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18話 鎖

 お腹が、すいた。喉もからからだ。  すっかり熱も下がって暫く。兄さんは地下室に来なくなった。  鎖で繋がれた僕でも届く位置に移動されていたテーブルには、保存食が一食分と水が置かれていたけれど、そんなものはすぐにぺろりと平らげてしまった。だって、こんなにも長いあいだ兄さんが来なくなるなんて考えもしなかったもの。  保存食がどこにあるかは知っている。奥の棚にある箱から出しているのを何度も見たからだ。ただ、僕の手はそこまで届かない。このがっちりとした足枷のせいで。 「うー……。お腹、すいた……」  足枷をがちゃがちゃと触り、僕ははっとして扉を見遣る。この前みたいに兄さんに見られでもしたら大変だ。  暫く物々しい扉を見つめていたけれど、開く気配はない。そのことに安堵したような、残念なような複雑な気持ちを抱えて、もう一度足枷に視線を落とした。  外れてくれとはもう言わない。言わないけれど、もっと鎖の長さがあってもよかったんじゃないかと思う。そうすれば、食べものがある棚まで届くのに。  伸びろー伸びろーと現実離れした願いを込めながら鎖を見た。ひっぱってもみた。当然、鎖は伸びない。 「当たり前、かあ……」  溜息をつきながら指で鎖を弄ぶ。  この鎖がなぁ、食べられたらなぁ、なんて思っていると、指が赤茶色の錆で汚れた。 「……あ、れ?」  なんだろう。今触ったところ、ちょっと手触りが違う気がする。ぱさついているっていうか、粉っぽいっていうか……。  ほら、擦ってみたら錆がどんどん出てくる。脆くなってる。今、小さな塊がぽろん、って。  急激にクリアになっていく視界。意味もなくふわついていた心が、一瞬にして正気を取り戻したかのようだった。 「は……。はぁっ……、はぁ……っ!」  手が震えてくる。呼吸が荒くなってきて、鎖の欠けた部分が妙にはっきり見えてくる。  これ、もしかして壊せる? 僕、ここから出られる?  どっくんどっくんと心臓がものすごい音を立てて鼓動を打っている。必死に錆を擦り、爪を立てる度、どんどん早くなっていく。ぽろぽろと錆粉を落とす鎖は、その部分だけ目に見えて細くなっていった。  僕の脳裏で、母が昔に言った言葉が思い起こされた。『地下倉庫は大昔のものが色々あって危ないわ。だから、お遊びで入ってはだめよ』と。  これ、大昔の鎖だったんだ。だから古くなって、錆びてる。腐食してる。 「で、出られる……! ここから、出られる……!!」  思わず呟いてしまった口を覆い、削った部分は握って隠して、もう一度扉を確認した。  兄はまだ来ない。まだ、大丈夫だ。  だけど、急がないと。いつ兄さんが戻ってくるかわからない。はやく鎖を壊して逃げなくちゃ。こんなところを見つかったら、どんな目に遭わされるか……!  錆を削る手を急がせる僕。粉じゃなく、もっと塊で剥がれて欲しい。  噛みつき、糸切り歯を立てると、口いっぱいに錆と鉄の味が広がった。ざりざりするし不味いし気持ち悪かったけれど、指で擦るよりもたくさん剥がれてくれた気がする。  歯で小削ぎ落としてはぺっぺと吐き出すのを何度か繰り返して、僕は唾液に濡れた鎖を見た。 「そ、んな……」  思うように削れてこなくなったと思ったら、中心までは錆びついていなかったみたいだ。途端に絶望の淵へ追いやられてしまった僕だったけれど、そう簡単には諦められなかった。  だって、もうこんなに細い。僕の指くらいの太さがあった鎖は、そこだけ三分の一以下になっている。マリベルさんに見せてもらったことがある編みものの棒よりも細そうだ。  