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Act.3日向-1

 眠っていると、よく引き付けが起きる。寝ても寝ていない感覚で、別に夢を見ているわけでもないのに何かに襲われるような感じだ。  生まれてこの方、優の記憶にある中でもゆっくり眠れる時があっただろうか?いや、記憶にない。いつもふとした瞬間に目を覚ましたり、眠れなかったりする。だが昨夜は違った。  大地に連れられるまま、彼の家に行き、まるで絵に描いたような人間二人がいて、泊まるように言われたかと思うと、気が済むまでいてもいいと言われた。本当にお人よしで、馬鹿な奴だと思う。もしも優が悪い奴だったらどうするのだろうか?いや、もしそうなら大地は優を自宅に招いたりしなかっただろう。  何もかもが自分とは正反対で、日向に住む太陽のような住人。それが大地やスミレに対するイメージ。  今日もまた眠れないかもしれないと思いながら、優は用意された祖父が使っていた部屋に敷かれた布団に横になった。  周囲を囲む本の山。どれも古い本で、見たこともないようなタイトルや知らない作者でだった。興味がないと言ったらウソになる。少し気になるから読んでみたい気もしたが、これは全て大地の祖父のものだ。勝手に読んではいけないだろう。  呆然と暗がりの部屋を眺めていると、次第にうとうとしてきた。きっと眠りへと誘われるのだろうが、生憎と目を覚ますだろう。それを覚悟で優は目を閉じた。  やはり苦しい瞬間は襲ってきた。意識は現実になくてもわかる。目が開かないが、仄暗い深淵の中にいて、逃げても逃げても出口はない。 苦しい、助けて――  何度となく叫び続けた心の声だ。このまま目を覚ましたら気分的には楽なのに、目が覚める気配はしない。このまま朝まで苦しみが続くのかと思った。けど突然その苦しみから解放された。暖かな何かが優を包み込んでくるような感覚だ。  これは何だろう……――  何かはわからなくても、ただひたすらに暖かく、それまで苦しかったものがなくなり、呼吸が楽になっていった。  気が付くと朝日が部屋に入り込んできて目が覚めた。  周囲には見たことのない本の山。 「そうだ……俺、あいつの家にいるんだった……」  現状を思い出し、優は起き上がって部屋を出た。部屋を出ると冷たい廊下の板がギシッと音を鳴らした。そして台所からはふんわりと味噌汁の匂いが漂ってきた。 「あっ、優君おはよう」 「おはよう……ございます」  台所にはスミレがいた。スミレはニコッと笑うと「顔洗ってきなさい」と言ったので、優は洗面所に行き顔を洗って台所に戻った。 「お腹空いてるでしょ?すぐに用意するから」 「あ、あの……」 「あぁ、大地ならもう出勤しちゃってるからいないわよ」 「そうです……か……」  何だ、いないのかと少し寂しい感じもした。  スミレは白いごはんに味噌汁、厚焼き玉子に和え物、温かなお茶を出した。ちゃんとした朝ごはんなんてまともに食べた事がない。優にとっての食事は食べたい時に食べる。そして食べる物はコンビニの菓子パンだったりおにぎりだったりした。元々食の細い方で、昨日出された夕飯も若干多い方だった。  もちろん目の前に出された朝食も多い。だがそれに対して文句も言えないでいると、スミレは優の心を悟ったかのように言ってきた。 「もし多かったら残してもいいからね」 「い、いえ……全部食べます。いただき……ます」  スミレは「どうぞ」と言って、一緒に食事をすることになった。昨日もそうだが、今日だってこうして作られた料理を残すのは悪いと思った。それは作った人の目の前というのもあったが、食べてしまえばどんどんと食が進んだ。  これまでそんな事を一度も思った事はなかった。きっとスミレや大地の人柄が良すぎて、残すと申し訳ない、嫌な思いをさせたくないという感情があったからだろう。 「ねぇ優君。今日は何かする事ある?」 「いえ、別に……俺、今仕事休職中なんで」 「そう。ならよかった。買い物行くの手伝ってくれるかしら?」 「別に……いいですけど……」 「いつもは大地に重たい物とか任せるから、買い出しに行っても満足に買えなかったのよね」  楽しそうに言うスミレ。