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0話 真相 前編

 その日の夕食は、静かだった。  僕らの操るカトラリーはかつりとも音を立てることはなく、突然なにかを思い出して怒涛の勢いで喋り倒す人はいない。豪快に喉を鳴らして水を飲む、聞いているこちらが心地良くなるあの音もしない。 「リタがいないと、静かだなぁ……」  父がぽつりと呟くと、母は小さく笑って同意を示した。  どうやら、我々親子は同じ思いを抱いていたらしい。  けして気不味い沈黙というわけではないのだけれど、なにかひとつ物足りない。そう感じてしまう。 「リタは家族のムードメーカーですから」  今頃、弟は期待を胸に夢をみていることだろう。いいや、もしかすると、明日へ想いを馳せるあまり眠れずにいるのかもしれない。  そう思い至ると、頬が勝手に持ちあがっていった。 「すこし寂しいけれども、仕方がないね。なんといっても明日はリタの一大事……」 「あなた」 「おっと、いけない。私たちはなにも知らないのだったね。……うん、春の訪れを感じるなぁ」  室内であるというのに風を感じる素振りをする父。それを再び窘める母の声は、言葉とは裏原に、楽しげに揺れたものだった。 「季節の話だよ。なぁ? エミリア?」 「ええ、そうですね。父さん」  僕の声もまた、例に漏れない。  弟はこの場にいなくても、ムードメーカーの役割を果たしてくれているようだった。  くすくすと笑む両親はとても柔らかな表情を浮かべ、どこか浮かれているようにも見える。恐らく、僕も同様だろう。  家族でこの有様ならば、本人はもっともっと楽しみであることだろう。弟と幼馴染の笑顔を想うと、胸の内側で幸せがじんわりと広がっていく。  肉料理を運んできてくれたマリベルさんも表情を綻ばせていた。 「祝おう。喜ばしい春の風を。若者たちの幸せを願って」  父がグラスを持ち上げると、母はなにも言わずにそれに倣った。僕らがそっと掲げたグラスはランプの光を受け、葡萄酒の深い色合いに彩られて、華々しく輝いていた。  彼らの未来が光り輝くものであることを予言するかのように。 「花咲く季節の訪れに、乾杯」 「花咲く季節に」 「春の訪れに」  当人たちの知らぬ間に挙げられた祝杯は、三回澄んだ音を響かせて、僕らの口へと運ばれる。ふわりと広がるなめらかなタンニンを感じながら、僕はそっと目を閉じた。  口内で転がる味わいのように、丸く穏やかに。嚥下しても残り続ける余韻のように、長く。  ワインのように熟成されるまで、ずっと彼らが幸せでありますよう。  願いとともに味わったひとくちは、いつもより香り高く感じられたものだった。 「申し訳ありません、旦那さま。すこし、外へ出てきてもよろしいですか?」 「うん? 構わないよ。どうかしたのかい?」 「お肉にお付けするローズマリーを切らしてしまいまして……。やっぱり、そのままお出しするのは忍びなく……」  珍しく歯切れの悪い話し方をする、通い家政婦のマリベルさん。  確かに言われてみると、牛肉のローストにはハーブが添えられていない。それでも、鮮やかな色のアスパラガスや彼女お得意の絶品マッシュポテトが主役を引き立てるように飾られている。十分だ。 「僕はこのままで構いません。今日も、とても美味しそう」 「ええ、本当に。マリベルさんの付け合わせはいつも最高ですもの」  もちろんメインも。と柔らかな口調でつけ足し、母はそっと銀のフォークに手を触れた。 「私もこのままで」 「ですが……」 「ハーブがなくても、君の作る料理は充分に素晴らしいよ。しかし、完璧な一皿を作ろうとしてくれるその心もまたありがたいものだね」  シワが出始めた目元を緩め、父はすこしばかり大振りな所作で顎にこぶしをあてた。文字通り、形ばかりの考え込む動作だ。  父が芝居掛かった動作を見せるときは、大抵シナリオが頭のなかで完成している。