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17話 Rita
誰よりも優れていて、誰よりも誇らしい兄さんの小さな欠点。いや、本当であれば欠点だなんてわざわざ呼ぶようなものではないのだけれど。
あの日を境に、兄さんはすこしだけ変わったよね。
街の小さな女の子の告白を受けたときの言葉が、『大きくなったらもう一度言ってくれるかい?』から『僕よりもずっと相応しい人がいるよ』になったんだよね。
本当に、本当に些細な変化。きっと、これを知っているのは僕だけだ。
ぷうっと頬を膨らませた五歳のマリーちゃんを申し訳なさそうに見送った兄は、これで合っているかい? みたいな顔をして僕に視線を投げていた。僕が大きく頷くと、ほっとした顔をして。マリーちゃんを慰めようと必死に声をかけているレイティくんを見て、目元を和らげて。
僕、嬉しかった。兄さんの役に立てて嬉しかった。兄さんが素直に僕の力を借りてくれたことが、嬉しかったんだ。
僕の記憶。こっそりと胸のなかで誇っていた記憶。
微笑ましい子供たちと兄の横顔を映していた世界は、唐突に、目の前が滲み溶けるようにして終わってしまった。
残ったのは、ただただ真っ黒な光景。そして、身体が震える寒さ。
「はぁ……、は、ぁ……。さ、む……」
頑張って押し上げたまぶたは異様に重くて、布団を手繰り寄せる腕は錆びた金属みたいに軋む。
寒い。本当に、寒い。
そして、とてつもなく寂しい。
僅かに頭を持ち上げて地下室を見回しても、誰もいない。静かで、物音ひとつしない。
倉庫だからそれなりにものはたくさんあるというのに、ひどく殺風景に見えた。なんだか、泣きそうになる。
「とう、さん……、かあさん……。ミィナ……」
痛む喉で声を紡ぐと、妙な音の咳がでた。
「兄さん……。マリベルさん……」
誰でもいい。誰か、そばにいて欲しい。
よれてきた服と布団をこれでもかというくらい巻きつけても、身体は全然あたたかくならなかった。寒さが心にまで入り込んで、どうしようもない不安感を募らせる。
寒いよ。誰か、誰か。寂しい。誰か……。
ふわふわする頭のなかには、それしかない。
ベッドに横たわり、布団の端を強く握りしめる僕。痛む喉で、掠れた声で、僕はか細く誰かを呼ぶ。まるで、雨のなか森に捨てられた子猫のように。
けれど、僕の声は誰にも届くことはない。ひどい寒気と孤独感をかかえながら悲嘆に暮れても、誰も来てくれない。
やたらと荒い自分の呼吸音を聞きながら目を閉じる。すると、すぐに頭のなかが重たくなった。
再び、泥に沈むような眠りに落ちていく。
悲しいほどの寂しさを胸にして。
「兄さーん! どこー? 兄さーん!」
どこかから、声が響いてくる。少年独特の高い声だ。
導かれるように、あるいはその声に縋るように、僕は泥のなかを泳いでいく。
「にい、さん……。どこ……。にいさん……」
「兄さーん! にーいーさぁーん!」
「兄、さん……」
だんだんと重なっていく、僕と少年の声。
掠れ声がぼやけて、ハリのある高い声ひとつになっていく。元気の漲 る溌剌 とした声だ。
重くて苦しくて、べたべたと纏わりつく泥を掻き分けて僕は進む。腕に絡みつく不快な重さは、前触れもなく唐突に消えた。
どうやら、泥の世界を越えたらしい。気がつけばそこは明るい空の下だった。
銀髪の少年が丘を駆け上がっている。どこ? どこ? と高い声を張りながらも迷いなく走っていく。
「兄さーん!」
「ここだよ。リタ」
空を揺蕩っていた僕の意識は取り憑くかのように少年と重なり、なんの違和感もなく小さな身体に収まっていった。
少年と同じものになった目線を上げれば、思い出の木の上に兄さんの姿が見える。まだあどけなさが抜けきらない、昔の兄さんの姿が。
「母さんがね、明るいうちに戻っていらっしゃいって。お夕食にしましょって」
