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19話 街

 遠目に見える噴水が、壊れている。それだけじゃない。あれ、あの黒いの。あれは家だったはずだ。  屋敷から噴水広場へ続く道には、どす黒い跡がある。こんなものはなかった。生まれてこのかた、出掛ける度に毎回通った道だ。間違いない。  並木は何本も折れて、太いものには獣の爪痕のような傷も見受けられる。 「な、なに……。なにが、あったの。これ……」  道のど真ん中にある巨大な赤黒いシミを大きく避けて、恐々と歩いていく。空は明るく抜けるような晴天模様なのに、小鳥一匹飛んでいない。この不穏な光景を前にしては、ひとつも明るい気持ちになれない。  無残な姿になった噴水は、瓦礫の隙間からちょぼちょぼと水を垂れ流している。かと思えば突然大量の水があふれ出して、靴と地面をびしょ濡れにした。  人々の憩いの場だったベンチは真っ二つに割れて、無造作に転がっている。その背景になっているのは、軒を連ねる家々だ。  ただし、僕の記憶とはまったく違う。色鮮やかな外壁もあたたかみのある木造りの扉も、白かった煙突までなにもかもが真っ黒だった。  燃えて、煤けて。  火災があったんだ。きっと、隣接した家から家へと燃え広がったのだろう。だからこの区画だけ家々が黒くなっているに違いない。  では燃えていない建物は無事なのかといえば、そうでもなかった。  ガラスが割れ、どこらじゅうに大きな爪痕が刻まれている。壁が抉れている場所があれば、扉が破砕している家もある。  そして、どこもかしこも赤黒く汚れていた。  べっとりと。凄惨に。  もう、物々しい飛び散り方で気付いてしまった。恐らくこれは血痕だ。(おびただ)しい量の血が街並みを汚している。壁も、道も。なにもかも、赤黒く。  風が吹く。大量に積まれていた兄さんの服と同じ、異臭をのせて。  この広場には噴水以外にもうひとつ名物があった。僕が生まれるずっと前からそこにあり続けるという大木。日差しが厳しい日には、よく木陰で涼をとったものだった。  その大木もが、地面に横たわっていた。異臭はそこから強く匂ってくる。すぐ近くには斧が無造作に転がされていて、一際物騒な空気を醸し出していた。  一歩、近付いてみる。  いや、本当は近付かなくても見えていたんだ。  大木の下敷きになっているのが何であるのかなんて、本当はすぐに気がついた。  でも、見間違いであってほしかった。気色悪いうねうねした虫が付着したそれが手のかたちに見えるのは、力無く地面に置かれた腕が纏っている布が服に見えるのは、きっと勘違いだ、って。首から上を失ったそれが人間に見えるなんて、目の錯覚に違いないって。  何度か見たことがある、彼女の服に見えるのは──。 「だ、れか……。誰か……、誰かいないのっ!?」  僕は自分の思考を阻むように大声を出し、辺りを見回した。焼けた家々を辿るように走り出し、あらん限りの大声で叫び続けた。 「誰かー!! 返事してよ! 誰か、いるでしょ!?」  クミルさんの洋菓子店は一際煤けていて、損傷も激しかった。隣にあるゲールさんのお店もすっかり真っ黒になってしまっている。  どこまで行っても続く赤黒い道。漂ってくる異臭。静寂を保ったままの、凄惨な街。 「ああ……、ああ……」  息遣いを感じない。子供たちのはしゃぐ声も、路端で笑い合う声も、泣き声や呻き声すら聞こえてこない。  僕は、全てを悟ってしまった。  僕らの街は、セレック街は、滅びたのだ。 「と、うさん、かあさん……。にいさん……! どこっ!? どこにいるの!?」  これは、兄さんの仕業なんかじゃない。こんなこと、兄さんが望むわけがない。  兄さんは、兄さんは……。街を愛し、人々を深く愛していた兄さんは──。 「兄さぁんっ!!」  この有様を見て、心が壊れてしまったんだ。  誰より優しい人だったから。誰より街を想う人だったから。いい領主になってみんなの暮らしを守るんだ、って。一生懸命に、ただそれだけに心を砕いてきたのに。  街のみんなが死んだなんて、滅びたなんて、とてもじゃないけれど受け入れられなかったんだ。だから、だから、兄さんはあんな風になってしまった。  僕を閉じ込めたのは、もしかしてこの惨状を見せないため? おかしくなっても、兄さんは僕を守ろうとしてくれたの? 護ってくれてたの?  苦しい気持ちも悲しい気持ちも、一人で抱えたまま。 「兄さん……! 兄さん……!」  凄惨なセレック街を、僕は兄を探してひた走る。  見当はついている。兄さんを探しているときは、いつだってあそこにいたから。  噴水広場を抜ける際には、足が一瞬ぐらついた。