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第1話

 僕が大学の教育学部を卒業する間近、2月のある日。  尊敬する教授は、ホットココアのマグを片手に微笑み、こう言った。  ――お人好しでは教員はやれないよ。『優しい先生』というのは、時に、子供にとって猛毒になるもんだから  あの時はまだ、恩師の言った意味を分かっていなかったのだと思う。  ちゃんと理解していればよかった。  シャワーの水音を聞きながら、ほんの少しの後悔と、ただ優しくしてあげたい気持ちがある。 *  中学校教諭になって6年目。まもなく20代も終わり。  中堅と呼ばれる年代にさしかかり、課せられる責任も、それに付随するやり甲斐も、日々感じている。  土曜夜。新宿の大型書店で、閉店ギリギリまで粘ってしまった。  今月は豊作で、マニアックなSFが3冊、海外ミステリーが2冊……。  悩みに悩んで、とりあえず1冊買って駅前に出たのが、21:00過ぎ。  雑踏を歩いていたら、向こうから走ってきた人にぶつかった。 「わ! っすいません」  地味な、若い男の子だ。  表情は分からないが、ペコペコと何度か頭を下げて、走り去ろうとする。しかし。 「オラ、待てガキ!」  その後ろから、複数人の男の声が聞こえる。  追われているのかも知れない。  僕はとっさに少年の手首を掴んで、適当に目に入った家電量販店に逃げ込んだ。  エスカレーターを駆け上がって3階へ。  息切れを抑えてどうにか顔を見ると――教え子だった。  僕が担任を受け持つ3年2組の、塚原(つかはら)直貴(なおき)。 「塚原くん……?」 「あっ、き、木下(きのした)先生!?」  お互い驚いて、目を丸くしてしまう。 「どうしたの? カツアゲか何かに遭った?」 「いや……自分が悪いんで」  歯切れの悪い返事。  深く聞いてはいけないような雰囲気だったが、ともかく、こんな時間に中学生が繁華街を歩いているのはまずい。 「家まで送るから、帰ろう」 「……ひとりで大丈夫です」 「本当? 全然大丈夫そうに見えないけど」  目を泳がせる塚原くんの言葉を、じっと待つ。  彼は白旗を振るように目を伏せて、小さくため息をついた。 「うちの親、クズなんで。この時間に帰ったら顔が腫れるまで殴られます」 「え……」  頭の中で生徒調査票をパラパラとめくり、彼の家庭環境を思い出す。  共働きの一般家庭で、特に問題があるとは記憶していない。 「帰りが遅いと、その、体罰があるのかな?」 「いや、中途半端な時間なのがいけないんです。学校帰ってさっさと部屋にこもるか、帰るタイミングを逃したら、明け方まで外にいるか」 「どうして?」 「目に入ると鬱陶しいらしいです」  生活してる存在自体消さなきゃなんです、と、奥行きのない目でつぶやく。  僕は何と言っていいか分からず、咳払いをして話を変えた。 「さっき追いかけてきたのは? 知り合い?」 「えっと……顔見知り程度です。あの中のひとりの彼女さんの家に、たまに泊めてもらってて。って言っても、向こうは中学生がフラフラしてかわいそうだからって理由だし、俺はちゃんと彼氏持ちだって理解してるので、もちろんそういうことは何にもないんですけど……まあ、やっぱり怒られますよね。彼女さんにご飯ごちそうになってたら、鉢合わせちゃいました」  淡々とした口調なのがかえって、生存するのに必死なのだということを物語っているように思える。 「どうしようかな。マニュアルでは、警察か児童相談所で保護なんだけど……そんなことしたら、親御さんがまずいよね?」 「はい。2~3日後に俺が死んでたら、先生のせいです」  脅しでないことは分かった。  それに怯えている様子もない。  事実を告げただけ、という表情。 「じゃあまあ、とりあえずきょうはうちにおいで。あしたは休みだし、これからのことはゆっくり考えよう」 「先生の家、どこなんですか?」 「3駅先だから、すぐ近く。タクシー拾っちゃおうか。また追いかけられても嫌だし」 「いえ、電車で大丈夫です」  塚原くんはLINEを開き、何のためらいもなく、1番上になっていた女性をブロックした。

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