辺りを見回し、ベッドに目を止める。マットレスを押して露わにしたベッドフレームの角にめがけて、鎖を叩きつけた。  何度も、何度も。  がちんがちん、ヂャリンヂャリンと音が響く。すこしうるさいけれど、大丈夫だ。ここでの物音は外に聞こえないと兄さんは言っていた。  鎖はなかなか壊れない。でも、一級品のベッドフレームだって負けてない。ものすごく重い分、きっと硬度があるのだと思う。  足りないのは、きっと勢い。僕は鎖をつまんだ両手を頭上に翳して、しっかりと狙いを定めた。手のひらに強く握り込み、思い切り振り下ろす。  僕の手が、鎖が、鋭く空気を割り、そして──。 「うああぁぁッ!!」  ガヅン! と鈍い音がして、鎖が僕の手を離れた。人差し指に激痛を感じる。鎖ではなく、指を打ちつけてしまったのだ。 「ひ、ぅっ、うぅぅっ……!」  思わず蹲って、叫びそうになる唇を強く噛む。痛みで泣いている場合じゃない。はやく、壊すんだ。  細くなった部分を拾い上げて、もう一度振りかぶる。  恐ちゃだめだ。怖がるな。手加減したって、鎖は壊れない。わかってるでしょ、僕!  歯のあいだから呼吸をして、ぐっと奥歯を噛みしめる。 「ああああああ!!」  渾身の力込めて振り下ろすと、ガキンッといい音がした。けれど、まだ壊れてはいない。曲がっただけだ。 「もう、一回……!」  強打した指がひどく痛み、恐怖の波で僕の心を溺れさせようとする。腕も足も、竦んでしまう。 「こ、壊さなきゃ、死ぬ……。死ぬんだ!!」  あえて過激な言葉を口にして、自分を奮い立たせる。  指の骨が砕けるよりももっと恐ろしいものを、僕は見ただろう!  もしも鎖を壊せなかったら、壊さなかったら、次にああなるのは僕なんだ! 「いやだ……。いやだ!! そんなのは……、いやだあッ!!」  大声を張り上げ、その勢いのままに鎖を叩きつける。  鎖越しに感じた衝撃と抵抗が一瞬で消え失せて、勢い余った僕はマットレスに顔を、木のフレームに腕をぶつけてしまった。でも、そんなに痛くない。指ほどじゃない。  忙しない自分の鼓動を聞きながら、恐る恐る鎖を確認してみる。  腕を、鎖を手繰り寄せて。  そっと、眼前に翳してみて。 「あ、ああ……、ああっ……!!」  僕は上擦った声をあげた。  鎖は、角ばったCの文字になっていた。 ちゃんと、壊れていた。  今まで一番早鐘を打つ鼓動。小刻みに震える指。胸の奥から湧き上がる歓喜が、喉を通って爆発的にあふれてしまいそうだ。  とても簡単そうな知恵の輪を震える手のせいで苦戦して外し、僕は真っ先に棚へと走った。乱暴に箱を開き、保存食の封を切って食らいつく。ぱさぱさの保存食は口の中の水分を根こそぎ奪っていったが、ほんのりと甘くて美味しかった。  あとは、あの扉だ。  口のなかにあるものをごくんと飲み込み、様子を窺う。  地下室の扉に鍵はない、はずだ。少なくとも、僕は見たことがない。  歩み寄り、眺めてみても鍵穴らしきものはない。念のため扉に耳をつけて音を探ってみる。中の音が漏れないのに外の音が聞こえるのかと言われると微妙だけれど、とりあえず足音はしなかった。  兄は、まだ来ない。  急いてしまう呼吸を宥めて、僕は扉に取りつけられた大きな輪型のドアノブに手をかけた。ぐっと力を込めて、両手でまわす。  奇妙なドアノブは問題なくまわってくれ、見るからに重そうな扉からガコンと音がした。案の定、鍵がなかったことに安堵しつつ、厚みも重量もある扉を内側に開く。思えば、この扉を自分で開けるのは初めてのことだった。  自由が、みんなが、僕を待っている。  安堵が胸の奥からせり上がって、気管を塞いだ。