞こえる。獣の唸りが夜街に響いてくる。  危険はまだ去ってはいない。助けなくてはならない人々がたくさんいる。  僕は、いかなくては。  ジャケットを脱ぎ、せめてすこしでもあたたかいようにとロメルさん親子にかける。僕にできるのは、それが精々だった。  来た道を戻り、僕は声をあげる。  嘆くより、叫ぶより、無力であったことを彼らに詫びるより。先にしなくてはならないことがある。 「シェーラさんッ!」  立ったまま固まってしまっているシェーラさんの手を掴み、そのまま走り抜ける。  僕たちの背後で響く轟音。シェーラさんを背後に庇いつつ、噴水をあいだに挟んで振り向いてみると、彼女に襲いかかってきた巨獣の後ろ姿が見えた。  後脚のみで立つそれは猫背で、黒色の体毛で全身が覆われていた。熊、ではないだろうか。僕にはそう見える。 「エミ、エミリア、さま……! た、助けて……! たす……!」 「シェーラさん。どうかよく聞いてください。マディールの屋敷に地下室があります。玄関から入り、サロンを抜けて、右奥の階段を降りたところです。避難シェルターになっているので、そこに逃げてください」 「シェ、ル……」 「そうです。有事の際に備えて食料も水もあるんです。そこへいけば、安全です」  巨獣から目を離さず、早口で言い切る。  一人でも多く助け、守らないと。そのために、僕はここにいるんだ。  ロメルさん。レイティくん。彼らのように、尊い命が奪われてしまわないために。 「僕があの動物の注意を引きます。その隙に、行ってください」  不吉な赤い色をした眼が、僕らを向く。とてもゆっくりと動き始めたというのに、僕の背筋は妙に粟立って仕方がなかった。  すこしばかり横に歩いて、シェーラさんから距離をとってみる。巨獣の目がちゃんと僕についてくることを確認し、僕は大きく息を吸った。 「行って!」  陽動を兼ねた大声を合図に、甲高い悲鳴をあげて並木通りへ駆けていくシェーラさん。僕の方へと向かって走り出そうとしていた巨獣の目が彼女を向いたため、慌てて石畳のかけらを投げつけた。  かつん、と石同士がぶつかる微かな音が鳴る。僕に視線を戻した巨獣の目が、ぎらりと輝いた気がした。  喉の奥でから怯えた空気が飛び出そうとして、ひゅっと音を立てる。巨獣は頭を低くして、直線的に僕へと向かってくるのだ。  僕とのあいだにある噴水など、なんでもないといわんばかりに。襲ってくるとしても回り込んでくるはずだと思い込んでいた僕にとっては大誤算だった。  硬いものが衝突し合う轟音を響かせ、噴水が破壊される。  瓦礫を纏って突進してくる獣に僕は冷静さを一瞬失って、思わず背中を向けて逃げてしまった。  すかさず追ってくる巨獣──いや、あれはもはや怪物だ。  つんのめった僕の頭上で風を裂く音がする。咄嗟に大木の後ろへ逃げ込むと、怪物の鋭い爪が木を深々と抉り取ってしまった。  大木を回りながら逃げ、強烈な爪痕を目の当たりにして、顔から血の気が引いた。  もしも転びかけなければ、僕はすでに天に召されていたに違いない。  ガリッ、ゴリッと、本当に爪の音なのかと思うくらいにおぞましいひっかき音を立てる怪物。幹越しに見えた(まなこ)は爛々と不吉に輝き、獰猛な口から唾液と唸りを漏らしている。 「いやあああああ──……!!」  睨み合っていた僕らのもとへ、一際大きく響いてきた甲高い悲鳴。  それがシェーラさんのものであることは、先程から彼女の悲鳴を何度も聞いた僕には明らかだった。  ただ、ただ──。  木々の葉をも揺らしかねない声量のそれがぷつりと途切れた理由は、『明らか』ではないことを祈りたかった。  しかし、心と頭を自身で騙そうとすればするほど、下唇が震えてくる。  熱いものが身体の奥からせりあがってきて、吐いてしまいそうだ。 「う、……ふ、く……!」  喉をついた奇妙な声とともに、無理やり飲みくだす。  