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第8話 漂泊
そろそろ帰ろうかという段になって、このまま帰ったら今夜もまた三人で泊まる羽目になるのではないかと気づいた。三人で泊まるということは当然セックスもなしだろう。ということは、俺は何の代価も払わずにタダで准一のアパートに寝泊まりすることになってしまう。しかも二晩連続でだ。
こんな状況は初めてだった。許されるのだろうか。准一が許すかどうかより、俺のプライドが許さない。考えれば考えるほど気分は沈み、足取りは重い。帰りたくない。
「悪いが用事を思い出した。ここから先は自力で帰ってくれ」
最寄りの駅に着いたところでそう切り出す。
「用事ぃ? もう暗いのに」
「そうだ、急用だ。きっと遅くなるから、准一に訊かれたらアンタから言っといてくれ」
遼馬さんは怪訝な表情を浮かべていたが知ったことじゃない。俺はさっと背を向けて逃げるようにその場から離れた。
しかし急用ができたなんてのは真っ赤な嘘である。行く当てもなく、年末商戦でにぎわう繁華街を彷徨った。ここのところ出会い系のアカウントは放置しっぱなしだし、街角に立って客引きなどもしてこなかった。その必要がなかったからだ。
今さら別の男に買われるのは癪だが、いつまでも真冬の街を徘徊しているわけにもいかない。陽は落ちて、これからどんどん冷えていく一方だ。夏ならいいが、冬は公園のベンチで野宿もできない。凍死してしまう。苦渋の決断であったが、俺は実家へ戻る方を選んだ。
二週間ぶりくらいに顔を合わせた母親は毎度のごとくヒステリックに騒ぎ立てたが、俺は取り合わずに自室へ引っ込む。床もカーペットもベッドシーツも枕カバーも、使う人間がいないのに異様なくらい清潔にされている。こういうところが、虫唾が走るほど嫌いだった。
俺の帰宅を知った兄が部屋までやってきてチョッカイを掛けてくるが、こちらも適当にあしらった。いくら金を積まれたとしても、今は誰にも触られたくない。そういう気分だった。兄は不満げな態度を隠そうともせず、万札をチラつかせてしばらく粘ったが、俺に足蹴にされたせいか、舌打ちを残して引き下がった。
これだから実家は嫌なんだ。戻ってくる度、もう二度と戻ってくるまいと天に誓う。しかし、やはり俺の帰る場所はここしかないのだろう。父と兄は血の繋がらない義理の家族だが、母親に関しては正真正銘実の親なのだから。母親がここに留まる限り、俺はまたここへ戻ってしまうのだろうという諦めがある。
翌朝、日の出と共に家を抜け出した。向かいの家の大型犬が吠えている。行く当てがないのは昨日も今日も変わらない。何も考えず駅まで歩き、自販機で温かいココアを買って飲み、構内の待合室で居眠りしながら時が過ぎるのを待つ。
起きてみてもまだ朝なのでうんざりし、気分を変えようと電車に飛び乗る。乗ってしまってから、准一の家の最寄りへ向かう電車だったことに気づき、慌てて途中下車する。
ドンキで暇を潰し、本屋で立ち読みし、ドリンクバーだけでファミレスに居座り、最終的に落ち着いたのは結局馴染みのネットカフェである。無料のシャワーを借り、さっさと寝てしまう。少し寒いが、実家よりは幾分か安心して眠れる。
翌日も、街は朝からにぎわっている。街も人も浮き立っていて、俺の苛立ちは倍増した。今日も今日とて行く当てがない。手持ちの金もあまりない。こんなことなら、昨晩兄の相手をしてやればよかった。
歓楽街のど真ん中にある緑の多い公園に立ち寄る。遊具はなく、がらんとした公園である。夜なら売春婦が客引きしていたりするのだが、今は昼間なので閑散としている。ホームレスの男が鳩に餌をやっているのを横目に、俺は夜を待った。夜になれば、援交目的の男もやってくるだろうと踏んでいた。
だが、目論見は大いに外れる。寒いせいか、俺の艶めかしさが足りなかったのか――やはり寒いせいだと思うが、誰一人として俺に目もくれなかった。おかしい。以前なら、引く手あまたとは言わないが、そこそこモテていたはずなのに。
