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第2話 過ぎた毒は薬になる

 ジャックは英国王室の御用達暗殺者である。  どうやら自分の師匠になったらしい彼の自己紹介を改めて聞かされた時、夏蝶はきっとこの人お得意のジョークなのだろうと、考えていた。しかし、どうやらそうでもないらしい。 「一年ほど前におこった、切り裂きジャック事件を知っているかい? ホワイトチャペル・ロードで起きた、連続娼婦惨殺事件だ」 「知りません、僕は中国から売られてきたので……」 「ああ、そうだ。お前はチャイニーズだったね。欧州の血も入っているみたいだけど」 「僕は、そういう情報は、与えられませんでした」 「だろうね。お前が『蠱毒』だってことを忘れそうになるんだ。俺には効かないし、当面お前にその仕事をさせることもないから」  自分で買って来ておいて、夏蝶の唯一無二の価値である『蠱毒』のことを忘れるとは。  本当に、この人は夏蝶のことをその場の気まぐれで買ってきたのかもしれない。心なしか 疑わしき眼差しを向けたことに気が付いたのか、彼はくつくつと含み笑いをする。 「それで、切り裂きジャックがなんですか?」 「その切り裂きジャックが、この俺だという話だよ」 「暗殺者が目立ってどうするんですか」 「そこなんだ。あれはちょっとした王族関係者の尻拭いを兼ねていたから、特別に派手に見せたんだけどね、どうにも同業の不興を買っていたようだ。わざわざ秘密の暴露までつけて、勝手に我こそは切り裂きジャックだなんぞと俺の名前を振りまいたヤツがいる。暗殺者が名前を売られるなんて前代未聞だ。その辺にどこにでもいるからこその『顔のない男(ジャック)』が『切り裂きジャック(ジャック・ザ・リッパー)』のせいで有名になりすぎた」  ジャックという名前は、英国ではあまりにありふれた名前だった。だからこそ、この名前を使っていたのに、自分の受けた依頼で、自分の通り名が不本意な形で有名になりすぎた。  ゆえに、彼は夏蝶を買い付け、隠遁しているというわけだった。 「カネに困っていたわけでもないし、しばらくは仕事をしなくても問題はない。この機会に信頼できる相棒でも育ててみようかと思ったんだ」  その結果、怪しい中国人から毒殺用の子供を買い付ける。  なるほど、全く理屈がわからなかった。理屈はわからないけれど、ジャックは夏蝶を本当に弟子として育てるつもりらしい。死ぬ以外に用途のない子供を、だ。 「それ、味はする?」  パン粥の皿のフチをこつこつと指で叩く。 「ほとんどしない、です」 「うーん、昨日のはちみつ入りのミルクは美味しそうにしていたけど」 「甘みは少し、わかります」 「なるほど。牛乳は紅茶にも使うし、多めに買っておこう。甘みがわかるなら菓子や果物も買ってこようか」  ジャックは手帳にメモを書きつけている。それを何だか不思議な気持ちで眺めていた。  夏蝶は『蠱毒』として育ったから、普通の食事はほとんどしたことがない。一応、食事の仕方やマナーは習っているけれど、毒を食べ続けたせいで味覚がほとんど麻痺していた。 「お前を完全に毒抜きしてしまうと、それはそれでお前の暗殺者としての手札を奪うことになるしな。でも、食事が美味しくないのはよくない。ただでさえ、この国は産業革命以降、食の質がどんどん下がっているんだ。食事に関してはチャイニーズを見習ってほしいくらいだよ」  ジャックはこの国の食の貧しさについて、くどくどと夏蝶に愚痴ってくる。夏蝶は味がわからないので、何を食べても一緒だという感想しかない。  ただ、毒物を食べない生活と言うのが、慣れなくて少し怖い。 「お前の身体は毒に慣らされすぎて、逆に毒を摂取しないといられないようになっている。阿片中毒の患者と同じだな。だが、ここは『蠱毒』の巣ではないから、お前の毒断ちの禁断症状を抑えるための毒はあげないよ」  夏蝶の懸念はお見通しらしい。彼は夏蝶が残したパン粥を匙ですくうと、ほとんどむりやり口につっこんできた。もう熱くはないけれど、どろりとした感触だけが舌の上にあふれて反射的に吐きそうになる。のを、口を押えて飲みこまされた。 「食べないのはもっとダメだ。身体が作られない。毒のせいでずっと熱を出しているし、このままじゃ並みの子供よりも貧弱だ」  確かに、毒に適応したといっても、影響を全く受けないでいられるほどではない。そういう意味で、夏蝶はその名の通り「死にぞこない」であって『蠱毒』の仕上がりとしてはあまり質が良くない部類に入る。  育てるコストと時間の割に一級品ができあがることは稀な『蠱毒』であるから、死に損ないでもそこそこの値段にはなっていた。しかし、もし夏蝶が完全に毒に適応できていたら、売人もジャックには売らなかっただろう。恐らく、もっと良い買い手を探したはずだ。『蠱毒』の価値は希少さである。暗殺用としてよりも、観賞用としての需要の方が多い。  