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第4話 死にぞこないの蝶

 ふと気が付くと、夏蝶は見知らぬ部屋に転がっていた。  買い物を終えて、少しだけ先も歩いてみようかと思ったのは覚えている。人が少ない路地に来て、何もなさそうだから引き返そうと踵を返した。――そこで、何者かに襲われた。  そして、今何もない部屋で両手足を縛りあげられて転がされている。  あれからどれくらい経ったのかもわからない。  暗殺者は、いつ命を狙われてもおかしくない。ジャックはそう言った。  夏蝶はまだ暗殺者とは言えないが、ジャックを知る誰かが夏蝶を使ってジャックをおびき出そうとしているのかもしれない。 (きっと、お師匠様は来ない)  プロの暗殺者だ。夏蝶を助けに来るメリットより、デメリットの方が多いことをよく理解しているだろう。  金で買った暇つぶしの弟子。ただ抱き心地が良かっただけの愛妾。  あんなに毎晩抱きつぶされていたのに、あの驚くほどに印象が薄い彼の表情が、声音が、少しも思い出せない。夏蝶にとってもその程度のものだったのだろう。  ――本当に、そうだろうか。  期待するな、と何度も言い聞かせているのに、心のどこかで助けに来てくれるのではないかと考えている自分がいる。わざわざ蝶の彫り物をしたナイフまで持たせてくれた。  夏蝶は『蠱毒』だ。ナイフを使うよりも、自分の血や涙、唾液、体液を使った方がよほど暗殺には役立つ。そういう風に育てられた。  毒の濃度を上げるために、神経がおかしくなって味がわからなくなっても毒物を食べさせられ続けた。ストレスと毒の作用で髪は全て白髪になった。色事を教え込むにも、人間では毒で死んでしまうからと、木の張り型や盛った動物に無理やり犯された。  毒で死んでしまった、自分を蹂躙した獣の痙攣する遺体を見て、どうしてこんな場所に自分はいるのだろうと何度も運命を呪った。  獣との交合を嫌がれば、仕置きに『毒抜き部屋』に入れられた。毒に慣らされた身体は、毒を抜かれると絶叫しそうなほどの苦痛に見舞われる。高熱、痙攣、嘔吐が続き、全身の痛みに夜も眠れず、いっそ殺してくれと泣き叫んだ。だけど、死ぬか死なないかのギリギリのところで連れ戻されて、口に無理やり毒物を押し込まれた。死にたいのに、死ねない身体になっていた。  先に死ねた仲間が羨ましかった。毒物には完全に適合できず、常に身体は熱と痛みで怠く重く、死にぞこないだからと『夏蝶』の名前を与えられた時も、死にぞこないではなく早く死にたいと思っただけだった。  『壺』から出された時、ようやく解放されたのだと思った。同時に今更のように死ぬのが怖くなった。やっと出られたのに、この先には自分の死しか転がっていない。  だけど、今でも死にぞこないの蝶は生きている。夏蝶の命を繋いでくれた人がいる。 (お師匠様が、救ってくれた……)  気まぐれでも、抱き心地が良かったからでも、ジャックに救われた命なのだから、ジャックのために使う。せっかくのナイフは奪われてしまったけれど、自分にはまだ毒がある――。  その時、不意にドアが開いた。 「なんだ、起きているじゃないか」  ぞろぞろと、数人の男が入ってくる。先に来た屈強そうな男たちは軍人だろうか。その後ろから、茶色い髪を綺麗に撫でつけた身なりの良い男が入ったきた。貴族だろうか。 「あの『顔のない男』が大事に囲っていたというからどんな美人かと思えば、ただのアジア混ざりの子供だ。顔の造形は悪くないけれど、痩せていて貧相で……。これを使って性処理ができるかと言われても私は御免こうむるよ」  男の言葉に、取り巻きの軍人たちが下卑な笑い声をあげた。  自分のことはいい。どうでもいい。『蠱毒』は悪趣味な観賞物か、使い捨ての暗殺道具だ。