2 / 14
第2話
駅から15分ほど歩いたところにある、築古のマンション。
7月のじめっとした暑さの中歩くと、ややしんどい距離ではある。
「狭いけどどうぞ」
教え子を家に入れるなんて、変な気分だ。
でも、命の危機なのだから仕方ない。
塚原くんはしばらく玄関に突っ立っていたが、僕がもう一度「どうぞ?」と言うと、ぺこっと頭を下げて、部屋に入ってきた。
こんなにおどおどした子だっただろうか?
おとなしいタイプで、基本的に気の合う数人と過ごしているイメージではあったけれど、別に暗いわけでもないし、教室では普通のように見えた。
話しかければ受け答えもはっきりしているし、本当に普通の――
「先生。あの、すいません。シャワー借りてもいいですか?」
「ああ、もちろん。服は適当に用意しておくから」
先ほど電車に乗って初めて気づいたのだが、塚原くんは頭からビールをかけられていて、後頭部から背中側がびしゃびしゃだった。
子供相手にひどいな、と思う。
女性がかばったら、余計に収拾がつかなくなったそうだ。
シャワーの音がやんだ。
しばらくして、だぼだぼのTシャツ姿の塚原くんが出てきた。
僕も入れ替わるようにシャワーを浴びる。
きょうは泊めるとして、その後どうするか。
虐待がある以上、やはりしかるべき機関と連携をとるべきなのだが、それが果たして彼の命を守る行動になるのかと考えると、判断が難しいところではあった。
養護施設に入れるにしたって、時間も手続きも必要だし、幼い子供の日常的な虐待とは違うから、親が拒否をすれば引きはがす権限はないだろう。
有力な答えが出ないまま上がると、塚原くんは髪を拭きながら、ちょっとだけ微笑んだ。
と言っても、楽しそうなわけではなく、安堵 。
少し泣きそうな顔に、『ほっとした』と書いてある。
「先生、お腹空いてませんか。俺、簡単なのなら作れます」
「いや、夕方ハンバーガー食べたから大丈夫。ありがとう」
こんな小さなやりとりで、泊まり慣れているんだろうなということを感じてしまい、胸が痛くなる。
「眠たかったら寝てね。ベッド使っていいから」
「先生は?」
「読みたい本を買ってきたところだから、一晩かけて読むよ」
「じゃあ俺、床で寝ます」
「ええ? それじゃあ来てもらった意味がない」
あははと笑ったら、塚原くんは泣きそうな顔でこちらにやってきて、僕の前で床にペタッと座った。
「……すいません、俺さっき、いっこ嘘つきました。泊めてくれてた女の人と何もないっていうの、あれ、嘘です」
僕は特に質問をすることもなく、続きを待つ。
「したいって言われたらします。言われなかったらしないですけど」
「求められたの?」
「はい……まあ」
小柄で華奢で、未成熟な体躯。
子供相手に悪趣味な、と思う。
でも同時に、この年頃なら、求められれば、好奇心や性欲のままにしてしまうだろうなとも思った。
「一応それ、淫交という犯罪だということは教えておくね。捕まるのは相手で、君は被害者になるわけだけど」
「……? 家の世話になってるのに、被害に遭ってるわけないですよ」
対価、か。
問題の根は深そうだと、心の中でため息をつく。
「あの、先生は何して欲しいですか?」
「え? 僕は特に何も。何かして欲しくて泊めるわけじゃないし。あ、でも強いて言うなら、辛くても頑張って学校には来て欲しいな。家に居場所がなくても、せめて学校では楽しく過ごそうよ」
実際、学校が彼の救いになるかどうかは分からないが、少なくとも僕は、生徒の味方でありたいと思う。
「違いますよ。して欲しいっていうのは、いま現在の話です。しかも俺じゃなくて、先生の話。先生が得することをしたい。でないと……俺、」
ひざを抱えて、こくっと首を傾げた。
「あたまおかしくなりそうです。何もなしに優しくされると」
「そんな、無理して笑わなくていいよ」
「ダメなんです。ただ優しくされたら泣いちゃうし、ほんとに発狂しちゃいます。して欲しいことないなら、なんか俺の嫌がるようなこととか言ってください」
「何それ、理由がないもん。できません」
「じゃあ俺、どうすればいいんですか?」
僕はため息をつき、鞄の中から買ってきた本を取り出した。
「じゃあ塚原くんが嫌がりそうなことをするよ。僕は本当にここで一晩本を読むから、君はベッドで寝てください。家主を部屋の隅に追いやる嫌な奴になって?」
塚原くんは何か言いたげに口をぱくぱくと開いたが、やがてあきらめたのか、何も言わずに布団に潜った。
僕は座椅子に座って、本を読み始める。
SF短編集にして良かった。
こんないたたまれない気分の夜にぴったりだ。
時刻は23:00過ぎ。
子供には、何の心配もなく、安心して寝て欲しい。
そう思ったのが記憶の最後で、いつの間にか、座った姿勢のまま眠っていたらしい。
「ん……っ」
妙な感覚で目が覚めると――塚原くんが、僕のズボンをずり下ろし、ペニスをペロペロと舐めていた。
「ちょ、……っと、え」
軽くパニックになっていると、塚原くんは大胆に根元まで口に含んで、じゅるっと音を立てて吸った。
「こら、ちょっと……ほんとに」
「先生、気持ちいい?」
「……っ」
思わず、手の甲で自分の口元を押さえる。
やめさせるより、呼吸を乱さないようにするのが優先項目だ。
ゆっくり息を吐きながら、やりすごそうとする。
「やめなさい」
足を閉じ、額をぐっと押すと、塚原くんの口が離れた。
「気持ちよくなかったですか? 下手でごめんなさい」
「そういうことじゃなくて」
勃ってしまっているそれを、無理やり下着におさめる。
「どうして急に……こんな……」
「やっぱり俺、条件なしで優しくされるのに慣れてなくて、耐えられなくて。落ち着かなくて全然眠れないし」
「こんな方法じゃなくても、いくらでもあるよ。感謝の気持ちを持つことはいいことだから、もっと別のことに……」
「先生」
彼の揺れる瞳を見て、2月の窓際を思い出した。
チラつく雪を背に、恩師はこう言ったのだ。
――『優しい先生』というのは、時に、子供にとって猛毒になるもんだから
どうして、新宿の路上で気付かなかったのか。
僕はこの子に、猛毒を与えてしまったのではないだろうか。
「……ごめんね、塚原くん。君の気持ちを聞かないで、一方的に命令しちゃったのがいけなかったね。何を思っているのか、話を聞かせて欲しいな」
「先生に優しくして欲しいです」
「うん、それが本音なんだね」
「はい。先生はいままで出会った人の中で一番優しい」
「これからもっと、たくさんいると思うよ」
すりっと近寄ってきた。
少し警戒したが、先ほどのような妙な方向性ではなく、単純に甘えたいだけのように見える。
僕はそのまま受け入れることにした。
と言っても、自分からは何もしない。
なでてと言われればなでるし、抱きしめてと言われれば抱きしめるけれども。
「せんせい、一緒に寝たいです。変なことしないから」
「うん。いいよ」
毒を与えていないだろうか――
ともだちにシェアしよう!