本当に休職中で、する事などなにもないので別に構わないと思った。  食事を終え、しばらく呆然としながら借りている部屋にいた。すると部屋の襖が開いたので、優は入ってきたスミレの方を見た。 「ここにある本、すごく古いものばかりでしょ?」 「あ、はい……」 「それにこれだけあるんだし落ち着かないでしょ?優君が好きそうな本もないし」 「そんな事ないです……これだけ古い書物だと、逆に気になるって言うか……」 「そう言ってくれると死んだおじいさんも喜ぶかもね。ここにあるものは勝手に読んでもいいからね」 「でも……」  戸惑う優の前に座ったスミレは、優の目を見て笑顔で言った。 「いいって言ったんだから、ここは素直にありがとうでいいのよ」 「はい……ありがとう、ございます」 「それでいいのよ。さ、買い物に行きましょう」  決して優を咎める事も、邪険にする事もない。けれど好意は素直に受け取るようにと悟してくれた。こんな風に扱われた事は今までなかった。これまで出会った人達は、優が何かする度に嫌悪と憎悪にも似たような目を向けていた。だから自分の意志を表示する事も、自らが何かする事も今まではなかったし、してはいけないのだと思った。  スミレはここにある本を読んでいいと言った。別に文学青年でもないのだが、する事もないので暇つぶしにはなるだろう。  人参ジャガイモ、玉ねぎに白菜……町の小さなスーパーにスミレと来た優は、目の前に並ぶ野菜の陳列に目を点にさせた。これまでスーパーに来たことがないどころか、こうして生の野菜を見る事も少なかった。 「人参ってこんな値段するんだ……」  聞く人が聞けば頭を打っているのかもしれないと思われる発言でも、優にとっては初めてこういったものの値段を目の当たりにしているのだから仕方ない事だ。 「優君。こっちこっち」  スミレに手招きされ、スーパーのかご片手に野菜コーナーや魚、お肉のコーナーなどを見て回った。 「優君は好きな食べ物とかあるかしら?」 「特にはないです」 「そう?なら今日はカレーにしましょうかね?丁度お肉も特売だし」  特売?スミレの言っている買い物用語がいまいち理解できなかった。だがお肉コーナーに行き、「100グラム150円」と書いてあるのを見て、あぁいつもより安いのかと納得した。とは言っても普段の値段がどれくらいなのかわからないので、どれほどお得なのかはわからないが。 「いやぁ、やっぱり男の人がいると助かるわね」  両手にエコバックを持ちながら言うスミレ。買ったものは重量のあるじゃがいもや玉ねぎなどの野菜や、カレーに使う肉、後はスミレが好きだと言う和菓子など数点を購入した。  もちろんスミレには軽いものを持たせ、優が重いものを持った。 「帰ったらお茶にして、買ってきたお菓子でも食べましょうかね」 「はい……」  自宅からスーパーまではバスで二十分の距離があり、帰りのバスから優は町並みを眺めた。町並みとは言っても、バス停一つ二つ過ぎると海沿いだ。  見える景色は昨日とは打って変わって澄み渡る青い瀬戸内の海だ。太陽の光が反射して水がキラキラと輝く。昨日雪が降っていたのもあって、海は少々荒れてはいたものの、綺麗な光景がそこにはあった。  それにしても何故昨日、自分はあの場所にいたのだろうか?と優は思った。 「ここは夏になると賑やかだけど、冬の今はとても静かで過ごしやすいのよ」  ぽつりとスミレはそう呟いた。 「大地は元々こっちの人間じゃないんだけど、小さい頃は両親と一緒に来ては、夏になる度海を見てははしゃいでたわ」 「えっ?」 「けど……大地がこっちで暮らすようになってから、大地は夏になっても絶対に海に入らなかったわ。それどころか海を見てもつまらなさそうな顔をしてね」 「あ、あの……ご両親は?」 「大地の両親は神奈川にいるの。大地だけこっちに引き取られたのよ」  どうやら両親は存命のようだが、幼い大地をこっちに残して両親は今もあっちで暮らしている。もしかして大地は両親に捨てられたのか?そんな考えが頭に過ると、ふと昨日大地が言った言葉が蘇った。  