本来ならば、性処理の道具にすらなれない。  ――だけど、ジャックを馬鹿にするのは許さない。  そんな感情が、自分の中にまだ残っていたことに驚いた。彼に与えられたのは、仮の名前とナイフ、生きていくための毒と快楽。  この期に及んで、自分の師匠であるジャックの顔が、声が、思い出せない。未だに少しも印象に残っていない。それでもこの身体を這う彼の手の感触や、奥を貫いていく熱、口づけの甘美さを一秒だって忘れたことがない。  軍人と思しき男の片方が、髪を掴んで夏蝶の顔を引き上げた。 「いやいや、顔だけならかわいいものですよ。これならヌけます。毒人間にナニを突っ込むのは俺も御免ですけどね」  再び、笑い声。笑い声。  その彼の喉笛を狙って、夏蝶は渾身の力でかみついた。 「……なっ!?」  驚きの声は、一瞬。  夏蝶は腹を蹴りあげられて、床に転がった。  転がった先で、軍人が泡を吹き、白目を剥いて痙攣をしながら、床をのたうちまわっているのを見た。夏蝶の体液は、普通の人間には毒だ。少しの唾液でも、血管から侵入すればあっという間に回る。 「……っ、けほっ、ぼ、僕は……ジャックの、弟子だ。お前らに、師匠を笑う権利なんて、ない」  腹の痛みに耐えながら、必死に強がった。  恐らく、彼らのまとめ役であろう貴族らしき男が命じるのを、夏蝶は涙の滲む目で見ていた。まるでおぞましい汚物を見るような眼差しを、睨み返す。 「この死にぞこないの『蠱毒』は、毒を使えないようにして痛めつけておけ。飲食物は与えなくていい。死んでも、ジャックへの見せしめくらいには使えるだろう」  それからのことはあまり覚えていない。  棒でたたかれ、鞭で打たれて、木の張り型を使って後ろを犯された。  大丈夫だ、これくらいなら慣れている。『壺』にいた頃はもっと苦しかったはずだ。  少し気持ちいいことを知ったからって、すでに知っている苦痛に耐えられなくなったわけではないはずだ。  そのはずなのに――心の中で、ずっと彼が早く来ますようにと願っている。  来なくていい。来なくてもいい。足手まといになるくらいなら、蠱毒らしく使い捨てされたい。嫌だ。死にたくない。会いたい。会いたい。  ――たすけて。  毒を摂取せずに、どれくらい経ったのだろう。  寒気が酷い。冷や汗が出る。吐き気は殴られたせいなのか、それとも。  全身が痛い。身体が自分の意思とは無関係に痙攣している。喉の奥からは絶えず苦痛の声が零れ落ちて、唾液も涙も何もかも垂れ流しになって床を汚した。  視界が真っ暗で、今自分が何をされているのかもわからない。ただ、絶望的な苦しみが身体の中で絶えず暴れまわっている。  どこかに、誰かにすがろうと、手を伸ばした気がする。  その手を、誰かがとった気がする。 「シア、すぐに終わらせるから、もう少しだけ頑張るんだよ」  ただ、優しく懐かしい声だけが、絶望の世界に優しいぬくもりをくれた。 ■ 「さて、俺の愛弟子をこんなことにしてくれた落とし前を、どうつけてくれるのでしょうか、クラレンス公」  ジャックがその部屋に辿りついた時、夏蝶は暴行と毒抜きの禁断症状で意識もあるかどうかわからない状態になっていた。  近くにぞんざいに転がっていた軍人の遺体を見るに、どうやら夏蝶はそれなりに抵抗を試みたようだ。その結果、酷く痛めつけられてしまったといったところか。  弱ったところに、毒抜きの禁断症状まで出ている。治療が必要だ。一刻も早く連れ出してやりたいところだが、犯人を野放しにもできない。 「クラレンス公よりも、もう一人の『切り裂きジャック』と呼んだ方がよろしいですか」 「いいや、私はジャックではないよ。君の名を広める手伝いはしたがね」  クラレンス公は、優雅に笑った。  女王の孫。