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第1話
今年の梅雨はなんとも梅雨らしくない。じめじめとした空気がのっぺりと伸び広がるのは例年通りだが、なんせ雨が降らない。日中は、初夏というより真夏の日差しが突き刺すように降り注ぐ日が続いていた。
新聞やテレビのニュースを見ていると、都内だけでなく全国各地でも雨が降らず、干ばつにより農作物に被害が出ているそうだ。野菜や果物の価格が高騰するだろうと懸念される中、俺も全国の奥様方同様、「どうしたものか」と腕を組んで悩む事態となっていた。
時刻は夜の7時半過ぎだった。
日本一のゲイタウンである新宿二丁目には、やや涼しく、それでいて蒸れた夜風がゆるりと吹いている。俺――辻 馨、旧姓 井沢は、ノーメイク、メンズ服で街中を歩いていた。
この街は俺のようなゲイが、自由闊達に過ごせる場所だ。大学生の頃からほとんど毎日通っているので、街自体が第2の自宅のようだった。夜はまだ更けていないので、人通りはそれほど多くはないが、誰かしら知り合いとすれ違い、立ち話を少しして別れて、を何度か繰り返していた。
この街で女装バーを経営し始めて、早くも3年が経過した。
こじんまりとしたシンプルな店で、現在は俺を含めた3人の従業員で切り盛りしている。ふたりの本名は伏せておくが、大学生の紫穂ちゃんと、俺と同い年でゲイ雑誌の読者モデルもしている梨々子。週末の比較的お客さんが多い時間帯はふたりでカウンターに立つが、だいたいはひとりで接客し、お酒やおつまみを作って提供できるほどのキャパシティの店だった。
6月22日の金曜日である今夜は、非番だった。まだ早い時間なので、梨々子ひとりで店を回しているはずだ。8時半には大学のサークル活動を終えた紫穂ちゃんがシフトに入り、続々と来店する常連さんや一見さん、時々外国人の相手を梨々子とそつなくこなしてくれるだろう。
なので今夜は客のひとりとして、店に遊びに行こうとしていた。
それに、数日前にネットで注文したレディース服が午前中に届いた。服屋に足を運んで、自分で着るための服を買う勇気がないので、毎回通販を利用している。届いてみないと当たり外れが分からないのがネックだが、今回については当たりだった。
もちろん、私服ではない。仕事着だ。なので、お店の休憩室兼更衣室兼化粧室に吊っておこうと思い、靴屋の紙袋に入れて持ち歩いていた。
靖国通りへと抜けていく少し手前に、築15年ほどの細い雑居ビルが建っている。その地下1階に店が入っている。薄暗い階段を降りていけば、ローズピンク色の照明によって次第に足下が明るくなっていく。塗装がやや剥げてきた鋼製の軽量ドアの上に、洒落た筆記体のフォントで作られたネオンサインが掲げられていた。
《ローズ・ブルーム》。これが、ここが俺の店だ。そして俺は、鼻歌まじりにドアノブを捻った。
「――……待って。これ、どういうこと……」
入店した瞬間、そこには我が目を疑う光景が広がっていて、ふらりと立ちくらみを起こしそうになった。
カウンターの奥には、スカイブルーのVネックシャツを黒のクロップドパンツにインし、シンプルなイエローゴールドのネックレスを首元に光らせ、普段と同じナチュラルメイクをした梨々子がいて、「やっほー、馨ー」と呑気に手を振ってくる。それはいい。それは、いつも通りだ。
問題はカウンター席にいるふたりの客だった。「あら、馨ちゃん! やっと来たわね!」とはしゃいでいるのは、俺がこの店を立ちあげる以前に勤めさせてもらっていたゲイバーのマスターであるヒロコさん――通称ママ。今夜はハニーブラウンのミディアムボブのウィッグをつけ、完璧にメイクをし、ノースリーブの紺色のオールインワンに白いカーディガンを羽織っていた。年齢は「ひ・み・つ」らしいが、日々の念入りなスキンケアや2週間に一度のエステを長年欠かさず続けているため、年齢不詳な美貌を保ち続けていた。今時の言葉でいうなれば、カノジョは美魔女だ。
そして、そのとなりにいたのは――
「馨ぅー、待ってたわよぉ」
アッシュブラウンのウェーブがかかったロングヘアのウィッグ、ゴールドのグラデーションアイシャドウとアイライナーで彩られた目、マスカラで長さ、ボリュームともに足された睫毛、オレンジピンクのチークがほんのりと差された頬に、サーモンピンクのリップがたっぷりと塗られた唇。
そして、シフォン素材で透け感のある黒のAラインワンピースにゴールドのミュール。
夫である辻 朔太郎は、オンナとなって俺の前に現れたのだった。
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