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16話 Emelia

 泥水から浮かび上がるようにすっきりしない目覚めを迎えた僕は、霞む目を擦って辺りを見回した。僕の手足は鉛のように重たいままで、起き上がろうとするとあちこちが軋んで痛い。  ひどい倦怠感だ。頭もぼんやりしている。  どうにかベッドに手をついて身体を起こし、洗練された佇まいのうつくしい人を見遣る。兄は目を伏せて、タイを結んでいるところだった。しなやかに動く指は得もいわれぬ高潔さと艶やかさがあって、僕の視線を釘付けにした。  そうやって目を奪われているうちに、兄の身支度はあっという間に完了してしまったみたいだ。 「どこ、いくの……。エミリア、にいさん……」  地下室を出ていこうとする兄へ向けて投げた声は、妙にか細かった。なんだか喉も痛い気がする。 「起きたのかい? おはよう、リタ。寝起きの君もとても魅力的だね」  振り返った兄さんは嬉々とした様子で僕のもとへと歩いてくる。ああ、兄さん。兄さんは今日も、綺麗だ。 「そんな寂しそうな顔をしないで。僕はね、仕事をしなくてはならない。だから、君のもとを離れることを許してくれないかい?」 「仕、事……」 「そう。仕事。僕は領主だからね」 「りょう、しゅ……」  だめだ。頭がふわふわする。ぼーっとして、兄の言葉を咀嚼することができない。  恭しく手をとられ、そっと立たされる。億劫で仕方がなかったけれど、腰を抱かれて支えられると多少は楽だった。  右頬をひんやりとした手で包まれる。兄さんの瞳が熱っぽい視線を僕に寄越して、暫し僕らは見つめ合うかたちになった。 「まるで、夫婦みたいだね……。働きに出る僕。帰りを待つ君」  ふふっと照れくさそうに微笑んだ兄の顔に、うっすらと朱が差す。 「いってくるよ。僕の、愛しいリタ」  大人びたリップ音を鳴らして僕の頬にキスをする兄。腰と頬にあった手が僕の手首を柔らかに握って、身体とともにゆっくりと離れていった。  扉を開けて出て行く前に、兄はもう一度だけ振り返って。はにかみながら、くしゃっとした満面の笑みを見せたんだ。  なんだかその姿は、出掛けるときの父さんを彷彿とさせた。兄さんと父さんの顔立ちはそんなに似ていないのに。どちらかといえば、母さん似なのに。  重くて力が入らない身体を重力に従わせて落とし、僕は倒れ込むようにベッドに横になった。閉じたまぶたを開ける気にはならない。  とぷん、と底のない泥沼のなかに意識を沈ませる瞬間、ふと思った。  いってきますは頬にキス。去り際の年甲斐のない無邪気な笑顔。  あれは、父さんの習慣だ。習慣といっても、息子である僕たちにはしない。もちろん、家政婦のマリベルさんにも。母さんにだけする、父さんの癖。父ではなく、夫になったときの表情。  だから僕は兄さんを、一瞬父さんみたいだなんて思ってしまったんだ。  そう気付いたのとほとんど同時に、僕は眠ってしまったのだと思う。  次に目を開けたとき、そこは地下室ではなかった。僕の部屋でもなかった。  目の前には椅子に座って机に向き合い、ひたすらにペンを走らせている兄さん。几帳面に整頓された本棚には難しそうな書籍がびっしりと並び、深みのあるブルーがあしらわれたカーペットは昔から変わらないまま。すぐインク瓶をひっくり返したり、泥んこ汚れをつけてしまう僕とは違って、兄さんはものをひとつひとつ大切に使う人だった。  擦り切れてむせてしまっても、『気に入っているから』って父さん伝いに職人さんに手直しをしてもらって。エミリア坊ちゃんは物持ちがいいから商売あがったりですよおなんて冗談を言われると、申し訳なさそうに眉尻を下げていたんだっけ。 「ねえ、兄さん。手伝おっか?」  