これはなにかを言い出すのだろうなと思いながら、僕もまた、肉料理に口をつけるべくカトラリーを手に取った。 「ああ、ローズマリーといえばなんだがね。白ワインに香りを移したものが美味だと聞いたことがあるのだけれど、作り方を知っているかな?」 「え、ええ。小耳に挟んだことがある程度ですが……」 「それは素晴らしい。今からローズマリーを買いにいって、ご主人と一緒に飲んでみてはくれないかい? 君たちが太鼓判を押すようであれば、是非、我が屋敷でも作ってもらいたい」  にこにこと笑む父とは裏腹に、マリベルさんはひどく恐縮そうにしている。何事かを言わんとした彼女に、父はとても穏やかな声で言葉を送った。 「たまには早く帰ってあげなさい。三人で力を合わせれば、片付けくらいは出来るさ」  そうだろう? と問われ、僕と母はゆっくりと頷いた。  僕と父はともかく、母は元々一般家庭の出だ。マディール家に嫁いでくる前は、ある程度の家事は自分でしていたのだと聞いたことがある。  母に教えを乞いつつやってみれば、マリベルさんにいつもより多くの家族時間を贈ることができるだろう。翌日の彼女の仕事を増やさない程度には、きちりとしておきたい。  学ぶことというものは、なかなかに尽きないものだ。 「どうぞ安心してください。マリベルさん。玄人であるあなたほど上手にはできなくても、僕たちなりに精一杯の尽力をします」  考えてみれば、毎日夕食の給仕までしてくれるマリベルさんは旦那さんと食事を楽しむ暇すらないのかもしれない。  これを機に、すこしずつでも彼女の帰宅時間を早めてあげられるようになるといい。  そう願い、僕はあたたかな牛肉の味わいを幾許(いくばく)か楽しませてもらってから席を立った。僕たち家族のために用意してもらった食事だ。一番美味しいときを楽しんでおかないと、失礼にあたる。 「あとの料理の出し方を教えてもらえますか? 今日は、僕が」 「そ、そんな、坊ちゃん……」 「私も手伝いましょう」  僕に続いて立ち上がろうとする母に、マリベルさんはたじたじになった。 「母さんに世話を焼かせるわけにはいかないなあ。我々男の立つ瀬がない。女性は守るものだからね」  母の肩にそっと手を触れて制し、小声で『座っていてくれるかい? アリシア』と呟く父。二人は僅かな時間を見つめ合い、やがて、気恥ずかしそうに母が頷くと、父が代わりに席を立った。  僕らマディール父子が歩み寄ると、マリベルさんがひどく恐縮して、身体まで縮こまっていこうとするのがわかる。  彼女はとても優秀な家政婦であり、料理人だ。しかし、僕たち男性が守るべき女性でもある。それを忘れてはいないのだと言葉にして伝えたかったけれど、上手な言い方を見つけることができなかった。もっと研鑽を積まなくてはいけないね。  でも、しかし、あの、その……。と、辞退しようとするマリベルさんを柔らかに宥めつつ、父は言葉巧みにデザートの在り処を聞き出してしまった。 「コーヒーは……、ああ、みんなで試行錯誤してやってみることにしようか」 「はい。父さん。研究のようで楽しそうですね」  父の真似をしてすこしだけ戯けてみたのだけれど、マリベルさんの心はすこしでも軽くなってくれただろうか。  父と僕の目が合う。父は頷きに代わる深い瞬きをひとつしたあと、その瞳をすっと横に動かした。  意を汲み取り、微かに顎を引いて僕も応える。 「さぁ、マリベルさん。行きましょう」  廊下に続く扉を開け、静かに佇んでマリベルさんを待った。彼女は雇い主である父に自分の仕事を押し付けてしまうことを気にしている様子だったが、あまり僕を待たせるのも良くはないと思ったのだろう。父と母に一礼をして感謝の言葉を口にすると、こちらへ向けて歩いてきてくれた。  マリベルさんが扉を(くぐ)るのを待ってから、僕も彼女に続いて廊下へと出る。  暫し歩調を合わせ、玄関ドアが近づくと、僕は不自然にならない程度に歩幅を広げた。  