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第12話 悪夢②

 12悪夢②  何事もなかったかのように、日々は平気な顔をして俺の目の前を通り過ぎていく。これから一生、太陽は暗いままなのだろうか。そんな疑問を抱えつつ、俺は再び学校へ通い始めた。景色はどうせ灰色だし、教員や級友の声も耳に入らないので、案外気楽だった。  だけど、きっと顔色が悪かったのだ。ある時担任の教師に呼び出された。義父よりは若いが中年の男性教師である。人が寄り付かない、校舎の隅っこにある特別教室で面談を行った。「何か悩み事でもあるのか」と尋ねられ、俺は少々迷ったけれど「何もありません」と返した。 「何もないことはないだろう。ずっとうつむいたままで、具合も悪そうだぞ。先生に言えない悩みなのか?」  膝を突き合わせて、教師は俺に言い含める。 「せっかく戻ってきたと思ったらそんな調子で、クラスのみんなも心配してるんだ。悩みがあるなら言ってみなさい。秘密にしてほしいならもちろん、決して口外しないと約束するよ」  教師はおもむろに立ち上がると、ドアを施錠した。振り返って微笑む。 「ほら、これで誰に聞かれる心配もない」  俺もにこりと愛想笑いをした。  さて、だからといって事実をべらべら喋る気にもならない。しかし、誰かに話を聞いてもらいたいというのもまた事実である。 「……新しい家族と、うまくいってなくて」  当たり障りのないところから話し始めた。教師は相槌を打ちながら傾聴する。 「何と言うか、疎外感があって……俺だけ、いつまでも家族の一員になれなくて……」 「年の近いお兄さんがいたろう? やっぱり仲良くできない?」 「兄さんは……」  顔を思い出すだけで動悸がする。いまだ残暑は厳しいのに、まるで雪山で遭難した人みたいに全身が強張る。震えを止めようと、自分で自分の肩を抱いて縮こまった。 「あ、兄とは……うまくいってません。喧嘩もするし、ほとんど話もしないし、何考えてるのかわかんなくて」 「喧嘩って、手が出る喧嘩か? お前には分が悪いだろうに」 「あ……えと……そう、です。手が出る喧嘩……」  喉が引き攣って声まで震える。教師は心配そうに首を傾げた。 「よっぽど酷い喧嘩をしたのか?」 「ちが……」  違う。全然違う。だけど声が出ない。動悸に加えて目眩もする。 「どうした? そんなに怯えて」 「ぁ……兄に、体を、触られて……」 「うん?」 「変なことを、されて、それで……」  それだけ言うのが精一杯だった。認めたくなかった。男に犯された、などというどうしようもない現実を。  犯される、ってのはああいうことなのだ。セックスとはああいうものなのだ。痛くて惨めで、魂を踏み付けにされるような行為だ。俺は自分の身を犠牲にして知識を得た。 「変なことって、具体的にはこういうことか?」  教師の手が、俺の膝に触れた。制服越しに撫でられる。 「先生?」 「お兄さんにもこういうことをされたのか?」 「わ、わかりません」 「わからない?」 「あの、くすぐったいので……」  やめてほしいと言っても、教師の手は止まらなかった。太腿の肉を揉むような手付きでしつこく撫でられる。 「お兄さんにはもっと変なことをされたか? 言ってみなさい」  教師の手は、とうとう股間に辿り着く。俺は反射的に足を閉じて、股を手で隠した。何をするんだ、と言いたくても声が出ない。 「お兄さんに何をされたのかと訊いているだけだぞ。答えられないことなのか?」  教師は卑しく口元を歪める。あの時の兄の笑顔とそっくりだった。  途端に頭が真っ白になって、この場から逃げ出すことしか考えられなくなる。この教師も怖い。何となく嫌な感じがする。早く、早く逃げなくては。  ここは三階だから窓から飛び出すわけにはいかない。だとすると普通にドアを開けて出ていくしかないのだが、さっき鍵をかけられてしまったからその分手間だ。もたもたしていたらたちまち捕まってしまうだろう。  色々と思案を巡らせはしたが、結局逃げ出すことは叶わなかった。いきなり立ち上がった教師に抱き抱えられ、机の上に組み敷かれる。ゴツゴツとした木製の大きな机だ。起き上がろうとがんばっても押し戻されてしまう。纏わりつく教師の手を振り払うことができない。 「も、いいです、帰ります」 「何がいいんだ。お兄さんに何をされたのか、体を調べさせなさい」 「やっ、いやです、はなして」  蛇に睨まれた蛙のごとく身がすくみ、抵抗することもままならない。それをいいことに、手際よく服を脱がされる。 「パイパン……いや、毛が生えていないのか。お前、もしかして精通もまだか? 見た目に違わずかわいいじゃないか」  兄のした行為をなぞるように、教師も同じ行動を取る。前回と違うのは、この先に何が起きるのかを知っているという点だ。体を撫でられたり舐められたりしている段階で、この先に待ち受ける痛みと屈辱を思って泣いた。  望むと望まざるとに関わらず、俺の体はこの行為に慣れていたらしい。前回ほどは痛くなかったし、出血も少なかった。しかし不快感はそれ以上である。ひげが汚く、口が臭くて、何度も吐きそうになった。 「……教頭に言い付けてやる」  一方的に蹂躙されるだけの行為がようやく終わった。半裸のままで机の下にうずくまり、俺は教師に向かって言った。 「そんなことをして何になる。お兄さんとのことがバレてしまってもいいのか」 「そんなの先生には関係な――」 「お父さんに口止めされているんだろう?」  その唐突な一言に、俺は激しく狼狽した。義父に口止めされていることは喋っていないのに、どうして知っているのだろう。 「お父さんに頼まれたんだ。お前のことをよーく視ておくようにってな。おいたをするようならちょっとくらい痛めつけても構わない、とお墨付きもいただいている」  そう言って、教師は意地悪く笑った。深い谷底へと叩き落とされたような気分になる。落ちたら二度と這い上がることのできない断崖絶壁の谷底だ。目の前が真っ黒に沈む。  まさか、あの狡猾な義父が裏で手を回していたということか。そんなにするほど実の息子がかわいいか。それほどまでに俺が憎いのか。どこまで追い詰めたら気が済むのだろう。この教師も、最初から全てを知っていたのか。知っていたくせに、心配するふりをして俺に近付いたのか。知っていたからこそ、俺を犯したのか。  どこに救いを求めることもできない。八方塞がりだ。俺はただの中学生で、どうしようもなく無力で孤独だった。 「こういうのは一個バレると芋づる式に全部バレるもんだ。お兄さんとのことを秘密にしておきたいなら、今回のことも秘密にしておくのが賢明だぞ」  息もできず、言葉も発せず、俺は虚空を見つめていた。教師は何を思ったか、懐から五千円札を出して俺の手に握らせる。 「一応渡しといてやる。お父さんからの小遣いだとでも思って大事に使え」  教師は教室を去った。俺は握らされた皺くちゃの五千円札をじっと見る。  思いがけず大金を手にしてしまった。これだけあれば焼肉に二回行ける。美容院で髪を切れる。私服を何着か買える。高くて手が出なかった大判の画集や図鑑が買える。行ったことはないけど、東京ディズニーランドにだって行けるんじゃないのか。五千円の使い道に思いを馳せ、嬉しくなって心が浮き立つ。  ああ、そうか。そうだったんだ。俺の体は金になるんだ。痛くて惨めなだけのセックスを大金に生まれ変わらせることができるんだ。これが世界の真理だ。世界はこうやってできているんだ。絶望の淵にて、一筋の鈍い光を見た気がした。

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