僕の意思とは関係なしに、勝手に口が開く。 「僕の字でもバレないよ。これと一緒のこと書いておけばいいんでしょ?」  僕がつまんで持ち上げたのは一枚の便箋だ。流れるようにうつくしく、それでいてすこしだけ角が尖る癖のある兄さんの字はいつ見てもエレガント。  内容は見なくてもわかる。なんとなく覚えているからだ。これが現実ではなく夢であることを、僕はすでにぼんやりと自覚していた。  僕は、記憶を夢にみている。 「それはいけないよ。リタ。僕なんかに好意を寄せてくれた方々に、ちゃんと誠意をもって返事を書かなくては」 「僕なんか、って……。兄さん……」  これには流石に溜息が出てしまう。  当然だけれど、兄はモテた。見た目良し、性格良し、頭良し、家柄良し。モテない要素を探せという方が無茶だ。  そんな完璧人間が『僕なんか』だなんて、それは最早嫌味だよ。兄さん。 「……どうせ全部断るんでしょ?」  机からこぼれ落ちてしまいそうな量のラブレターは、前に見たときよりも山が高くなっている。どう見ても返事を書く量が追いついていない。  兄さんが次期領主として社交の場に登場してからというもの、マディール邸には毎日サンタクロースがやってくると街中で噂になった。その正体は、袋いっぱいの手紙を担いでくる郵便屋のエルメールさんだ。父さんと兄さんがぺこぺこ頭を下げていたのをよく覚えている。  あとで聞いた話だけど、父さんの方にも山のような縁談が舞い込んできていたらしい。『御子息を是非、我が娘とっ!』ってね。  マディール家の貴公子がセレック街の貴公子に名を変えると、モテモテ範囲が貴族規模になってしまったらしい。  いつか父さんの跡を継いだらマディール領の貴公子になって、国規模でモテるのかなと思うと遠い目をしそうになった。その頃には流石に兄さんも結婚していることだろう。そうでないと、兄さんは手紙に埋もれる生活を余儀なくされそうだ。 「僕はまだまだ未熟者だからね。とてもじゃないけれど、恋愛にうつつを抜かしていられない。街の人々のために、いい領主になりたいんだ」  兄さん曰く、学ぶことはそれこそ山のようにあるという。本当はこうして返事を書いている時間すら惜しいはずだ。  それでも、兄はひとつひとつにとても丁寧な返事を書く。相手の言葉を引用して、決して素っ気なくならないように細心の注意を払っている。そんなところが、実に兄さんらしいと思った。 「リタが誇れる、兄さんでいたいから」  ほんの僅かな時間だけ僕に視線を向けて、また手紙の返事に追われ始める兄。  兄さん。兄さんはいつだって僕の誇りだよ。  ただね、兄さん。ちょっとだけ言わせてほしい。 「僕、よくわからないけどさ。はっきり断るのも優しさだと思う」  兄が書いたうつくしい便箋と、その返事元と思われる手紙を手に取って、僕は生意気にも呆れ顔をしてみせていたと思う。この頃はまだ彼女いない歴イコール年齢を絶賛更新中だったくせに。 「だってこれさ、数年後ならオーケーしますって書いてあるように見えるよ」 「……え?」  そんな馬鹿なと顔に書いて、僕を振り返る兄さん。肩に触れるかどうかの髪がランプの光を反射してさらさらと流れていった。 「『今の僕はとてもではありませんが、貴女のような聡明な女性とは釣り合う男ではなく……』。これも、まずいと思うよ。わたしの為にまだ男を磨いてくださるの!? エミリアさまっ! って僕なら思っちゃうよね」  改めて思い出すと、僕の裏声は気持ち悪かった。まぁ、それはともかく、問題は兄の文だ。  エミリア兄さんは、本当に優しい。誰より優しい。この世に優しい人選手権があるなら是非推したいし、優勝間違いなしだと思うくらいに優しい。  その優しさが完全に仇になっている。相手を気遣いすぎて、思わせぶりな文章になってしまっているんだ。 