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第5話 切り裂きジャックの愛しい弟子
アパルトマンに戻った後、ジャックは毒に詳しい医者を読んだ。
『蠱毒』である夏蝶は、普通の人間と同じようには治療ができない。毒持ちの体には、普通の人間に使う傷薬は効かないし、ジャックが持っている毒物の知識だけで毒抜きの禁断症状と傷の治療、どちらも行うことは不可能だ。
応急処置はしたものの、明らかに衰弱している夏蝶の姿は見ていて痛々しい。
「まいったな……」
クラレンス公のゲストハウスから彼を助け出した時、もし夏蝶がひところでも「殺して」と呟いたなら、ジャックは苦しまなくて済むように一瞬で息の根を止めてやっただろう。
弟子である彼を、囮に使ったのは自分だ。彼が苦痛のあまり死にたいと願うなら、それを叶えてやるのがせめてもの情けであろう、と。
だけど、夏蝶は自分に助けを求めた。たすけて、という彼の弱々しい悲鳴を聞いた時、何としても命を救わなければと思った。暗殺者が、人の命を救おうと願うとは。
「こんなことは初めてだ。困るよ、シア。俺はどうしたらいい」
夏蝶はただ、ぐったりとして浅い息を繰り返している。傷に障らない程度に少しずつ毒を飲ませて、何とか痙攣は治った。ただ、呼吸はさらに苦しげになったし、傷の痛みがひどいのか絶えずうなされている。
彼の冷え切った指先を握る。わずかながら、握り返す力がこもった。
暗殺者などをやっていれば、標的から命乞いをされることなどそう珍しくない。それでも殺す。それが仕事だからだ。命に対して非情であることが、ジャックの生き方だった。
切り裂きジャックの事件にしてもそうだ。妊婦だったメアリーの問題を悟らせないように、わざと他の遺体も子宮や膀胱など、下腹部の臓器を取り出した。暗殺者にとって、派手な殺しなど本来受けるべき仕事ではない。それでも、王家の暗部を担ってきた暗殺者として、粛々と依頼を遂行した。心など痛まなかった。そんな感情は存在していなかった。
クラレンス公の方が、まだ自分勝手に愛や欲望を語れるだけ人間的ではあっただろう。あの人でなしのろくでなしに、人間的感情を見るのもおかしな話ではあるが。
「この『顔のない男 』が、お前一人の命にうろたえるとはな」
暇つぶしの弟子。もうそんなことは言えないだろう。
認めなければいけない。この少年は、もう自分の弱点になってしまった。
夏蝶が苦しむことで、心を乱される自分を知ってしまった。
「だからお前には、強く生き延びてもらわなければ困る」
■
夏蝶が昏睡から目覚めたのは、それから一週間後のことだった。
ロンドンの霧よりも厚いもやがかかったような意識が、ゆっくりと鮮明さを取り戻していく。長い時間をかけて、自分の目に映っている部屋の天井が、ジャックと暮らすアパルトマンのものだと理解した。
「お師匠……さま」
自分の声が枯れている。身体が重い。
精一杯に力をこめると、やっと腕がもちあがった。包帯が巻かれている。定期的に巻き直しているのか、血の滲みもなく清潔だ。ゆっくりと首を動かしてみると、寝台の傍に置かれた椅子で、ジャックが腕を組んだまま眠っていた。何日か剃っていないような、無精髭だらけの顔。テーブルの上には、消毒薬やガーゼ、包帯、洗面桶にタオル、様々な薬品の瓶が並べられている。
もしかして、ずっと看病をしてくれていたのだろうか。
そう考えて、まさかと思った。『顔のない男』は冷酷な暗殺者だ。気まぐれで買い付けた弟子を助けてくれただけでもありがたいのに、看病までしてくれるなんて、そんな。
そう思うのに、その横顔から目を離せずにいた。居眠りをしているところなんて、初めて見た。