そうしているあいだにも、熊のような姿をした怪物は僕という獲物を狙って追い回してくるのだ。  あまり走ったり跳んだりといったことが得意ではない僕が奇跡的に逃げ続けていられるのは、きっとこの大木のおかげだ。  永い年月をこの場所で過ごし、街を見守っていた木が、今は僕を護ってくれているのだろう。  しかし、怪物にとってそれは苛立たしいことであるようだ。ちょこまかと逃げる僕や、邪魔をし続ける木に焦れたかのように、怪物は咆哮をあげた。  そうして、四つ脚を地について数歩下がったかと思うと──。  大木に向け、体当たりを繰り出した。  噴水を一撃で破壊する威力をもった衝撃は、枝を揺らし、木の葉をざわつかせ、僕の頭上に物体の雨を降らせる。  堪らず腕で頭を庇いはしたが、目を瞑ってしまうことだけは避けた。獣は俊敏だ。巨大な躯体で、とても軽やかに凶暴に動き回る。鈍足の僕とは比べものにならない。油断は、命取りだ。  想像した通りに、怪物は大木を回り込んで距離を詰めてこようとする。当然、僕は逃げた。  逃げる。怪物の爪が伸びてくる。間一髪で避ける。木が抉られる。逃げる。  ひたすら、その繰り返し。  僕の息はとっくに上がりきってしまい、喘息めいた呼吸音が、短い間隔で耳朶に響く。 「はっ……、はっ……」  首につたった汗を不快に思う暇もない。すこしでも、息を整えたい。  再び、大木が怪物の突進を受けて大きく揺らされる。  みしみし、と木の固い繊維が悲鳴をあげる音を聞いたときは、整えるどころか息が止まってしまいそうだった。  この大木を失えば、僕は、一瞬で──。  いいや。その前に、この場から逃げないと。そして、一人でも多くの人を地下シェルターに連れていくんだ。  僕がどんなに非力だろうと、鈍足だろうと、助けなくては。護らなくては。  僕は、街の人々を護り導くためにいるのだから。  荒い息のまま、僕は赤い目を睨みつけた。  怪物もまた、僕を見つめて体勢を落とし……。  ひくひくと鼻を動かしたかと思うと、僕ではない方向へと顔を向けたのだった。  これはまたとない好機だと、逃げ道を脳内で洗い出した途端。  ふうわりと、夜風に乗ってくるバターの香り。続くのは、甘く香ばしい焼き菓子の匂い。  愕然とした。こんな、こんな遅い時間に。  仕込み? もしかすると、食後の小菓子を焼いているのかもしれない。何にせよ、最悪のタイミングだ。 「だ、だめだ。僕を、僕を見るんだ!!」  大声を張る。  しかし、怪物は僕に目を向けない。しきりに鼻を動かし、顔を背け、ついには僕と大木にまで背を向けて──。 「いくなああああッ!!!」  四つ脚を駆使し、走り出してしまった。  だめだ。いやだ、やめてくれ!  喚きながら追いかけても、怪物の黒い後ろ姿はあっという間に遠くなっていく。  そして、夜空に向かって煙を吐く煙突が聳えたその店に。クミルさん夫妻が営む洋菓子店に、怪物は勢いを緩めることもなく、突っ込んでいった。  けたたましい音を立てて割れるガラス。  あらゆるものがひっくり返されているのであろう、忙しない物音。それに続いた、悲鳴。 「やめろ! お願いだ、やめてくれッ!!」  言葉の通じない相手であることはわかっていた。それでも、叫ばずにはいられなかった。  走って、ガラスの破片が散る店に向けて手を伸ばして。  ああ、どうして、僕の足はこんなにも遅いのか。どうして、僕の手はこんなにも非力なのか。  護りたいものが、次々と失われていく。  僕の、力が及ばないばかりに。 「坊ちゃんッ!」  後ろから手を掴まれ、僕の首はがくりと揺れた。  視界を曇らせていた雫が宙を舞い、どこかへ消えていく。 「こっちへ!」  強く腕を引かれて、クミルさんの洋菓子店とは逆の方向へと歩かされる。  焦れたように僕を『坊ちゃん』と呼ぶ彼女は、ひたすらに僕の手をひっぱっている。  血がかぴかぴに固まった、おぞましい色の僕の手を。誰も護ることができていない、僕の手を。 