「とりあえず、断る文章に褒め言葉入れるのやめた方がいいんじゃない?」 「それは……。……そう、かもしれないね」  兄さんはすこし難しい顔をして、口元に指をあてた。 「でも、ちょっと意外だったなー。兄さんでもお世辞とか言うんだね」 「うん? お世辞?」 「知らない人に聡明、とかさ」  兄さんって実はタラシ? とこの時は一瞬思ったけれど、僕はすぐに考えを訂正することになる。 「お世辞だなんてとんでもない。この手紙をくれたアメルダ嬢はね、とても世界情勢に詳しいんだよ。所見も的を射ていて、僕もとても勉強になったんだ」 「……この、『優雅な貴女』は?」 「それは……? ああ、エルダー伯爵の御息女だね。彼女は淑女の振る舞いを教える教室を開いていてね。先生をしているだけあって、とても振る舞いが優雅で……」 「この気合い入りまくりな封筒の人は?」 「メリア・シェレア夫人かい? 最近紙切りというご趣味を始められたそうだよ。いつも小さな作品を同封して下さるんだ。手先が器用……」 「夫人って!! 既婚者!!」  思わず僕は頭を抱えてしまった。  兄の頭にはこの山盛りラブレター全員の顔や特徴、話した内容までが全部入っているに違いない。記憶力が良すぎるのも困りものだ。 「夫人にはっきりお断りしたよ」 「……やっぱり告白されてたんだ。ちなみに、なんて言ったの?」 「ご主人ほどの紳士をさしおいて僕が近づくなんて、神がお許しになりません。嫉妬なさいます。って」 「…………うん。なんか、すごいね。兄さん……」  兄の表情は真剣だ。この綺麗な顔でそんな歯の浮きそうな台詞を言われたメリア・シェレア夫人は、さぞ気分が良かったことだろう。  兄は〝天然の〟タラシだった。きっと、おそらく、いいや間違いなく、自覚をしてない。  国民性としては普通でも、兄さんの容姿は特別だ。弟が言うのも何ではあるけれど、この見た目でこの声で、またはこのエレガントな字で褒められた日には、女性はみんなイチコロだ。多分。  ふと、僕はとてつもなく嫌な予想をしてしまって、おそるおそる言葉を口にしてみた。 「あの、さ。綺麗ですねとか、貴女はうつくしいとか、そういうことは言ってないよね? 流石に、大丈夫だよね?」  兄は答えない。顎を引いて指を置き、考え込む素振りをみせて──。  薄青の瞳が、すっと逸らされた。 「しかしね、リタ。それは社交界のマナーであって、挨拶みたいなもので……」  僕は確信した。兄さんは自分で自分の首を絞めている。  兄は自分がどれだけ魅力のある人間か気付いていない。それが何人の女性を虜にしてしまったかを考えると、なんだかものすごく怖くなってしまった。 「だめ! 兄さん! 自覚しよう!? 兄さん、すっごくいい男だから! 声かけた人、褒めた人、みーんな兄さんのことを好きになっちゃうから!」 「リタ、そんな冗談……」 「ちょっと大袈裟でも、それくらいで思っておかなきゃだめだよ!」  溜息が出てしまう。  兄さん、とっても頭がいいのに。どうしてこんな僕でもわかることに気付けないんだろう。 「もうさ、いっそ返事書くのやめたら……?」 「それはできないよ。言ったろう? 誠意をもって、答えを返さないと」 「思わせぶりはなしで?」 「なし、のつもりだったのだけど……」  自分の書いた手紙を読み返しながら、兄は難しい顔をしている。 「それならさ、僕、添削しようか? 恋愛経験なんか本当は全然なんだけど……。ちょっとは力になれる……と思う」  偉そうな口をたたいていたことが急に恥ずかしくなってきて、尻窄まりになる僕の声。  兄さんはそんな僕を見上げながら困ったように眉尻を下げて、『お願いできるかい?』って言ったんだ。 「告白系は全部お断り、でいいんだよね?」 「そう。