僕も優君と同じだったから。他人を信用出来ず、自分が嫌いで、毎日が苦痛で仕方なかった―――  つまり大地は両親との間に確執があったということだろう。そう一人納得していると、スミレが話を続けてきた。 「大地はね、中学の時にいじめにあってたの」 「えっ?」 「頭のいい子だから、有名な私立中学に受験して、もちろん合格したけど、本人が思い描いていた学生生活とは違ったみたいよ」  あのお人よしが?と頭にいくつもの疑問が浮かんだ。 「元々気性の大人しい子で中学でも勉強を頑張ってはいたの。けど、そういう中学だから周りはみんな出来る子ばかりでしょ?どうも本人が努力しても追い付けなかったみたいで、それに輪をかけて静かすぎる子だから、周りの標的になったのよね」 「あぁ……そういうのなんとなくわかります」  本人の意思とは関係なく、人間はどうしても優劣をつけたがる。弱い人間を虐げる事で自分が上に立っていると思っている奴は五万といるし、思春期頃の子供なら特にそういう傾向が強い。 「それでも本人は頑張って、両親にもバレないようにしていたみたいだけど、ある事件をきっかけに大地は心を閉ざしたの。もちろん学校にも通える状態じゃなかったから、しばらく自宅療養してたのよ」 「ある事件って……?」 「そうね。傷害罪って言ったら一番わかりやすいわね」  その言葉を聞いてドクンと胸が高鳴った。 「大地の胸にはその時の傷がまだ残ってるの。本人は平気って言うけど、きっとそれを見る度に思い出しているかもね」 「まっ、待ってくれよ。あいつを傷つけた奴らはどうなったんですか?」 「何もなかったことになったわ」 「えっ?」  どうしてだ?傷を負った、あきらかに被害者である大地が被害届を出さなかったのか?それならそれで相当の馬鹿だ。そう結論づけたが、スミレはそうでない事を話した。 「加害者の子はね、某有名会社の息子さんだったりして、お金を払うから表には出さないで下さいって言ってきたのよ」  よくある金持ちの身勝手な理由だ。自分達の体裁大事で傷つけた者をないがしろにする。未成年とは言ってもあきらかな犯罪だ。それを金で解決するという話は聞いている方も気分が悪い。  聞けば大地の両親はもちろん納得していないらしかった。学校側も加害者の親から圧を掛けられているようで、大地の両親に穏便に済ませたいので、この件はなかった事にして下さいと言ったようだ。  時代が時代なだけにそう当時はそれでかたをつけていたようだが、今のご時世にそんな事をすれば大問題だ。  両親は負けるとわかっていても、裁判で訴える姿勢だったらしいが、大地が「もういい。疲れた」と両親に言ったようだ。両親は泣き崩れた。何も悪くない息子が一生残る傷を負わせられたのに、大地自身がそれを「もういい」の一言で片づけてしまった。 「まぁ、正直お金で全て解決されちゃうから、訴えたとしても無駄だったのよね」  しんみりと、当時の事を思い出したのか、スミレは目に涙を溜めながらそう呟いた。  金と権力――  優にとってもっとも嫌いな言葉だ。そして大地の言っていた同じの意味がようやくわかった。たしかに自分と大地は同じだ。これまで受けてきた傷の一部に、優も身に覚えがあったのだ。 「ごめんなさいね。突然こんな話して」 「い、いや……俺は逆にあいつが羨ましいかもしれないです」 「羨ましい?」 「はい……両親の事はよくわからないけど、スミレさんが支えてくれたから今のあいつがあるんですよね?俺にはそういう存在がいないから、羨ましいし、とても眩しく感じられる」 「人はみんながみんな酷い人ばかりじゃないわ。大地にとっては私だったかもしれないけど、優君にもそういう存在がいるわ。現に私や大地がいるのよ」 「……はい」  きっとスミレは「私達を信じて」と言いたかったのだろうが、あえてその言葉は口にしなかった。  今の優は二人には感謝しているが、信用と言うまでの存在には遠く及ばなかった。  こんな自分を助け出す人間なんてどこにもいない。  そればかりが脳裏にあった。

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