「マリ、ベルさん……」 「早く! 坊ちゃん、走って!」  マリベルさんの必死の形相を見て、僕はハッとした。  まだだ。まだ、打ちひしがれている場合では……。 「一体なにが起こっているんですか!? 父と、母は……!」 「わからない! わからないんです! でも、あれは人の敵うものじゃない。立ち向かおうなんて考えてはいけませんよ、坊ちゃん!!」  彼女は怒っている様子だった。 「見ていましたよ! なんて無茶を……! 追いかけていったところで、できることなんてありますか!?」 「それでも……! それでも、僕は……!」 「勇敢と無謀は違うんですッ! 坊ちゃん!」  まるで、頬をちからいっぱい叩かれたような気分だった。  僕には、その力はない。そう言われた気がした。 「ぼ、くが……。至らないばかりに……」 「そう、じゃないんです……。坊ちゃん、そうじゃないの……」  きっと、マリベルさんの前で僕がこんなにも弱い声を出すのは初めてだったと思う。  マリベルさんが怒鳴るのも、こんなに細い声を出したのも、全てが初めてだった。 「誰も、敵わないんです……。敵わなかったんです……」  ぽつりと、僕の頬下に雫が落ちてきた。雨など降ってはいないというのに。  それが、前を走るマリベルさんから飛んできたものだと気がついて、僕はどう言葉を紡げばいいのかわからなくなってしまった。  彼女は、ローズマリーを買って家に帰ったはずだった。本当であれば、ご主人であるリティーシャさんと、食事を楽しんでいるはずだった。  誰が獣たちと戦い、敵わなかったというのか。リティーシャさんは今どこにいるのか。  僕には、尋ねることができない。 「エミリアさま!!」  黙り込んでしまった僕たちのもとへ、張りのある声が届けられた。  ジェイク・メヴィル。弟の一番の親友だ。 「リタは! リタはどこだ!!」  彼は肩で息をしながらも、注意と視線を忙しなくあちこちに向けている。恐ろしい獣がいるというのに、弟を案じて探しまわってくれたのだろうか。 「リタは、屋敷のなかに……! 君もマディール邸に入るんだ! 地下に、シェルターが……!」  あるから、と言おうとして、僕は言葉を失ってしまった。  屋敷へと続く並木道に、獣がいる。それも一匹ではない。うろうろと歩き回る彼らは、地面の匂いを嗅いだり、空気に鼻を鳴らしたりと、どう見ても獲物を探している。  これでは屋敷へ辿り着くことができない。 「ジェイク……!」  僕とは違い、体格に恵まれている彼が走り出す。咄嗟に小声で名前を呼ぶも、彼は振り返ることもなく建物の陰に消えていってしまった。  そこにきて、マリベルさんも僕の手を引き直し、走り出す。  つんのめっても、戸惑って声をかけても、彼女は無言のままだった。 「マリベルさ……!」 「坊ちゃん」  かと思えば、道の隅で急に立ち止まって、僕に向き直る。  そうして、家々のあいだにある物入れを開けると、彼女は瞬く間に、僕をそこへ押し込んだ。  茫然としていたとはいえ、こんなにも簡単に女性一人にやり込められてしまうなんて。なんと情けないのだろう。  察してしまった彼女の意図に反対すべく、僕は口を開こうとした。 「静かに! 決して声を出してはいけませんよ!」  頷けるはずはない。彼女は僕に、ここに隠れて危険が過ぎさるまで待てというのだ。 「いけない! 僕は、街のみんなを護っ……」 「黙って! 声を出さないでッ!!」  普段のマリベルさんからは想像もできないほど、迫力のある怒声だった。一瞬の怯みを彼女は見逃してはくれず、押し合っていた扉が閉められてしまう。  その瞬間、彼女はとてもとても申し訳なさそうな顔をした。  目を伏せて、下を向いて、僕に向けてではない言葉を、唇で形作って──。  目を見開いていた僕はすぐに扉を押したが、どうやらマリベルさんは座り込んで全体重をかけているらしい。思うように開いてくれない。  