いつも、年齢や顔立ちの印象がよくわからないと思っていたのに、不思議と今はわかる気がする。
「三十代の前半かな……」
「正解だ。三十二歳だよ。よくわかったな。シアから見たらおじさんだね」
「……っ!」
独り言に返事をされて、夏蝶は驚いて息を飲んだ。あくび混じりに伸びをしたジャックは、夏蝶の額や頬を愛おしげに撫でる。
「ずいぶんと寝坊をしてくれたな、シア。お前は一週間も生死の境をさまよっていたんだよ」
「い、一週間……」
「ずいぶん元気になった。顔色も悪くないな。腹は減ったか? いきなり固形物は無理だろうから、ミルク粥でも作ろう」
鼻歌混じりにキッチンに立つ師匠の姿を見ながら、夏蝶は不思議な感覚に囚われていた。
ずっと、ずっと苦しいばかりの世界で生きてきた。やっと『壺』から出されても、待っているのは希望ではなかった。毒に冒された身体を持て余しながらただ無意味に生き延びるか、明日にでも死ぬか、どちらかの運命しか見えなかった。
それなのにこんな穏やかな日常があっていいのだろうか。こんな風に、誰かが作ってくれる食事を待っていてもいいのだろうか。
恐らく味のしないその食事を、待ち遠しく思っている自分が存在していいのだろうか。
やがて、器にミルク粥をたっぷりと入れたジャックがもどってきた。匙にすくった粥をわざわざ息を吹いて冷まして、口元に持ってこられた。
「ほら」
「え、あの……その、お師匠様」
「きちんと食べないと元気になれない」
「ええと……」
そこまでしてもらわなくても、いいような。
「口をあけなさい」
「……はい」
――どうして、こんなに甘やかされているのだろうか。
戸惑いが半分、恥ずかしさが半分になりながら、進められるままに粥を食べた。味は感じなかった。というより、味を感じるかどうかを、意識する余裕がなかった。
「包帯を替える。起き上がれるかい?」
「あ……はい」
ジャックの手を借りて、半身を起こす。鞭や棒で打たれた背中や腕の傷に、丁寧に薬を塗って包帯を巻きなおしていく。
寝込んでいる間に傷はかなり良くなっていたようで、動かなければさほど痛みは感じない。
それよりも、不可解なほどにジャックが自分に甘いことの方が気になる。
「あの、お師匠様」
「どうした? 傷がまだ痛むのか?」
「いえ、それは大丈夫なんですけど」
「まだお腹が減っているなら、粥のおかわりがあるよ」
「そうじゃなくて」
どうしよう。言っていいものだろうか。
夏蝶は混乱して、困惑していた。何せ、こんなにも人に優しくされたのは、初めてなのだ。
だけど無精ひげも剃らずに、いつものいまいち表情の読み取れないポーカーフェイスも忘れて、ひたすらかいがいしく世話を焼いてくるジャックを見ていると、なんだか背筋がむずむずとしてくる。
嫌なわけではない。むしろ嬉しい。どうしていいかわからない感情がぐるぐると渦巻いていて、最終的に夏蝶の口をついてでた言葉は。
「今日は僕を抱かないんですか?」
げほん、という大げさな咳が聞こえた。
「今、何と言ったかな、シア」
「えっと、抱かないのかな、と……」
「シア、お前は俺を何だと思っているんだ? まさか瀕死の弟子を相手に無体を働くような男だと思っていたのか? 意識がない間、ずっとお前にそうしていたとでも!?」
「だって、毒抜き……」
「お前、ここに来る前にどうやって毒の禁断症状を抑えていたか覚えているか? 口から飲ませればいいんだぞ? 普通にな? そりゃあ、お前が本当に死にかけていた間は、口移しするなりして無理やり飲ませていたが、別にセックスは必要ねえからな?」
「……お師匠様、もしかしてその口調が素ですか?」
「…………」
