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第3話 切り裂きジャックは二人いる

「シア・ティエはこの国の人間には発音しづらい。表向きの名前を別に考えよう」  夏蝶の白い髪を染め粉で黒くしながら、ジャックは急にそうのたまった。 「サマー・バタフライだと直訳すぎるし、人名っぽくないな。こう、適当に語呂合わせをするか。サム……サミュエル・バートンなんてどうだろう?」 「……いいですけど」 「どうでもいいですけど、の間違いじゃないか? そう言う顔をしている」 「実際、どうでもいいですし、それでいいです」  名前がいくつあったところで、使う機会が限られている。そもそも、夏蝶には未だに彼の『弟子』になったという実感はない。何も教えられてはいない。いや、教えられたことは一応あった。性行為による快感を、身体にこれでもかと言うほどに教え込まれた。  行為の最中に「シア」と耳元で甘く呼ぶその声を思い出して、そっと目をそらす。別に名前を呼ばれたいわけではない。呼ばれたいわけでは。 「これから、僕のことはサミュエルと呼ぶのですか……その、お師匠様」 「うーん、これまでシアと呼んできたからなぁ。あくまで、対外的に名乗る時の話さ。お前はチャイニーズといっても、欧米混じりのようだし、顔立ちもそこまでアジア人ぽくない。肌も白いし、純粋な英国人を名乗ってもさほど疑われることもないだろう。外ではサミュエルを名乗りなさい。愛称はサムかサミー」 「……わかりました」  ジャックはこれからも自分のことを「シア」と呼び続けるつもりでいるようだ。ほっとしたようなそうでもないような、複雑な気持ちだった。  外向けの名前を作ってもピンと来ないのは、買われてから今日に至るまで一切外に出る機会がなかったからだ。  『蠱毒』は毒を食べて、毒に身体を慣らし続ける。だから毒を抜いた状態では、正気を保てないほどの苦しみを味わう。自身も毒を持っているジャックが、口づけや性交で間接的に毒を与えて、正気を失わずに済むよう『適度に毒抜き』したのが今の夏蝶だ。  ようやく熱も下がり、夜毎に繰り返される激しい性行為に心身が疲れ切って寝込むこともなくなった。ゆえに、いつでも外を出歩けるようにと目立つ白髪を染められている。 「やっぱり、瞳の色が黒に近いから、金髪よりも黒髪が馴染むね」 「チャイニーズに見えません?」 「気にするほどにはそう見えないよ。黒系の髪も、アジア混じりも、ロンドンにはたくさんいる。お前は顔立ちが西洋人寄りだね。恐らく両親のどちらかがこちらの出身だったんだろう」  物心つく前に売り払われた夏蝶は、両親のことは出身どころか名前すらしらない。  それでもいいし、これからも知らなくてもいい。だけど青みを帯びているという自分の瞳がジャックに気に入られたのかと思うと、多少はありがたく思ってもいい気がした。 「僕は長く生きられないと思いますが」 「目の前にお前と同じ毒物漬けの人間がいるのだから、俺が生きている限りお前にも生きる可能性があるということだよ」 「お師匠様、ところで何歳なんですか?」 「何歳だと思う? 恐らく、シアからするともうおじさんではあるよ」  わからない。ジャックを見ても、未だに顔の印象がまとまらない。若くも見えるし老けても見える。二十代から四十代の間なら、何歳と言われても信じる。  夏蝶は『蠱毒』だから、成人するまでは恐らくいきられない。毒に慣れた人間であっても、毒にじわじわと冒されて死に至る運命には変わりがないのだ。何もしなくても、大半が成人を迎えることなく死ぬ。  でも、目の前にいるジャックを見ていると、この人なら無理やりにでも自分を生き延びさせそうな気もした。自分が生きる、というよりはジャックに生き延びさせられる、という方がしっくりくる。 「僕の毒抜きが終わったら、暗殺の方法を教えるつもりなんですか?」 「うーん、そうだね。せっかく取った弟子だから、教えないともったいないな」 「じゃあ、毎晩抱くのは……」 「それは続けるよ? シアは俺とは違って毒に完全に適合できてないから、半端に抜いたらまた寝込むと思うし」  あれは、弟子の健康管理のつもりだったのか。