そう言いながらも、僕は木の幹に指をかけて足を持ち上げる。すかさず兄さんが手を貸してくれて、登るのを手伝ってくれた。
すこしだけ高い位置にある太枝に二人並んで座り、まだぎりぎり白い太陽の光を受けて輝くセレック街を見下ろす。
僕らの暮らす国は夜更けが遅い。そのかわり、短い時間であっという間に暗くなるんだ。
遠い空の向こうが赤らみ始めているのを見ながら、僕は木を降りようとしない兄を不思議に思った。いつもならすぐに親のいいつけに従うのに。
でも、僕はこのとき、ラッキー! くらいにしか思っていなかった。遅くまで遊べるなんて特別な気分だ。兄さんと一緒なら叱られることもないだろう。って。
すこしずつ赤く染まりゆく街を見つめ、僕はぷらぷらと脚を揺らす。この木に登ったのは、これが初めてだった。
「明日、僕は父さんと一緒に領主会に参加する。マディール領の次期領主だと、紹介されるよ」
街に目を向けたまま、静かな声で兄は言った。
「へへっ! 兄さん、すごいね!」
この頃にはすでに、兄は僕の誇りだった。
兄が次期領主となることに異を唱える者はこの街にはいない。それくらい、兄さんは幼い頃から優れていた。その兄さんがついに、正式な次期領主として名をあげる。当時の僕には事の大きさが正確には理解できてはいなかったけれど、それがすごいことで素晴らしいことだとはわかっていた。
しかし、目を輝かせる僕とは裏腹に、兄さんの視線は地に落ちていく。
「これからは凛として、前を向いて、上品に生きていく。父さんのように。もう、木になんて登っていてはいけないんだ」
兄の言葉に、僕は思わず首を傾げていた。僕たちの父は確かに品はあるけれど、そんなに言うほどだろうか。
「父さん、ジョーヒン?」
「うん。父さんは、すごい人なんだよ。外で領主の仕事をしているときの父さんを見たことはあるかい?」
「うーん?」
正直に言うと、僕は父や母と一緒に出掛けても、すぐに好きな場所へ遊びに行ってしまう子供だった。街の人々と父さんが話をしているときもいつもなにか面白そうなものを見つけてしまい、気も漫ろ。話なんてまったく聞いちゃいなかった。
小さく唸って首を傾げた僕の頭を、兄はとても柔らかな手つきで撫でてくれた。
「知識も多いし、誰とどう話せば円滑に事が進むかをよく理解してる。誰がなにに困っているか、どうして困っているか、それを解決するためには領主としてなにをすべきか、すぐに答えを導き出す。いつもね、街と領地のことを考えているんだよ。それでいて、家族への配慮も忘れない」
僕を撫でた手を開き、じっと見つめる兄。なにか面白いものでもあるのかなと思って僕も覗いたけれど、そこには白い手のひらがあるだけだった。
「本当に、できるのだろうか。僕に、務まるのかな……」
街の人全員の暮らしを背負うなんて大役が、僕に。
消え入りそうな揺れる声で、兄はそう呟いた。
ああ、兄さん。そっか、そうだったんだ──。あの時の僕はまだ小さかったから。難しくて、よくわからなかったけれど。
兄さんはずっとプレッシャーを抱えて生きてきたんだね。ずっと、不安だったんだね。
神童と呼ばれ、エミリアさまなら大丈夫、エミリア坊ちゃんなら間違いないと言われ続けて。たった一人で苦しんでいたんだ。
ああ。ああ……。どうして僕は気付いてあげられなかったんだろう。
だって、震えてる。兄さんの白い手、震えてる。
こんなに、兄さんが苦しんでいるのに。辛い思いを伝えてくれているのに。
僕の身体は僕の意思で動いてくれない。震える手を握ってあげたくても、抱きしめてあげたくても、きょとんとして見ているだけだ。
これは、過去だから。僕の記憶でしかないから。
兄さん。兄さん。ああ、兄さん。
幼い僕よ、どうかお願い。兄さんを助けてあげてよ。今、兄さんの苦しみに気付けるのは君しかいない。
気付け。気付けよ。いつも兄さんに護ってもらってただろ。気付けよ!