しばし、気まずい沈黙。
夏蝶にはわからなかった。一週間寝込んでいる間に、この『顔のない男』に何が起こったのか。今、目の前で赤面している頭を抱えている男は何者なのか。
だけど、ひとつだけわかったことがある。優しくされて、嬉しかった。この手に触れられて、切なくなった。彼がもたらしてくれたあの恐ろしいほどの快感が、この身の内側にないことが寂しくなった。
「お師匠様、抱いてくれませんか?」
「傷に障るよ」
「障らないように抱いてください」
「要求が多いね」
「今なら、これくらいのわがままを言っても許される気がしました」
ジャックの腕が、夏蝶を優しく抱き寄せる。唇がふさがれて、口の中に彼の舌が入り込んで、舌先でお互いの唾液を混ぜる。粥のミルクの後味が、ジャックの持っている毒とまざって舌先に少し痺れるような刺激を与えた。
「わがままだなんて、とんでもないよ。無茶だとは思うけれどね」
耳元でささやかれる声が、甘く感じた。果実よりも、菓子よりも、彼の声の方が甘い。
「力を入れると痛むだろう。楽にしていなさい」
「……はい」
素直に、されるがままに身を預けた。
少しの間していなかっただけなのに、彼の指が潤滑剤の油脂を纏って入ってくるだけで、圧迫感を感じる。最初にされた時は、熱で頭がぼんやりしていたから、気付かなかった。彼の指はこんなにも、太く、たくましかったのか。
「んあっ……!」
「楽にしていなさい、と言っただろう」
「でも、そこ……触られると……」
指が内側の気持ちよく感じるあたりを探っているから、どうしても身体に力が入ってしまう。ジャックの首に縋り付くように腕を回すと、上半身を持ち上げられた。
「もたれかかっていなさい」
本当に、背中の傷に響かないように、壊れ物でも扱うみたいにされている。それが嬉しくて、少しだけもどかしい。指だけでは全然足りない。
「お師匠様、中に挿入 れてください」
「加減できないかもしれない」
「僕が欲しいんです」
首に回した手に、力を込める。
「ください」
「お前は本当に、俺を困惑させてくれるな」
尻のあわいを手でつかまれてゆっくり腰を沈めていかれると、待ち望んだかれのものが自分の内側に少しずつ入ってくる感触が驚くほどリアルに感じられた。指だけでもその圧迫感に驚かされていたのに、比べ物にならないほどの質量が自分の中に納まっていくのがわかる。「……ぅ、ぁぁあ……」
ぞくぞくと背筋に、寒気が走った。いや、違う。これは快感だ。
彼に与えられた快感を思い出した身体が、悦楽に打ち震えている。生理的な涙があふれ、息すら一瞬止まってはくはくと魚のように空気を食んだ。
奥まで、彼に貫かれている。もどかしいほどゆっくりと、ゆるゆると腰を動かされて、熱い吐息が漏れた。
気持ち良くて、もどかしくて、自分で動きたいくらいなのに腰から力が抜けてしまってそれもかなわない。
いつもあんなに激しく奥まで貫かれていたのに、緩やかにもたらされる快楽はひたすら甘く、激しくされるときとは全く違う感覚で夏蝶の身体を翻弄している。
「あっ、あぁ……んっ、はっ、そこ……ばっか……」
「お前がどこに触れられるのが好きか、俺はじゅうぶん知っているさ」
一番悦 く感じる場所を、ひたすら彼のもので擦られている。あまりにもゆっくり、時間をかけてそこを溶かされているから、ますます腰から力が抜ける。彼に抱えられて、揺すられて、高まっていく快楽の波に身をゆだねているだけ。深く、浅く、気持ちがいいところだけをひたすら責められ続けているのだから、たまらない。
イキそうなのに、なかなか絶頂まで辿りつけなかった。ジャックに抱かれる時は、乱暴なくらいの快楽に意識を飛ばされてばかりいたから、なおさら困惑が深くなる。
