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第2話

 駅から15分ほど歩いたところにある、築古のマンション。  7月のじめっとした暑さの中歩くと、ややしんどい距離ではある。 「狭いけどどうぞ」  教え子を家に入れるなんて、変な気分だ。  でも、命の危機なのだから仕方ない。  塚原くんはしばらく玄関に突っ立っていたが、僕がもう一度「どうぞ?」と言うと、ぺこっと頭を下げて、部屋に入ってきた。  こんなにおどおどした子だっただろうか?  おとなしいタイプで、基本的に気の合う数人と過ごしているイメージではあったけれど、別に暗いわけでもないし、教室では普通のように見えた。  話しかければ受け答えもはっきりしているし、本当に普通の―― 「先生。あの、すいません。シャワー借りてもいいですか?」 「ああ、もちろん。服は適当に用意しておくから」  先ほど電車に乗って初めて気づいたのだが、塚原くんは頭からビールをかけられていて、後頭部から背中側がびしゃびしゃだった。  子供相手にひどいな、と思う。  女性がかばったら、余計に収拾がつかなくなったそうだ。  シャワーの音がやんだ。  しばらくして、だぼだぼのTシャツ姿の塚原くんが出てきた。  僕も入れ替わるようにシャワーを浴びる。  きょうは泊めるとして、その後どうするか。  虐待がある以上、やはりしかるべき機関と連携をとるべきなのだが、それが果たして彼の命を守る行動になるのかと考えると、判断が難しいところではあった。  養護施設に入れるにしたって、時間も手続きも必要だし、幼い子供の日常的な虐待とは違うから、親が拒否をすれば引きはがす権限はないだろう。  有力な答えが出ないまま上がると、塚原くんは髪を拭きながら、ちょっとだけ微笑んだ。  と言っても、楽しそうなわけではなく、安堵(あんど)。  少し泣きそうな顔に、『ほっとした』と書いてある。 「先生、お腹空いてませんか。俺、簡単なのなら作れます」 「いや、夕方ハンバーガー食べたから大丈夫。ありがとう」  こんな小さなやりとりで、泊まり慣れているんだろうなということを感じてしまい、胸が痛くなる。 「眠たかったら寝てね。ベッド使っていいから」 「先生は?」 「読みたい本を買ってきたところだから、一晩かけて読むよ」 「じゃあ俺、床で寝ます」 「ええ? それじゃあ来てもらった意味がない」  あははと笑ったら、塚原くんは泣きそうな顔でこちらにやってきて、僕の前で床にペタッと座った。 「……すいません、俺さっき、いっこ嘘つきました。泊めてくれてた女の人と何もないっていうの、あれ、嘘です」  僕は特に質問をすることもなく、続きを待つ。 「したいって言われたらします。言われなかったらしないですけど」 「求められたの?」 「はい……まあ」  小柄で華奢で、未成熟な体躯。  子供相手に悪趣味な、と思う。  でも同時に、この年頃なら、求められれば、好奇心や性欲のままにしてしまうだろうなとも思った。 「一応それ、淫交という犯罪だということは教えておくね。捕まるのは相手で、君は被害者になるわけだけど」 「……? 家の世話になってるのに、被害に遭ってるわけないですよ」  対価、か。  問題の根は深そうだと、心の中でため息をつく。 「あの、先生は何して欲しいですか?」 「え? 僕は特に何も。何かして欲しくて泊めるわけじゃないし。あ、でも強いて言うなら、辛くても頑張って学校には来て欲しいな。家に居場所がなくても、せめて学校では楽しく過ごそうよ」  実際、学校が彼の救いになるかどうかは分からないが、少なくとも僕は、生徒の味方でありたいと思う。 「違いますよ。して欲しいっていうのは、いま現在の話です。しかも俺じゃなくて、先生の話。先生が得することをしたい。でないと……俺、」  ひざを抱えて、こくっと首を傾げた。 「あたまおかしくなりそうです。何もなしに優しくされると」 「そんな、無理して笑わなくていいよ」 「ダメなんです。ただ優しくされたら泣いちゃうし、ほんとに発狂しちゃいます。して欲しいことないなら、なんか俺の嫌がるようなこととか言ってください」 「何それ、理由がないもん。できません」 「じゃあ俺、どうすればいいんですか?」  僕はため息をつき、鞄の中から買ってきた本を取り出した。 「じゃあ塚原くんが嫌がりそうなことをするよ。僕は本当にここで一晩本を読むから、君はベッドで寝てください。家主を部屋の隅に追いやる嫌な奴になって?」  塚原くんは何か言いたげに口をぱくぱくと開いたが、やがてあきらめたのか、何も言わずに布団に潜った。  僕は座椅子に座って、本を読み始める。  SF短編集にして良かった。  こんないたたまれない気分の夜にぴったりだ。  時刻は23:00過ぎ。  子供には、何の心配もなく、安心して寝て欲しい。  そう思ったのが記憶の最後で、いつの間にか、座った姿勢のまま眠っていたらしい。 「ん……っ」  妙な感覚で目が覚めると――塚原くんが、僕のズボンをずり下ろし、ペニスをペロペロと舐めていた。 「ちょ、……っと、え」  軽くパニックになっていると、塚原くんは大胆に根元まで口に含んで、じゅるっと音を立てて吸った。 「こら、ちょっと……ほんとに」 「先生、気持ちいい?」 「……っ」  思わず、手の甲で自分の口元を押さえる。  やめさせるより、呼吸を乱さないようにするのが優先項目だ。  ゆっくり息を吐きながら、やりすごそうとする。 「やめなさい」  足を閉じ、額をぐっと押すと、塚原くんの口が離れた。 「気持ちよくなかったですか? 下手でごめんなさい」 「そういうことじゃなくて」  勃ってしまっているそれを、無理やり下着におさめる。 「どうして急に……こんな……」 「やっぱり俺、条件なしで優しくされるのに慣れてなくて、耐えられなくて。落ち着かなくて全然眠れないし」 「こんな方法じゃなくても、いくらでもあるよ。感謝の気持ちを持つことはいいことだから、もっと別のことに……」 「先生」  彼の揺れる瞳を見て、2月の窓際を思い出した。  チラつく雪を背に、恩師はこう言ったのだ。  ――『優しい先生』というのは、時に、子供にとって猛毒になるもんだから  どうして、新宿の路上で気付かなかったのか。  僕はこの子に、猛毒を与えてしまったのではないだろうか。 「……ごめんね、塚原くん。君の気持ちを聞かないで、一方的に命令しちゃったのがいけなかったね。何を思っているのか、話を聞かせて欲しいな」 「先生に優しくして欲しいです」 「うん、それが本音なんだね」 「はい。先生はいままで出会った人の中で一番優しい」 「これからもっと、たくさんいると思うよ」  すりっと近寄ってきた。  少し警戒したが、先ほどのような妙な方向性ではなく、単純に甘えたいだけのように見える。  僕はそのまま受け入れることにした。  と言っても、自分からは何もしない。  なでてと言われればなでるし、抱きしめてと言われれば抱きしめるけれども。 「せんせい、一緒に寝たいです。変なことしないから」 「うん。いいよ」  毒を与えていないだろうか――

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