ただ、あまり傷付ける言葉は使いたくないんだ」 「わかってる。任せてよ」  議論した結果、断り文句は基本的に『お気持ちは嬉しいのですが、今はどなたとも交際するつもりはありません』で落ち着いた。僕的にはもうすこし素っ気ないくらいがいいと思っていたのだけど、兄さんがそれじゃ相手に不義だと首を横に振ったんだ。  考えてみれば、兄さんは未来の領主だ。確かにあんまり印象を悪くするのもよくないかもしれない。  兄さんが書く。僕がケチをつける。直す。兄さんが首を傾げる。直す。清書する。  実はそのサイクルが結構楽しかったのだけど、三通分ほど書いたところで、僕はお役御免になってしまった。僕とは違って覚えのいい兄さんは、あっという間に添削を必要としなくなってしまったのだ。  インクを乾かすがてらに広げてある便箋を手にとる。最早確認と興味で読んでいるだけの手紙は、やっぱりどれを見ても字が綺麗だった。 「そういえばさ、兄さんって好きな人いないの?」  手持ち無沙汰になってそんな問いを投げてみると、ぴたりと止まる兄さんの手。すこしだけ横を向いた顔。僕の方を見る、流したような目。  そうだ、あの時の兄さんの目は、なんだか変わった色をしていたように見えた。晴れた青空みたいないつもの薄青じゃなくて、そう……。なんていうか、もっと深い色。翳った、というか、雲がないのに曇天になったような……。  その色の正体を確かめるよりはやく、兄は便箋に向き直ってしまった。ペン先からぽとりと落ちたインクが、尖った文字角の縁に大きな染みをつくってしまっている。 「いないよ」  平坦な声で、兄は言った。  その表情は僕からは窺い知れなかったけれど、ペンを置き、捨てる便箋さえきちりとたたむ動作はひとつひとつがとても丁寧で、兄さんらしく見えた。 「えー、ほんと……」 「いないんだ」  くしゃり、と、紙を握る音がやけに響く。  ちょっとしつこかったかな。兄さん、嫌だったかな。そう思うと、なんだか空気までもが重く不穏に感じられてしまう。さっきまではなんとも思わなかった静寂が辛くて、僕は咄嗟に、開いてある兄宛の手紙を手に取った。 「え、えーっと? 次の手紙は? 誰さん?」  すっとぼけたような、明るい声を出して。 「それは告白の手紙ではないよ。普通の文通相手」  帰ってきた兄さんの声も、いつも通りの柔らかくて優しいものだった。 「へー。女の人?」  ほっと胸を撫で下ろしながら手紙を読んでみる。ちょっと丸みの強い文字だ。 「そうだよ。社交の場で何度か話をさせてもらった方なんだけれど、病弱で、普段は屋敷から出られないそうだよ。毎日が寂しくて、文通できる相手が欲しいと言っていてね」 「…………」 「是非僕に、と。本当は女性からそんなことを切り出させるべきではなかったのに。僕は本当に未熟者だよ」  口の端っこがひくりとするのを感じながら、もう一度手紙に目を落とす。急に便箋にあしらわれたピンク色がどぎつく思えてきた。  兄は信じたのだろうか。病弱な深窓の令嬢がわざわざ社交の場にやってくるなんて、本気で思っているのだろうか。 「それ、多分嘘だよ。兄さん……」  新しい便箋を取り出してエレガントな文字を綴っていた手が、もう一度ぴたりと止まる。覗いてみると、丁度『ご病気がすこしでも軽くなりますように祈っています』と書き終えられたところだった。  今度はインクが滴らないようにペンをスタンドに立ててから、兄は身体ごと僕の方を向く。 「スマートな大人になる日は、遠いね」  兄はそう言って、困ったような笑みを浮かべていた。  いつもならそんなことないって言うところだけど、この時ばかりはちょっとだけ、頷いてしまった。

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