しかし、体格に恵まれていなかったとしても僕も男だ。女性一人の重さをどうにもできないほど、非力ではないはず。  彼女もそう感じたのかもしれない。焦ったように人を呼んでいた。 「やめてください! マリベルさん! そんなのはいけない!!」 「誰か!! 私と一緒にエミリア坊ちゃんを護ってください! 街の未来を、どうか護って!!」 「マリベルさんッ!!」  渾身の力を込めて扉を押す。それこそ、怪物のように突進でもなんでもしてここを開けたかった。しかし、この物入れは僕一人の身体でぎりぎりの大きさ。勢いをつけるスペースもない。 「エミリアさま!? エミリアさまがそこにいるのか!?」 「そう! お願い、ゲール! 彼を護って! 私一人では、だめなの! お願い!」 「だ、だめだ! だめですゲールさん! マリベルさんを連れて逃げてください! お願いです!」  隙間から僅かな光が射し込むだけの暗い物入れで、僕は声を張り上げた。 「エミリアさま!」 「エミリアさまを私も護るぞ! マディール領の未来のため!」 「俺たちの大切なお方だ!」  比喩ではなく、一瞬、本当に息が止まった。 「や、やめ……。やめてください……。僕は、そんなの望まないっ!!」  彼らは、僕を護るために命を賭けようというのだ。いや、命を、捧げようと。  死のうと、している。 「嫌です! お願いだ! 出してくださいッ!! 僕はあなた方を護りたいんだ! こんなのは違うんだ!!」  がむしゃらに扉を叩き、僕は叫んでいた。 「お願いですから! せめて、マリベルさんと僕を替わらせてください! 彼女は、彼女はっ……!!」 「もう黙ってちょうだい!!」  ガンッ、と物入れに響いた打撃音。外部から齎される衝撃は、なかでとても響き、僕は驚いて舌を噛んでしまった。 「ごめんなぁ、エミリアさま。若者の(ごう)だと思って、諦めてくれな」  すまなそうなゲールさんの声が聞こえる。  できない。諦めるなんて、とても。 「い、命です……。みんな僕の大切な……! そんなの、できなっ……」 「頼みますよ。俺たちのために」  物入れの外から、声が聞こえる。  未来のために。次期領主さまのために。街のために。  そう、空元気だと簡単にわかってしまう声が聞こえてくるんだ。 「ち、がう……」  僕は、未来などではない。  そう大声で叫びたかったのに、喉からはささやかな空気しか出てこなかった。 「き、きた……!!」  慄く声がする。誰かが今、鼻を啜った。  叫びたい。やめてくれと。逃げてくれと。  大声で。  喉が裂けても、構わないから──。 「ごめんなさいね……。坊ちゃん……」  マリベルさんの囁きを最後に、束の間の平和は終わりを告げた。 「ああああああっっ!!」 「おおおおおお!!」 「うわああああああッ!!」  地獄だ。  ここは、地獄だと思った。  すぐ近くで、本当にすぐ近くで、悲鳴があがっている。  いくつも、いくつも。  高く、苦しく、痛々しげに。  みんなみんな、知っている人の声だ。  僕の大切な人々の声だ。  なのに、僕は声をあげられない。あげてはならない。  座り込んで、口を強く手で押さえて、息を止めているしかできない。  それすらも苦しくなり、呼吸をすると、喉が裏返った音を立てそうになる。  髪が次々と頬に貼りつき、顎を握り潰さんばかりの力で覆う手が、濡れていく。  びしゃっ、と水を打つ音がする。水などではないことは、わかっている。  ぐるる。ガウゥ。  犬でないことくらい、見えなくてもわかる。  ああ。ああ。  悲鳴が、消えていく。誰かの命が、消えていく。  物入れの扉一枚で隔てただけの、すぐそばで。 「…………っふ、…………く、ぅっ……」  息を殺す。嗚咽を、殺す。  みんなが殺されている、すぐそばで。

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