どんなに心のなかで声を張りあげたって、怒鳴ったって、少年の僕には危機感ひとつない。
なんにも、わかっていなかったから。父さんと母さんと兄さんに護られてのほほんと暮らしてきたリタ・マディールは、なにひとつ苦労を知らないおぼっちゃんだ。
「──────!」
甘ったれでなんにもわかっていない僕が、なにかを言っている。
なんて、言ったんだろう。わからない。だめだ、憶えてない。
言葉を憶えていないのに、なぜだか兄さんの表情は鮮明に覚えている。
ほら。このちょっとびっくりした顔。それから、このあと。このあとに、兄さんは。
「──うん」
すごく、すごく綺麗に笑ったんだ。
微かに煌めく薄青の瞳を細めて。柔らかく口角を上げて。どんな神さまにも天使にも負けないくらい、うつくしく。
ぽけっと見惚れてしまった僕の前で、兄は曲げた指の背を使って目頭に触れていた。そうして、赤く燃えるような夕陽に目を向け、ゆっくりと瞬きをしたんだ。
「帰ろうか。遅くなってしまったね」
「うんっ! 僕、楽しかったよ。高いところって気持ちいいねえ」
そうだねと兄さんは一言呟き、空を仰いで目を瞑る。僕も真似して目を瞑って、二人で柔らかな風を感じた。隣から聞こえてくるゆっくりと息を吸って長く吐く音は、なんだか名残惜しんでいるみたいに思えた。
木から降りるときももちろん兄は手を貸してくれて。実はちょっとだけ怖くてドキドキしたけれど、兄さんが足をかける場所から掴む枝まで事細かに指示をしてくれたからなんとかなったんだよね。
「一人で登ってはいけないよ。危ないからね。約束してくれるかい?」
「兄さんと一緒なら、いい?」
そう言うと、兄はぱちぱちと瞬きをした。それから、ゆるく曲げた指を下唇にあてて、破顔したんだ。
「リタは、僕を救う天才だね」
兄さんが手を差し出し、僕が握る。手を繋いで兄弟並んで下った丘は、夕陽に照らされてとてもあたたかな色に染まっていた。
色が消えていくように夕暮れの記憶が終わっても、あの寂しさと寒さはやってこなかった。
ああ、あったかい。とても、とても。
再び放り出された泥の世界ですら、さらりと心地いい。
ゆっくりと浮上していき、やっぱり重たいまぶたを開ける。頭はぼんやりとしたままで、目の前はぼやけていた。
けれど、とても心が安らいでいる。
徐々に視界が像を結んでいく。そこにあったのは、慈しむような瞳と煌めく睫毛。頬に銀の髪がかかった、綺麗な面差しだった。
「に、い……」
しー、と吐息で僕を制止し、ごく近い距離で微かに首を振る兄さん。
「熱があるんだ。いまは、お眠り」
そう言って、僕の首下に潜り込ませた手で優しく頭を撫でてくれる。
僕は兄に抱きしめられて眠っていたみたいだった。あたたかかったのは、兄の体温。僕を泥の世界から掬いあげてくれた腕は優しくて、さらりとしている。
「にいっ、さぁ……っ」
兄は優しい微笑みを浮かべて、僕の涙を吸ってくれた。
あったかい。身体が。心が。兄さんに抱きしめられているところも、なかも。横腹につきそうなくらい持ち上げられている脚にも、兄さんのあたたかい体温を感じる。護られてる。
優しい、兄さん。エミリア兄さん。
僕の大好きな、兄さんだ……。どこまでも優しい兄さん。誰よりも優しい、兄さん。
「ふ、うぅっ……! 兄さん……! 兄さん……!」
僕は兄さんの素肌に縋って、泣いた。