大きな両開き扉を押し開け、今度は僕が先に出させてもらう。 「エスコートをありがとうございました。エミリア坊ちゃん」  扉を押さえたままの僕の手を一瞥して、マリベルさんは表情を和らげてくれた。 「いいえ。僕らの方こそ、いつもありがとうございます。どうぞ、お気をつけて」 「おやすみなさいませ」 「おやすみなさい。ご苦労さまでした」  石段を降り、噴水広場へと歩いていくマリベルさんの後ろ姿を見送る。  外はすっかり暗くなってしまっている。せめて、広場までくらい送って行けばよかったかもしれない。彼女が毎日、夜道を一人で帰路についていることを思うと、心が罪悪感で苛まれた。  目を閉じ、夜風を感じる。寒い季節は過ぎさったけれども、陽が落ちるとまだすこし冷えてくる。  こんな寒空の下をアルルテンダさんの店まで買い物に行かせてしまったのは本当に正解だったのだろうか。  そう思案した刹那、広場の方向から陽気な笑い声が聞こえてきた。どうやら、太陽は眠っても、街はまだ眠っていないらしい。活気ある帰路に送り出せたのだと思うと、微かにだけ罪悪感が薄れた気がした。  マリベルさんの後ろ姿が見えなくなってから屋敷に入り、扉を閉める。  自分の足音だけがする静かなホールを歩きながら、僕はふと、階段の方向を振り返った。  数年前に描いてもらった僕ら家族の肖像画。そこにいる弟は緊張からこわばった表情をして、母が座る椅子の背を握っている。  明日の初デートも始めはこんな顔をするのだろうなと考えてしまい、思わず笑ってしまった。  いけない。弟の純粋な感情を笑うなんて、兄としても紳士としてもあるまじき行為だ。  誰も見ていないのに咳払いをして笑いを収めてみたけれど、脳裏に浮かぶ微笑ましい想像にどうしても口端が上がってしまう。  きっと、緊張でがちがちになってしまうのは最初だけだろう。この絵を描いてもらったときのようにすぐに飽きてしまうに違いない。  そうして、マディール家で一番明るい笑顔を見せておしゃべりをするのだろう。その隣で、あの子はおかしそうに笑う。赤いお下げ髪を揺らして、頬を色付かせて。  それはなにより幸せな光景であるのだろうと僕は思うのだ。  口元を笑みのかたちにしたまま、廊下を歩いて両親のもとへと向かう。  父が母のグラスへとワインを注ぎ、冗談めかした恭しい一礼をしたところだった。デザートは置かれていない。どうやら、僕を待っていてくれたようだ。 「待たせてしまいましたね。父さん。母さん」 「とんでもないよ。我が家のジェントル」 「ゆっくりお食べなさい」  席につき、中座していた食事を再開する。  料理はすこし冷めてしまったけれど、舌にあたる肉は柔らかく、香辛料の香りがじわりと広がってとても美味しかった。 「彼女に感謝しなくてはね。食事の席を盛り上げてくれたうえに、息子の成長ぶりを感じさせてもらえた」  いつもよりも深みのある声に目線を上げてみれば、どこか眩しげに目を細めた両親の表情が窺える。  気恥ずかしさを誤魔化すべくナプキンの内側で口元を拭い、心を落ち着けてから顔を上げた。 「成長、できていますか?」 「もちろん。立派になったよ」  父が微笑む。母が頷く。  自分の心臓がとくりと穏やかな音を立て、僕は無意識的に胸へと手をあてていた。  もしもその通りであるのなら、それはあなた方のおかげです。父さん。母さん。  僕をこの世に産んでくれた。何不自由なく育ててくれた。街を見せ、世界を見せてくれた。  かけがえのない、素晴らしい弟まで与えてくれた。  父よ、母よ、神よ。感謝します。  リタ。もちろん、君にも。  父と母の愛情を感じつつ食事を進め、父とともに運んだデザートに舌鼓を打っていると、カランと鐘の音がした。 「ん? 忘れ物でもしたのかな?」  立ち上がろうとする僕を手で制し、父が廊下へと歩いていく。  母と僕は顔を見合わせて食事の手を止め、父が戻るのを待った。  