目の下までマフラーに埋まっても、夜の寒さは骨身に凍みる。今夜も柔らかいベッドは諦めて、近くのファミレスに飛び込んだ。不審な目で見られながらもフライドポテトとドリンクバーを頼んで、そのまま数時間居座った。
明け方近くなって店は閉店し、また外へ放り出される。陽が昇るにはまだ早く、濃い霧が街を覆っている。輪郭がぼやけてはっきりせず、どちらへ進めばいいのかわからなくなっていた。
ふと、無意識のうちに准一のボロアパートの付近までやってきていたことに気づく。そういえば、俺は一体どうしてここに帰るのを避けていたのだろう。そろそろ戻ってもいいのではないか。あの部屋に帰って、いつも通りセックスして、准一の手料理でも食べて、暖かい布団で眠ってもいいのではないか。
そう思った途端、足が勝手に走り出していた。真っ白い空気の球を吐き出しながら、目の前の道を直進し、突き当たりを左に曲がって二軒先を目指す。息苦しくなってマフラーを外し、赤錆だらけの薄汚れた階段を軋ませながら駆け上がる。玄関の前、息を切らして合鍵を取り出す。
ゆっくりと、重い扉を開ける。部屋には明かりが灯っていないが、何やら音が聞こえた。屋内なのに、薄霧が立ち込めていた。
「おー……おかえり」
こちらを見もせず、准一が言った。
半纏を着て炬燵に当たり、音量を絞ってテレビをつけているが熱心に見ているわけではなさそうだった。テーブルの上には焼酎の瓶、ビールの空き缶、灰皿と山盛りの吸殻が載っている。手に持ったコップには透明の液体が半分ほど残っており、吸い始めらしい煙草を口に咥えている。
普段は家で一人で飲んだりしないし、煙草だって一日五本も吸えば多い方だというのに、今日は一体どうしたのか。そもそも日の出前から起きているなんてのは珍しいどころの騒ぎじゃない。いや、この状況ではむしろ、昨日の夜からずっと起きていると考える方が妥当かもしれない。
「……遼馬さんは? 帰ったのか?」
「おめー、来て早々あいつの心配すんのかよ。……部屋借りられたらしいから、荷物持って出てったよ。しばらくはこっち住むってよ」
「そうか」
准一の言葉の端々に、そこはかとない機嫌の悪さが窺える。吸いさしを灰皿に押し付け、呆れたような溜め息を漏らした。
「で? 何しに戻ってきたわけ」
「何しにって……」
いつも通りセックスして、飯食って眠りたいだけだ。しかし、まるで戻ってくるなとでも言いたげな准一の口調に対抗してしまう。
「……アンタ、そろそろ溜まってる頃合いじゃないかと思ってな。気を利かせたんだ」
「へーェ。そりゃあ気が利くな」
そう言うや否や、敷きっぱなしの冷たい布団に倒される。半纏を脱ぎ捨てて俺の上に圧し掛かる准一は不敵な笑みを浮かべていたが、間近で見ると肌荒れと隈が酷く、非常に疲れているように思われた。自分でもそのことをわかっていたのか、准一は急に体を起こして「やっぱやめた」と言う。気の抜けたような声だった。
「先生ねぇ、今すんげぇ眠いんだよね。こんなんじゃ勃つモンも勃たねぇし出るモンも出ねぇわ」
しかしそうなると、俺はここにいられなくなる。出ていこうと思って身をよじると、なぜか背後から抱きすくめられて布団を被せられた。
「っ、何すんだ」
「うん? ちょっと寝て回復したらしようと思って。起きたら覚悟しとけよ。あ、それから、年越しはカウントダウンエッチするって大分前から決めてっからな。決定事項だかんな。お前、へばらずにちゃんと付き合えよ」
「なっ……なんでそうなるんだよ」
嫌がってじたばた暴れるが、どこかでほっとしている自分もいる。少なくとも正月まではこの家にいられる。
すごく眠いと言っていた通り、准一はあっという間に寝息を立て始めた。耳の後ろから吹きかかる息は、アルコールと煙の混じり合った酷い匂いがした。
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