すべらかでさらさらとした肌が僕の涙と嗚咽に濡れていく。兄さんは僕の首を引き寄せて、もっと濡らしていいんだよといわんばかりに胸へと押しつけてくれた。そうしてぽんぽんと後頭をあやしてくれたんだ。
すると、僕たちの繋がりが深くなる。穏やかに擦れた肉壁からどうしようもない幸福感が生まれて、僕は嗚咽と一緒に短く高い声を吐き出した。
「もっと、くっつこうか。寒くはないかい?」
抱えていた僕の左脚を慈しむように撫でてから手を離し、そっと背中に触れてくれる兄さん。鼻を啜りながら小さく頷くと、兄は綺麗に微笑んで『よかった』と呟いた。
「力を抜いて。そう、楽な姿勢になって。僕が抱きしめていてあげようね」
兄さんの胸から顔を離していくと、伸びていく背中を手のひらで押される。いつもはすこしひんやりとしている兄さんの手だけど、すごくすごくあたたかい。
「あった、かい。にいさん、あったかい……」
鎖を肌に引き摺らせながら、左脚を兄の腰に絡ませる。ほんのすこしだけ身体を浮かせて、誘 われるままに擦り寄っていけば、自然と体温を分け合うかたちになっていく。
「リタの身体もあたたかだよ。すこし、熱すぎるけれどね」
こつん、と触れ合う額と額。
白銀の睫毛に彩られた瞳には、優しい愛が宿っている。兄さん、心配してくれてる。
「その熱を兄さんに分けてごらん」
その目をゆっくりとまぶたで隠し、兄さんの顔が更に近づいてくる。顔の傾きに応じて髪が揺れ、ほの甘いシトラスが香った。僕も、目を瞑る。とても穏やかな柔らかさが唇に触れて、兄は優しく悪いものを吸ってくれた。
兄さん。兄さん。ああ、兄さん。
優しい兄さんが帰ってきてくれた。僕を助けに来てくれたんだね。
怖かった。寂しかった。
僕、僕ね、兄さん──。
「怖い、夢を見たの。すごく、すごく怖い夢……」
兄の首に腕を絡ませ、もっともっと身体を密着させる。
もうどこにもいかないで。置いていかないで。そう身体全体で告げるみたいに。
「兄さんが、僕にひどいことばかりする夢。本当に怖くて、辛くて、悲しかった……」
声が震えて、涙がこぼれる。
優しい兄さんを離してなるものかと、お尻の孔でも兄をきゅっと締めつけた。
「でも、夢だったんだろう? もう大丈夫。夢は覚めたよ。君の目の前にいる僕は、そんなひどい兄さんかい?」
涙の跡を何度も親指で拭ってくれながら、兄さんは穏やかな声で僕に言った。
「ううん……。ううん。僕の大好きな兄さんだよ……。優しい、エミリア兄さんだ……」
兄さんの頬に額を擦りつける。
頭を抱かれ、背中を抱かれ、交わらせたあの場所からも優しい愛を感じて、僕の胸は震えていた。
「さあ、お眠り。今度はきっといい夢が見れるよ」
兄はそう言って、すぅと息を吸い込んだ。
次の瞬間、穏やかに紡がれる小さな歌声。囁くような声量で歌われるそれは、聖歌だ。
昔、何度か駄々をこねて歌ってもらったっけ。兄さんのお歌は心地よくて、父さんと母さんがいない夜の不安を溶かしてくれたものだった。
兄さんの慈しむ心とあたたかな体温を感じながら、僕はそっと目を閉じた。
優しい天使が歌う愛の聖歌は、僕と兄さんの懐かしい思い出を次々と蘇らせてくれる。
そのなかで、僕はふと夕陽に照らされた少年に思いを馳せた。
ああ、そうだ。思い出した。
僕はあのとき、あの木の上で。
『僕がいるよ! 僕、兄さんとずっと一緒にいる!』
そう、言ったんだ。
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