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エピローグ

 僕の兄は、綺麗な人だ。  頭も良くて、人望もあって、なにより優しい。  誰よりも、なによりも綺麗な人。  今だってそう。閉じたまぶたを彩る睫毛の一本一本まで、綺麗だ──。 「兄さん。ほら、青リンゴがあったよ。ちょっと萎びてるけど、食べられるよ」  うつくしい兄の唇。表面がしなしなになったリンゴですら、この唇に触れると極上の果実に思えてくる。  ああ、兄さん。綺麗。綺麗だ。  リンゴがあたって微かにかたちを変えた下唇も、すこしだけ顔を出した前歯も、全てが。 「噛めないの? 僕が、噛み砕いてあげるね」  兄の返事を待たずに、僕は青リンゴに齧りついた。皮が茶色になりつつあるそれは歯応えが弱くてぱさぱさとしていたけれど、大きく口を開けて噛みつけば、ほのかな甘みを味蕾に残してくれる。  しっかりと噛んでなめらかにして、兄の唇に自身の唇を触れあわせる。兄さんの口はもうすでに軽く開いていて、僕からのキスを待っていたみたいだった。  とろとろにしたリンゴを流し込むときにうっかり触れあわせてしまった舌は冷たくて、すこしばかり変わった味がした。青リンゴの香りと甘さですぐにおいしくなるよ。よかったね、兄さん。  ちぷ、とちょっぴり恥ずかしい音を立てて口を離すと、見た目が悪いリンゴペーストが兄の唇からこぼれてくる。うつくしい顎につたったそれをぺろりと舐め取ると、兄さんと青リンゴの味が混ざって甘美な味わいがした。  思わず吐息を漏らしてから嚥下すると、兄さんはまた口からリンゴペーストをこぼしてくれる。 「僕にわけてくれてるの……? 嬉しい……」  兄の優しさを唇で受け取り、お礼に次の一口を噛み砕く。なめらかにして、兄さんに食べさせてあげる。  兄さんは必ず僕にリンゴペーストをわけてくれた。青リンゴは僕の大好物だから。  お食べって、口端から垂れ流すんだ。僕のために。  嬉しくて、心がくすぐったくなって、僕は兄さんを強く抱きしめた。  優しい。優しすぎるよ兄さん。  さらさらの髪が僕の首筋を掠めている。ランプの光を受けて、きらきらと輝いて見える。  僕の兄さん。エミリア兄さん。  誰よりも綺麗で、誰よりも優しい兄さん。僕の誇り。  目を閉じている兄さんは、黙って僕の鎖骨に頭を預けたままでいる。気持ちがいいのだろうか。  なんだか甘えてくれているようで、どうしようもない愛しさが込み上げてくる。意外な一面が知れて、嬉しくなった。 「あっ、兄さん。今の聞こえた? わおーんって。犬かなぁ? 僕さ、動物って結構好きなんだ」  兄さん、昔から動物にすごく好かれてたよね。きっとね、彼らにも兄さんの優しさやうつくしさがわかるんだよ。  ほら、また兄さんに魅せられた生きものが来ている。油断していると、すぐに兄さんの身体に這おうとする。  僕の視線の先で、うぞうぞと蠢く小さな虫が床に落ちた兄の手に触れようとしていた。  わかるよ。触りたいよね。だって、こんなに綺麗なんだもの……。  でも、だめだよ。許さない。  この人は僕の兄さんなんだ。僕だけの、エミリア兄さんなんだ。だから、触らせてあげない。  不躾な幼虫を手で払い飛ばして、僕は再び兄さんの顔を見つめた。本当に、綺麗だ。非の打ちどころがない。  一時はひどく汚れていた兄さんだけれど、シャワーで念入りに洗い流すと元通りの 綺麗なエミリア・マディールに戻ってくれた。兄に汚れは似合わない。最近の兄さんは自分に無頓着だから、僕が世話を焼いてあげている。  その度に不思議と兄さんの体重は軽くなっていって、今では僕の非力な腕でも危なげなく抱えられるほどだ。僕を信じて身を委ねてくれることが、とても嬉しい。  ねぇ、兄さん。僕、兄さんの役に立ててる?  たまには声をきかせてほしいな。リタって、名前を呼んでほしいよ。  時々、無性に寂しくなるんだ。まるでひとりぼっちになってしまったみたいに苦しくて、悲しくて、叫び出しそうになる。  おかしいよね。兄さんがいつだって僕のそばにいるのに。 「兄さん……」  頬擦りした兄さんの肌はひんやりとして、すべらかだった。  まるで、蝋人形みたいに。 「……あれ。兄さん、すこし匂いがするね。一緒にお風呂に入ろう? 僕、洗ってあげる。だからさ……、兄さんのシャンプーを僕も使っていいでしょう?」  綺麗な兄さんの隣にいるんだもの。僕も綺麗にしておかないと。  そうでしょ? 兄さん──。  なにも言わない兄の身体を横抱きにしようとすると、ボトボトと微かに濡れた落下音がした。兄のお腹の中身だ。何度やっても上手に入れられなくて、時々こうやって落ちてきてしまう。  慌てて兄をベッドに寝かせて腹部のシャツをめくり、僕は丁寧にそれを拾い上げた。 「あとでもっと上手に入れるね。綺麗にできたら、今度こそ褒めてくれる……?」  床に落ちて汚れたそれを兄さんのなかにそのまま戻すのは嫌だったけれど、大切な兄さんの一部を引き摺りながらバスルームに行くわけにはいかない。  そうっと元の場所へ詰めてあげていると、もわりと香りたつ街のみんなと同じ匂い。こんなの兄さんには似合わないよ。やっぱり、兄さんはほの甘いシトラスの香りがしていなくっちゃ。  さらさらで、すべすべで、きらきらしているのがエミリア兄さんだ。誰もの憧れである、僕の兄。  ああ、でも、兄さんの腕にあった大きな傷痕……。あれはちょっとだけ、かっこよかったな。なんだか、男らしくて。ただ美人なだけじゃないね、流石は兄さんだなって、思ったんだ。 「ちゃんと、隅々まで洗ってあげるからね。兄さん」  そうだ。僕、びっくりしたんだよ。  兄さんったらお腹のなかまで、すごく綺麗だったね──。  オォーンと遠くから響いてくる、獣の遠吠え。僕はそれを聞きながら、兄さんとともに地下室を出る。  開け放たれた扉から。  僕と兄の愛の巣から。  もう、僕らにはお互いしかいない。僕には兄さんしか。兄さんには僕しか。  ……ああ、違う。そうじゃないね。  それでいいんだ。充分なんだ。  僕には兄さんさえいれば。兄さんには、僕がいれば、それでいい。  そうだよね? 兄さん? 「大好きだよ。僕だけのエミリア兄さん」  気品ある銀髪に頬を擦りつけ、僕は遠い日の約束を口にした。 「ずぅーっと、一緒にいようね……」   優しい兄は僕の身体に苦痛を刻む 完

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