しかし、父はなかなか戻ってこない。マリベルさんがやってくる様子もない。  だんだんと落ち着かない様子を(てい)し始めた母とともに、僕は父を追って玄関へと向かうことにした。  ホールへ足を踏み入れると、玄関口で話し込んでいる様子の父が見える。その表情はすこしばかり険しく、片眉が顰められていた。 「父さん? なにかあっ……」 「母さん。エミリア。私はすこし街の様子を見てくる。なにやら不穏な空気が漂っているようだ」  街のはずれに住むロメルさんが早口で何事かを呟き、石段を駆け下りていく。父もすぐに後に続き、当然のように母までもが玄関を飛び出した。 「僕も一緒に……!」 「家に居なさい。エミリア。リタと一緒に居るんだ!」  駆ける足を止めないまま、顔だけを振り向かせて声を張り上げた父。  リタを護っていなさい。そう眼差しで言われたような気がして、僕は続きそうになった言葉をぐっと飲み込んだ。  父と母、そしてロメルさん。三人の後ろ姿を見つめて、唇を引き結びながら扉を閉める。  食材と料理のつくり手に感謝して、最後まで味わい、楽しむこと。ことある毎にそう教えてくれた両親が、食事を途中で放り出して出かけるなどということは初めてだった。  信念を曲げなければならないほどの事態が起きている。それは間違いなく、良くないことだろう。  すこしばかり早足で階段をあがり、弟の部屋を目指して回廊を歩く。  扉を開けようとして、僕は初めて自分がこぶしを握りしめていたことに気が付いたのだった。  とても、とても嫌な予感がする。屋敷に閉じこもり、両親の帰りを待っているだけで本当にいいのだろうか?  僕は次期領主であるというのに。  ほとんど音になっていない、形だけのノックをして、そっとドアノブをひねる。  開いた扉の隙間からなかを窺うと、暗闇のなかに、あたたかな色味の光が浮かんでいるのが見えた。ベッド横のナイトテーブルに置かれたランプの光だ。  その明かりに照らされた弟は、丁度こちらを向いていて、どこかあどけない寝顔を見せてくれていた。  足音を立てないように気をつけながら部屋へと入り、弟のもとへと歩み寄って、ずれていた掛け布団を直してあげる。すると彼がにんまりと笑ったので、起こしてしまったかと思い、慌てて手を引いた。 「へへっ……」  小さく笑ったかと思えば、聞きとることでができない言葉で何事かをもにゃもにゃと呟いた弟。その後に続いた規則的な寝息。  どうやら、ただの寝言だったらしい。眠りを妨げなくてよかった。  弟は、いつだって僕の迷いを晴らしてくれる光だった。  今もそう。眠っていても笑顔を見せて、僕の胸を塞いでいく不安感を散らしてくれる。 「リタ……。僕は、どうしたらいいのだろう……」  口が勝手に、ひどく硬い声を紡ぎ出した。  はっとして口元に手をあてたけれど、弟は起きる様子がない。ただ穏やかに、とても満ち足りた表情をして眠りに就いている。 「……父さんの言いつけを、破ってもいいかな?」  小さく、小さく。本当に小さな声で、僕は弟にそう問いかけた。  僕はね、リタ。この街が好きだよ。  街の人々も、家族も、みんな大好きなんだ。  護りたいんだ。僕が、この手で。  声に出さず、唇を動かすこともなく、弟に語りかける。  すると、僕は一体今の今までなにを迷っていたのだろうと思うくらいに、頭のなかがすっきりとした。まるで、暗雲が風で流されたように。  僕は次期領主だ。街を守り、人々を護るのが僕の使命。  彼らのために心を砕き、身を粉にする。それが、僕の役目だ。  街になにかが起きているのなら、すぐさま対処しなくてはならない。危険があれば、みんなを護らなくては。  屋敷を飛び出していった、父のように。 「いってくるよ。リタ」  ランプの光を反射する弟の髪を指先で撫で、僕は踵を返した。

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