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第36話

 仁作の機嫌を損ねて冷や汗を掻くことなど未曾有の経験で、次第に血の気を引いて脳まで血液が巡らないというエラーが生じ始める。  月の宵でした侮蔑の眼差しとは違った、心を通わせまいと頑なに拒絶しているのだ。  抱く手は力強いのに、視線をこちらと交わらせないので、鴬の目は魚のように右往左往に泳ぎ続けて止まること知らない。 (このままだとアバズレと破談される前に、僕が仁作と離縁させられちゃう——っ無理無理無理やっぱり無理。それだけはダメだよ、どうしても譲れない!!)  そこで、親指の爪をかじかじとしてながら、USBの在り処を思案する。そこに当時8歳であった鴬が撮影した映像のデータが含まれている。  「おい、ついたぞ」の声で上の空から現実へ引き戻される。 「今日は仕事終わらせてあるから、このまま自宅に帰る」  ドライバーにそう言い残して、抱いていた腕を解いて鴬を1人差し置いて、車内から降りてズンズンとエントランスの向こうへと消えて行った。  気まずそうにこちらを窺う部下に構うことなく言葉を呑み込んだ。 「鴬さん……」  先に口火を切ったのは部下。 「一緒に行ってください。どうして担がれてきた貴方が口を聞いてもらえていないのかは分かりかねますが、兄弟喧嘩は誰にだってあります。仲良しな時も不仲な時もあって当然です。今までじゃれあってきた分、殴り合いでもして喧嘩してきてください」 「……」 「若は鴬さんの一番近くにいた人間です。きっと、高校生が1人であそこへ行ったことも一理あるかと思いますよ。若頭なのに、オカンみたいなところあるじゃないですか。鴬さん限定で」 「僕限定、ね」 「はい。鴬さん限定です。世話役だったからとか抜きに大事にされてるんです」 「——そんなおべっか言ったって、昇進に口添えなんてしてやれないからね」  こうやって部下であり、大人である人間に諭される度、自身の相応で未熟な高校生だと痛感させられる。人間力までは一足飛びに行かないらしい。 「はい。分かってますから、早く行ってください」  これ以上の憎まれ口を叩く暇さえ、部下は惜しんでくれて先へと促す。  鴬は後ろ髪を引かれる思いに疑念を抱きつつ、エントランスでエレベーターの箱が降りてくるのを待つ仁作を追いかけた。今度は鴬が腕を取る。猪突猛進の心意気で、拒絶されても正面から立ち向かい、それに反抗していく所存だった。  仁作も鴬に気づいたらしく、鴬の華奢な腰を自身へ寄せて既に押していたボタンを連打する。  中層階について自宅のカードキーをかざそうと、胸ポケットを弄る仁作の後ろをついていくつもりで箱に留まっていたが、腰を掴まれたままの鴬はそれも敵わず、終始無言の仁作の隣にされるがままであった。 「来い」  一言だけ鴬に向けて投げかけられた——玄関に差し掛かったところで性急にドアを閉め、壁へ鴬を押しやる。  そして、自身の靴を脱ぎ、鴬の靴も乱雑に脱がせ捨て置いた。  「悪い」と端的な言葉だけを紡ぎながら、再度鴬を横抱きにして奥へ進む。あまりに冷淡で身を凍らせながら、逃げることだけは頭の片隅にも置かない。  さらには、自室である寝室に移動した仁作が鴬をベッドに投げる。鴬が思うよりも沈み込む体に身を任せて、目頭に温かい涙を溜めた顔を両腕でクロスして隠した。

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