複雑な気持ちに駆られていると、後ろから笑いを噛み殺しているような声が聞こえてきた。 「それに、シアは」 「それに……?」 「下手な女よりも抱き心地がいいからね。毒持ち同士だから、遠慮無く中に出せるし」 「……最低だ」 「お前、それで命を繋いでいるんだって自覚はあるかい?」  たとえそうだとしても、あえてそこに言及しないでほしい。  そもそも、暗殺の道具にされてしまったのも、暗殺者に買われたのも夏蝶の意思ではない。夏蝶は苦しい思いをしないで済むなら、それでじゅうぶんだった。  一方で、彼との性行為に溺れている自覚もある。彼が与える刺激は夏蝶にとって未知の領域で、抱かれる度に自分を見失うほどによがり狂ってしまう。あまりに深く感じいってしまうから、ジャックは夏蝶が元から色情に狂っているのかと心配したほどだった。  実際のところ、その手のことは道具や動物を使って覚えさせられるが、快感を感じたのはジャックとの性交が初めてだった。その話をすると、ジャックは「動物かぁ」とため息をついて、殊更丁寧に、より深い快感を引き出すように抱くようになった。そこに同情してくれなくても良かった。  おかげで、毎晩夏蝶の心臓ははち切れそうになっている。毒で死ぬ前に、快感で狂って死にそうだ。だけど、彼の毒を分け与えられることで『毒抜き』の症状に耐えられているわけで、拒絶するわけにもいかない。 「シア、俺はお前のことを、これでかなり気に入っているんだ。そうじゃなければ、こんなに毎日丁寧に抱いてやったりはしないよ。大体、俺はその気になればいつだって一瞬でお前の喉笛を切ることができるんだ。面倒ならとっくにやっている」  『殺さないこと』を好意の傍証にするのは、いかがなものだろうか。 「いや、師匠である俺に言い返すだけの心の余裕がシアに出てきたのは、喜ばしいことだよ。最初なんて、本当に死にかけの虫みたいだった。ガリガリで、目に光がなくて、人の心なんて何一つ持っていなさそうだったからね」 「お師匠様は、変わることなく最初からずっと人でなしですね……」 「暗殺者に人間らしい情緒を期待するのはやめなさい」  たしなめるポイントはそこでいいのだろうか。人間らしさというものがどういうものなのかについては、夏蝶だって大したわかっていないのだから、問い詰めようがなかった。 「目立つ白髪を染めたということは、僕はもう外にでていいのでしょうか、お師匠様」 「個人的にはもう少し閉じ込めておきたいところだけど、それじゃあ身体が弱るし、何よりもシアにはロンドンに慣れてもらわないといけないからな。買い出しくらいはやってもらおうかな」 「わかりました。安心してください。育ちはアレですけど、店で買い物をする方法くらいは知っています。生活上必要な知識がまるでないと、それはそれで不便ですから」 「それはそうだね。他の体液に比べれば致死量ではないけれど、お前は汗も毒を含んでいる。手袋をあげよう。それと、念のため、護身用のナイフを用意した。持って行きなさい」  ジャックが放って寄越した、薄手の革手袋と小さなペティナイフを受け取る。ナイフはポケットにも入れられそうな大きさで、厚い革製のカバーから取り出してみると蝶の刻印がされていた。 「いつのまにこんなもの」 「必要だと思って」 「買いだしにですか?」 「暗殺者たるもの、自分の命は常に狙われていると思った方がいい。何せ恨みを買いやすい仕事だからね」  夏蝶はまだ暗殺の仕事をしていない。ナイフの使い方ひとつ教えられていない。今のところ師匠から学ばされたのは、味のしない食べ物でも噛み砕いて飲みこむ根性と、自分の性感帯だけだ。 「いいね、自分の与えたものを持っていると、弟子なんだなという気分が高まる」 「お師匠様の気分の問題でしたか」 「そうだよ、お前に与えるものは全て、俺の気分でできている」  やっぱり、この人には人らしい感情はない。およそ人らしい生活をしたことがない夏蝶ですらそう思うのだから、相当だ。  呆れ半分、納得半分のため息が漏れた。 