意識的にか無意識なのかは自分でもわからなかったけれど、大木の下には目を向けることはなく通り過ぎ、マディール邸に続く通りを駆け抜ける。それから、ところどころの外壁が砕けて窓にはひびが入った屋敷をまわり込んで。  僕は、足を止めた。 「はあっ……、はあっ……」  眼前に広がるのは、異様な光景だった。  もとは瑞々しい芝生がうつくしかった丘の麓。それが今はあちこちが掘り返されて、茶色の土を晒している。  それだけじゃない。不自然な土のもりあがりが整然と並んでいる。等間隔に。とても几帳面に。まるで、定規を当てたみたいだ。  ただし、その上に乗せられているものは十字に結びつけた木の板だったり、大きめの石だったりと多種多様だった。  おぼつかない足取りで、歩み寄る。  先頭にあるふたつのもりあがり。そこに突き刺された白い十字架の中央には、見惚れるほどエレガントな文字が記されていた。 「アリシア・マディール……」  角が尖る癖がある字で、母さんの名前が。  震える指先で触れた墓標はひやりと冷たく、ひどく無機質に思えた。隣を見遣る。揃いの十字架にあるのは、父の名前だ。  現実感がまったく湧かない。これは一体、どういうことなんだろう。  心に膜が張っている気分だった。目にした情報がその膜で止められて、すんなりと頭に入ってこない。  墓。そう、これは墓だ。  誰の? 父さんと、母さんの。後ろにあるのは? わからない。いや、わかってる。名前が、書いてあるから。  墓って、なんだっけ。  それはね──。  じわじわと、膜に現実が染みてくる。それをどこか他人事のように思いながら、僕は土の上を歩いていた。 「マリベル・リティーシャ。リリア・マノ……」  半ば無意識に読み上げる僕の声は、すこし掠れている。  ゲール・セムティヴァ。ジャン・クミル。セルエラ・クミル。  洋菓子店を営む夫婦の墓標も、お揃いだ。僕の、両親みたいに。  ああ、たくさん、あるなぁ。どれもこれも、漏れなく名前が記してある。とてもとても、エレガントでうつくしい字で。  マリー・モティナー。レイ=ティ・ロメル。  まだ小さかった子たちの名前も、しっかりとある。  みんなの名前を呟いていけばいくほど、心を守る膜がぼろぼろになっていく。だんだんと声が震えてきて、膝が笑いはじめるのを感じる。 「ジェ、イク……」  親友の名前を呟いたところで、僕は膝から崩れ落ちてしまった。  手をついた土はほのかに湿っていて、とても寝心地のいい布団には思えない。こんなところに、街のみんなは眠っているのか。  どうして誰も助けに来てくれないのだろうとは何度も考えた。なぜ地下室へ探しに来ないのか、って。まさか、死んでいたなんて。父さんも母さんも街の人も、もうこの世には居なかったなんて。  思わないよ。思いっこないよ。こんなの、あんまりだ。 「嘘だ……。嘘だよ……」  僕の目から滴った雫で土が濡れる。  緩慢な動作で顔を上げると、遠くに掘りかけの穴と転がったシャベルが見えた。  兄さん。兄さん。  兄さんはどんな気持ちで穴を掘っていたのだろう。たった一人で、みんなを埋めて。お墓をつくって。  どんなに苦しかったことだろう。  涙で顔をべしょべしょにしながら、僕は立ち上がる。鼻を啜って、穴の方へと歩いていく。  その場所に兄はいなかった。だけど、地面に深々とついた足跡がある。方向の定まっていない、やたらとあちこちを向いた足跡だ。  滲む視界を袖で拭いながら、足跡を辿っていく。掘り返した土の地面は足跡がよく見えたけれど、芝生の地面に変わった途端に見失ってしまった。 「兄さん……。エミリア兄さん……」  どこなの、兄さん。僕、心が潰れてしまいそうだよ。  そばにいてよ兄さん……。ひとりに、しないで……。  迷子になった子供のように啜り泣く。それでも、足は止めなかった。  丘をあがる。緑の大地を踏んで、一歩一歩。  時々、大きく抉れて土が露出している場所がある。赤く汚れたところも。けれど、僕らの思い出の丘は比較的に綺麗なままだった。  だからこそ、兄さんは墓地として丘の麓を選んだのかもしれない。  街のみんなが安らげるように。安心して、眠れるように。優しい兄さんのことだから、きっとそんなことを考えたのだろう。  丘をあがる。空を仰ぐように広がる枝が、両腕を広げて僕を待っているみたいだった。  風が吹く。僕の髪を揺らし、木の葉を揺らして、ざあっと音を立てている。  僕たち兄弟の思い出の木。街を見守るような場所に聳える、優しい木。  その根元で。  僕は、うつくしく煌めく銀髪を見つけた。

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