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第10話
中学生活最後の夏休み。
直貴は毎日友達と集まって、ありもしない入試に向けて勉強し、思ってもいない将来の夢を語っていた。
僕は僕で、生徒と暮らしていることなどおくびにも出さないで、まもなく1ヶ月が経とうとしている。
歪ではあるが、やれる最大限のことはやっていて、それなりに幸せな毎日を送っている……と思う。
19:00すぎ。
学校での業務を終え帰宅すると、部屋の明かりはついているのに、直貴の気配がしなかった。
「……なおき? ただいま。いる?」
返事がない。
コンビニにでも行ったのかなと思い、スマホをポケットから探り出した瞬間。
トイレから、嗚咽とともに、バシャーッと派手に嘔吐する音がした。
慌てて扉を開けると、顔を腫らした直貴が、便座に頬をつけてぐったりしている。
「直貴!? しっかりして」
「……ぅ、」
もう一度嘔吐。
背中をさすり何度か吐かせると、直貴は息を切らしながら壁にもたれかかった。
「何があった?」
「……家に帰るタイミング間違えた。昼間、勉強道具置いてからこっち来ようと思ったら親がいて、ベランダに出されてた」
「え? 何時間そうしてたの?」
直貴は力なく首を横に振る。
「気付いたら倒れてて、親が家に入れてくれたけど起きるまで顔叩かれて、しばらく部屋で寝てたらマシになったから出てきた」
「水は? 飲んだ?」
「……のんでる、けど吐いちゃう」
どう見ても重度の熱中症だ。
一刻も早く病院へ連れて行くべきだが、親に連絡がいくとまずい。
とりあえず、玄関に放りっぱなしの鞄からスポーツドリンクを引っ張り出して、手渡す。
「吐いてもいいからこれ飲んで。ゆっくり、ちょっとずつ」
僕は手早く電話をかけた。
3コール。願いは届き、多忙すぎる相手が出た。
『もしもーし。なにー?』
「生徒が熱中症でずっと吐いてる。どうしたらいい?」
『は? バカ、救急車呼べ』
和泉 真宗 。
僕の高校時代の悪友で、現役の内科医だ。
「事情があって病院に連れて行けない。どうすればいい?」
『……冷やすもんあるか? 首と脇の下、太ももの付け根冷やして、空調は除湿でガンガン冷やして。無理に水は飲ませんな。すぐ行く』
通話がブツっと切れた。
愛車のシトロエンで飛ばしてきてくれれば、15分もせずに着くだろう。
「直貴、ちょっと頑張れる? 部屋に行こう」
「……また吐いちゃうかも」
「それならそれでいいから。体冷やさないと」
肩を貸し無理やり起き上がらせ、部屋の真ん中へ寝かせる。
申し訳程度の冷却シートを言われた箇所に貼り、うちわで仰いだ。
LEDライトの下でよく見ると、叩かれたであろう頬は結構腫れている。
冷却シートは使い切ってしまったので、ハンカチを濡らして当てた。
「誰かくるの……?」
「うん。僕の友達で、お医者さん。悪い奴だから、こんな虐待を知っても黙っててくれるよ」
直貴はほっとしたように目をつぶった。
早く、早く来てくれ。
祈っていると、10分ほどで、インターホンが連打された。
ドアを開けた瞬間、僕は片手で押しのけられ、和泉は一目散に患者の元へ。
額に手を当て、脈を測りながら、直貴の全身を観察した。
「自分の名前、分かる?」
「塚原直貴です」
「何歳?」
「もうすぐ15」
「これ指、何本に見える?」
「2本」
「意識は大丈夫そうだな」
そこでようやく和泉は僕の方へ振り返り、眉間にシワを寄せて尋ねた。
「病院連れてけないって、どういうことだ? ……ってまあ、見りゃ分かるけど」
直貴の顔の腫れと僕の性格を考えれば、5秒でお見通しだろう。
和泉はため息をつきつつ、鞄の中から氷嚢 を取り出す。
僕は頭を掻きながら答えた。
「受け持ってるクラスの子。家にいられなくて外フラついてる生活してたから、先月から保護してる」
「家族にはここは知られてないんだな?」
「うん。知ってるのは、校長と、児童相談所の担当者だけ」
「なんだ、完全バックアップか。良かった。捨て猫拾って勝手に育ててんのかと思ったわ」
真っ赤だった直貴の顔色が、少し落ち着いてきている。
僕はほっとしつつ尋ねた。
「点滴とか必要? やっぱり病院に連れて行ったほうがいいかな」
「様子見て、自力で経口補水液が飲めればとりあえず平気。でも、これ以上吐くようならうちに運ぶからな」
三軒茶屋で、祖父の代からの開業医。
本人は武者修行で大学病院勤務だが、当然、自宅に帰れば医療設備は整っている。
「あの……ごめんなさい」
「ん?」
おそるおそる謝罪を口にする直貴に、和泉はぐーっと近づいて言った。
「この世に患者が謝らなきゃいけない病は存在しません。見つけたらノーベル医学賞だな」
「えっと、治療費とか」
「ああ、お代? 自費診療3万円、きっちり焼肉で請求するから大丈夫。なあ、木下?」
和泉の毒舌は、優しさだ。
僕とは真逆で、本当に相手のためになることしか言わない……そういう人物だと思う。
先生、先生と慕われて。
「和泉、本当に助かったよ。ありがとう」
「いやお前、説明責任があんだぞ。どうせ今後も医者にはかかれないだろうから、主治医は俺。一からきっちり説明しろ」
僕は、自分たちの関係以外の全てを話した。
和泉は神妙な面持ちで話を聞いていたが、全てが済むと、うーんと言って腕を組んだ。
「卒業まで7ヶ月。隠しおおせるか?」
「……神のみぞ知る、かな」
「バカ、神も仏もアテになんねえっつうの。真剣に考えろ。きょうみたいなことがあって、親に連絡しなきゃいけないようなことになったら? 児相は前例どうのこうの言ったかも知んねえけど、それは結果論で何もなかったから言えるんだ。もし親が殴り込んできて、学校行政もろとも隠してましたってなったら、お前のクビも飛ぶし直貴だって危ない」
真正面からの正論だった。
何も答えられないでいる僕に、直貴はつぶやいた。
「……やっぱり俺、迷惑かけちゃうし、家に戻ります」
「え? ダメだよ。それで追い出されたら、またどこか知らない人のところへ行くんでしょ? 絶対にダメ」
「でもなんか、ほんと、色んな人に迷惑かけすぎだと思うから」
和泉は呆れたように、長いため息をつく。
「子供は心配するんじゃなくて安心すんのが仕事。んで木下、これ提案。逃げ込み先をひとつ増やすのはどうだ?」
「……というのは」
「ここがヤバそうな時は、うちに来な。俺がいるかは分かんないけど、愉快な親父と世話焼きのおふくろがいるから」
これはありがたい。
和泉なら信頼できるし、医者なら、そこにいる意味も自然で問題ない。
ご家族もいる。
僕なんかよりよっぽど『里親さん』らしいと思った――少し悲しいけれど。
「直貴、それでいい?」
「……はい、よろしくお願いします」
直貴が弱々しく言うと、和泉はにひひと笑い、手を差し出した。
直貴がその手を掴むと、和泉は背中を支えながら、ゆっくりと体を起こす。
経口補水液を受け取った直貴は、ほんの少し口に含んだ。
「俺あした非番だし、とりあえず落ち着くまで居るわ」
「焼肉、5万くらいにしようか?」
「直貴が元気になったらな」
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