公爵の位を持つ彼は、度々市井にお忍びででかけては、女や男を買いあさる悪癖があった。ジャックが依頼を受けて殺した娼婦たちは、全員クラレンス公の馴染みか、その娼婦と深いつながりにあった女。殺しの中でも一人だけ若く、妊娠していた二十五歳のメアリー・ケリーが彼の『本命』であったのだろう。 「俺は上客からあずかった仕事を忠実に果たしただけだ。暗殺者には似合わぬ仕事をさせてくれたな、クラレンス公。本来、依頼人の事情は深追いしない主義だが、今回ばかりは手を回した。王室は貴方の行いについて、今後一切の感知をしないそうだ」 「その言葉は、メアリーを殺す前に聞きたかったね。私はこれで、真剣に彼女を愛していたんだ。身分違いの許されぬ恋だとしても、彼女がひっそりと王家の落胤を生むことくらいは許されていいはずだろう。私が認知しなければいいだけの話だ」  つまり、彼は自分の愛していた女が子供を産んでも、その子供が曲がりなりにも王室の血を引いていても、娼婦たちの訴えを絵空事と斬り捨ててしまうつもりでいたということだ。  死を願うよりも残酷だ。愛をささやき、己の身分を明かして身の丈に合わない恋の炎を燃え上がらせておいて、自分には関係ないものとして知らぬふりをするつもりだったのだ。 「俺がいうのもどうかとは思うけれど、貴方もなかなかの人でなしだ」 「そういう君はずいぶんと無礼を働くのが好きなようだね」  公爵は酷薄な笑みを浮かべた。その笑みは、とても愛する女を失った者には見えなかった。  彼は王家に縛られることを憎みながら、しかし王家の寵愛を捨てることを惜しんだ。玩具をとりあげられて駄々をこね、とりあげたものを糾弾し、そして相手の所有物を奪ってめちゃくちゃにすることで溜飲を下げる。  暗殺者よりもよほどひどい、人でなしのろくでなしだ。 「さすがに許可を得るのは大変だった。しかし、貴方が『不審ではない死に方をする』分には、王家は問題ないと判断した。喜んでくれ。貴方は、恋人と同じ手で天国へと旅立つ」 「何を――」  彼の最期の言葉は、終わらないうちに溶けて消えた。  頸動脈を切り裂かれた公爵の身体は、血しぶきをまき散らしながら倒れて、少しの間痙攣した後、動かなくなった。 「処理屋には自殺の線で検死を。王家の公式発表では、病死ということにしてもらおう」  窓の外に話しかける。さっと一瞬だけ黒い影が動いて、姿を消した。 「さて、と」  血濡れのナイフは、捨てていく。後で処理屋が、クラレンス公の自害にみせかけて工作してくれるだろう。王家の息がかかっているから、警察は深追いをしないはずだ。そして、対外的には自死は聞こえがわるいので、クラレンス公は流行病でこの世を去ったという告知がなされることになる。実際がどうであっても、世間が邪推しようとも、死人に反論を唱える口はない。  それよりも、今は夏蝶のことだ。 「シア……、しっかりしろ」  夏蝶の拘束を解いて、抱きあげる。呼吸が浅い。ずっと痙攣と冷や汗がとまらない。苦痛を訴える呻き声が、途切れ途切れに喉の奥から溢れ出る。  そのかすれた、弱弱しいうめき声の中に、時折中国なまりの英語がまざった。  ししょう、たすけて。 「ああ、ちゃんと待っていたんだね。大丈夫、俺たちの家に帰ろう。遅れてすまなかった」  抱きしめる腕に、力を込める。  気まぐれに買った弟子。知り合いのチャイニーズから話を振られて、アジア人混ざりとは思えぬ青白い顔と、自分と同じ毒持ちの身体が何となく哀れになって、買い付けた少年。 「俺はお前のことを、思っていたよりもずっと気に入っていたらしい。それに、君は何も教えなくても軍人を一人屠ったんだ。弟子として見どころがある。簡単に死なせたりはしないよ」

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