「……買い出しに行ってきます」 「お金は多めに財布にいれておいたから、好きな菓子や果物を買ってきなさい」  ついでに言うと、子供に言い聞かせるような声音でそういうことを言い添えるのもやめてほしい。 ■  夏蝶が出て行った後、ジャックは数分、間を置いてから彼を追いかけた。  業界人の出入りするバーでは、すでにマスターの元までジャックの『買い物』の情報は回っていた。買いつけたチャイニーズに口止めしたわけではないから、これは当然だ。当初は、ジャックも夏蝶を買ったことを隠すつもりはなかった。  暇つぶしに買った子供だ。思いのほか気に入ったというだけで。  ただ、彼を買ったことでジャックに不利益を与えようという者がいるのなら、話は別だ。  『切り裂きジャック』はもう一人いる。実行犯であるジャックではなく、ジャックの犯行であることを知った上で、ジャックの存在を世間に知らしめた『自称ジャック』。新聞に手紙を送った主だ。  元々、ホワイトチャペルの件は秘密裏に進んでいた。娼婦が王族の子供を身ごもってしまったのだ。貧民窟に近いあの街で、王室の血を引く人間が興味半分に女を漁った上に孕ませたとなれば一大事である。  それだけなら、娼婦とその子供だけをひっそりと殺せばよかった。王室側の誤算は、王家の血を継ぐことになるその子供を、複数の娼婦がぐるになって認知を迫ってきたことだ。娼婦にも権利を。王族の子供を宿した彼女に、相応しい金と権力を。あわよくば彼女に取り入って、貧困にあえぐスラムから抜け出したい。そんな打算が彼女たちを大胆にした。  思わぬ方向に事態が大きくなったため、王室はなんとしても噂が広まる前に娼婦たちを始末しなければならなかった。あえて殺人鬼による派手な惨殺事件に仕立てたのは、事情を知る者には「余計なことを口にすればこうなる」という恐怖を与え、事情を知らない者には特別な恨みを持つ殺人鬼だと信じさせる効果を与える。  その効果を狙うだけなら、わざわざ新聞社に犯行声明文を送りつける必要などなかった。いくら普遍的で極めてありふれた名前とはいえ、ジャックの通り名を使う必要もない。  ジャックの犯行だと理解した上で手出ししてきたなら、間違いなく王族に絡む同業者、もしくは王室の血を引く誰かの差し金、ということになる。  ここまでくれば、夏蝶も安全とは言い難い。  ジャックは雑踏に紛れて、夏蝶を尾行する。弟子といっても、彼は毒物と化した肉体以外はただの少年でしかない。ナイフを持たせておいたが、本気でその筋の者に狙われたらなすすべもないだろう。 (撒き餌に使うようで、シアには悪いことをするが……)  果物を見て、夏蝶は機嫌よく笑っている。甘みだけは辛うじてわかる彼は、梨などの甘みが強い果物が好きだ。好きなだけ買えばいいと微笑ましく見守っていると、マーケットを抜けたあたりで夏蝶の姿が消えた。 (動いたか)  ジャックは静かに近場の建物の雨どいをつたってのぼり、屋根の上から夏蝶の現在地を確認する。この手の人間が人さらいに連れ込む路地は、全て頭の中に入っている。  口を塞がれて、手足を縛られ、男に担がれていく夏蝶の姿を屋根の上から追跡した。  霧の多いロンドン。昼間とはいえ曇天で薄暗く、屋根を行くジャックの姿に気付くものはいない。やがて夏蝶を抱えた男の姿は、メインロードの片隅にある小奇麗な一軒家の裏口に消えていった。  その家の前に、ジャックも降り立つ。 「まずいな、これは……。ここはさすがに、俺でも許可なく立ち入るわけにはいかない」  その場所は、王族の血を引く公爵家が所有する、ゲストハウスだった。  つまり、依頼主の関係者。王室とことを構えるのは不味い。ホワイトチャペルの殺人事件から一年、せっかく王室の頼みを聞いて大人しくしてきたというのに、ここで依頼人の信頼を損ねるのは悪手だ。この国において、王室以上の上客はいない。 「シア、迎えにいくまで少し時間がかかりそうだ」  ジャックは再び、屋根へと上がり、駆けていく。

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