いつになったらのぼりつめられるのかわからない快感の奔流は、恐怖ですらあった。
「イキたいか?」
まるで心の内側を見透かしたように、ジャックの含み笑い混じりの声が耳元に落ちてくる。首につかまったまま、必死で頷いた。このまま焦らされたら、気が狂いそうだ。
「実は俺も、そろそろ限界なんだ」
ずぷり、と。
一気に奥深くまで、突かれた。
「あっ、ああっ……! ――……っ!?」
声にすらならない。一瞬で頭の中が真っ白になった。
あまりの快楽に、身体がガクガクと震えて止まらない。彼の精が中に吐きだされていく、その感触すらも全て、あまりにも気持ちが良すぎる。
気が付けば夏蝶も、自分の身体を抱き留めているジャックの腹の上に吐精していた。彼のシャツを汚している。反射的に腰を引こうとしたのに、強く抱き寄せられた。
「あっ、やら、ししょ……っ、と、とまらな……っ、ああっ!」
「好きなだけ汚せばいい」
壊れたみたいに、お互いの腹を汚して快楽を吐きだした。射精が終わっても、ジャックのものが自分の中から出て行った後も、快楽の余韻はしばらく夏蝶から正常な思考を奪った。
呆然としながら果てている間に、いつのまに身体を拭かれていた。汚れた部分の包帯も、ジャックが取り替えている。
「……しばらく呆けてたな。だけど、気絶しなくなったのは成長か?」
弟子として、成長するべきところはそこではない気がする。
だけど、かいがいしく世話をやいてくれるジャックに甘えることにした。まだ体力ももどっていないうちにこんなことをしたから、疲れて泥のように眠い。
「傷が治ったら、ナイフの使い方を教えよう。毒なんか使わなくても戦えるようにならないと」
「……でも、あのナイフは取られてしまって」
「回収したよ。安心しなさい。それと、今回お前を助けるために、公爵に手を出してしまったからね。しばらくは王室の言いなりになるしかなさそうだ」
そこまで眠気の中でぼんやりと聞いていた夏蝶は、ハッとして起き上がった。それと共に、傷の痛みにうめいて崩れ落ちた。
「せっかく傷に障らないように優しく抱いたのに、お前が自分で傷口を広げてどうするんだ」
「だって、お師匠様、公爵に手出ししたって」
「殺したよ。許可は得た。俺だって、しぶられた分だけお前を助けるのが遅れて、散々な思いをしたんだ。文句を言われる筋合いはない。向こうだって、許可をしたのは結局厄介払いをしたかったからだよ」
爵位持ちを、それも公爵を殺して平然としているのだから、やはり『顔のない男』は根っからの暗殺者なのだ。
だけど、夏蝶だって迷わずに人を殺した。あの時、ジャックを侮辱されたというただそれだけの理由で、迷うことなく己の身体に流れる毒を使った。
案外、この人と自分は同類なのかもしれない。毒持ちとかそういう以前のところで。
「蝶の羽は、確かに生まれてからずっと少しずつ削れて脆くなる。でも、彼らは死ぬ寸前まであの大きな翅で空を飛ぶ力を失わない。蝶はお前が思っているよりも力強い生き物だよ、シア」
その言葉を、夏蝶は生涯忘れることはないだろう。
ただ身体が削れて死ぬだけの存在ではない。生きてもいい。生きるためにナイフを手に取り、生きるために時に毒を使う。それでいい。そういう風に、『蠱毒』は生きるべきだ。
そしていつかは、この人の背中を守れたらいい。
十九世紀英国。ロンドンの片隅。
不思議と顔の印象が残らない金髪碧眼の紳士と、美しい青みがかった瞳の少年は、生きていく。明日誰かの命を奪うかもしれない手を重ねあわせて、今日を生きていく。
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