その苦しささえもひどく喜ばしくて、目頭と鼻の奥がじんわりする。  父さん、母さん。僕はここだよ! ここにいる!  そう叫んで走り出したかったけれど、堪えた。まだ兄さんに見つからない方がいい。  取っ組み合いになったときに勝てるかわからない。兄さんは細腕だけれど、ひ弱なのは僕も一緒だ。  それに、兄さんといると僕は服従してしまいそうな気がする。閉じ込められ続けた地下室の生活で、そんな風に心をつくり替えられてしまったような気がするんだ。  素足で歩く床はひやりと冷たく、砂や土のざらざらとした感触をダイレクトに感じる。  逸る気持ちを抑えきれずに早足で階段を上がれば、懐かしの我が家だ。いや、地下室も我が家の一部には違いないのだけど、やっぱり暮らしていた場所とはすこし違う。  ああ、すごく久しぶりな感じがする。  細かな花柄のカーテン。光沢のあるキャビネット。絵画の飾られた壁。見慣れた僕の家。セレック街に構えられたマディール一族の屋敷だ。  けれど、なにかがおかしい。なんだか、変だ。  なんていうか、汚い。埃っぽいし、天井には蜘蛛の巣が張っている。マリベルさんが楽しそうに飾っていた花は、枯れて無惨な姿を晒していた。 「と、父さーん……? 母さーん……?」  小声で両親を呼んでみたが、返事はない。  やけに静かな屋敷で、鎖を床に引き摺る音だけが響いていた。僕の足首に嵌った足枷から下がる鎖の音が。  父さんの書斎に寝室、キッチンや僕の部屋まで探してみたけれど、二人はおろかマリベルさんの姿もなかった。胸に(わだかま)る不安な気持ちを服ごと握りしめ、とりあえず靴を履く。  外だろうか。僕を探しに行っているのだろうか。そう思って玄関に向かうと、ひどい土汚れが床に付着していることに気がついた。一定の間隔で続いているそれは、おそらく足跡だ。  母かもしれない。父かもしれない。そうっと辿ってみると、土の足跡はバスルームに向かっているらしかった。そういえばこのあたりはまだ探してなかったなと思い、バスルームから一番近い部屋の扉を開けてみる。 「うっ……!?」  その瞬間、僕の鼻腔を襲撃する異臭。堪らず鼻をつまんで中を窺い、僕はたじろいだ。  脱ぎ捨てられ、山になった服、服、服。  一枚だけ手繰り寄せてみると、見覚えのあるジャケットだった。でも、僕のじゃない。  重ねられ、皺になっているシャツもひっぱり出してみる。父さんのでもない。父さんの服にしてはすこし小さそうに見えるからだ。 「こ、れ……」  中には、右袖が赤褐色に染まったシャツもある。かぴかぴに乾いてしまっているそこは、よく見ると布が裂けているみたいだ。隣に落ちているジャケットも同様だった。  ここにあるのは、全て兄の服だ。どれも土や得体の知れないシミで汚れたものばかり。それに、ひどい臭いがした。  あまりの臭気に軽い吐き気を覚えながら、部屋をあとにする。鼻をつまんでいた指を離さなければよかった。  部屋には土だらけの靴も何足かあったから、この足跡は兄のもので間違いなさそうだ。一応バスルームの扉に耳をつけてみたが、物音も水音もしなかった。ここには父さんも母さんも、見つかりたくない兄さんもいないらしい。  土に埃にと、日々を暮らしてきた記憶のなかで一番汚れている廊下を歩いて、僕は玄関に立ち戻った。  とにかく、誰かに助けを求めよう。(かくま)ってもらおう。  扉を押し、隙間から入ってきた外の空気を吸う。家から一歩を踏み出す。  石畳を靴裏で擦り、風が肌をくすぐっていく久しぶりの感覚に表情を綻ばせながら、僕は顔を上げた。  そして、愕然とした。

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