夏蝶には、自分の師匠になるらしいこの男の考えが、さっぱりわからない。  突然買われて、朦朧としているところを気絶するまで犯されて、そして今は何故か食育されている。本当に、何もわからない。 「毒がもう少し抜けたら、味覚も少しは戻るかもしれない。そうすれば毒草や毒虫よりかは美味しく感じるだろうから、それは残さずたべること。いいね」 「……はい」 「シア、俺は少し買い出しに行ってくるから、食べたら少し横になりなさい」 「…………はい」  優しく、頭を撫でられる。大きな手だ。痩せほそった自分とは比べ物にもならない。  確かに、食事は必要かもしれない。部屋を出ていくジャックの背中を眺めながら、パン粥をひとさじ口にふくんだ。やっぱり、何も味はしなかった。 ■ 「『顔のない男』が、道楽で毒物を買いつけたって?」 「話が早いな、マスター」  パブの片隅でシェリーのグラスを傾けながら、『顔のない男』はマスターと小声で会話をしている。ざわついた店内で、彼らの聞こえるかどうかギリギリの声音で交わされた会話を、耳ざとく聞きつけるものはいない。  もっとも、本気で同業にすら聞かれたくない会話であれば、こんな場所では会話すらしない。別に適切な場所はいくらでもある。だからこれは、あくまでジャックとこのパブでマスターをするこの男の、とりとめのない世間話だ。 「仕事を休んでいる間に、趣味でも持とうかと思った。マスター、頼んでおいたものは届いているかな」 「うちの店は食材屋ではないんだが」 「いいじゃないか。パブの食材を買い付けるついでに、俺の分も少し余分に買っておいて欲しいっていうだけだ。表を歩いたところで、俺に気付くやつはそうそういないだろうが、念のため一般人の店は避けているのさ」 「うちは食堂でもないからな」 「だからきちんと、酒を飲んでいる。いい客だろう。本当はかわいい毒物の元に、いち早く帰ってやりたいところだが、義理は通すよ」 「かわいい毒物、とはね」  マスターはため息をつきながら、もうひとつのグラスを置いた。ジンだ。 「頼んでいないぜ」 「飲め。奢りではない。毒物とののろけを聞かされた腹いせだ」 「心が狭い」  毒も効かないのに酒で酔う程繊細な身体ではないが、手間を少しかけただけでこの扱いはいただけない。 「俺はそれなりに君たちに貢献してきたつもりなんだけどね」 「だからこの程度のあてつけで済ましている。それでなければ、帰り道でお前を後ろから殴りつけているところだが、あいにく外では君の顔がわからなくてね」 「それは失敬、何せ『顔のない男』なもんでね。顔を覚えられていたところで、簡単に後ろを取られることもないと思うけれど、念のため帰り道は気を付けておこう」  これは――恐らく遠まわしな警告だ。『顔のない男』を探っている人間がいる。二杯目の代金は、情報料。格安だ。感謝しなければならない。 (さて、どうしたものか。シアはしばらく表に出せないな)  『顔のない男』は考える。  切り裂きジャックの事件は、本意ではなかった。派手な殺しは、本来暗殺の領域ではない。王室絡みから来た依頼だったので受けたが、不可解な点が多かった。殺しの相手は素人でも簡単に殺せるような、貧民街の娼婦だ。秘密を握られたところで、暗殺者を呼ぶほどではない。ましてや目立つように殺す必要などなかった。他に隠したい何かがあったのだ。  そして、ジャックの犯行であることを知りながら、『切り裂きジャック』の名で新聞社に手紙を送りつけ、無意味にジャックの名を広めた人間。その目的が見えない――。 ■  夏蝶は、熱に浮かされながら夢を見ていた。『蠱毒』の『壺』の中では、毎日誰かが放り込まれて、誰かが死んだ。行き場のない子供の中から、赤子や見目のよさそうな幼児が送りこまれる。  『壺』の中で死んだ人間は、バラバラにされて『毒肉』『毒の骨』『毒の血』などとして売り払われた。『蠱毒』になれるまで成長する者はほとんどなく、遺体の方が用途は多い。  皆、毒に苦しんで死んでいった。自分も苦しかった。幸せな時間など一秒もなかった。  だから――彼に身体の奥を穿たれていた時も、自分の中に生まれている熱い奔流が快楽であることをしばらく理解できなかった。  『蠱毒』の本来の使い道は、上手いこと相手の閨に連れ込ませて、接吻や性交の際に自分の毒に触れさせて相手を殺すことだ。だから当然、夏蝶にもその手の『仕込み』はされた。道具を使われたり、死んでもいい動物に犯させたりする。そこに快楽は存在せず、ただひたすらに苦痛しかない。やり方を身体の中に叩き込まれるだけだった。  性行為は、相手を殺す時だ。そしてその後に待っているのは死だ。暗殺者を生きて返すほど馬鹿なやつはいない。もし返されたところで、のこのこと戻ってくるような『蠱毒』は口封じに殺されて遺体の利用に回されるだけ。  あんな風に、身体の奥を熱でかき回されるような感覚は味わったことがない。  わからない。わからないことは怖い。死ぬ以外の選択肢がない世界に生きて来たのに、弟子として生きていけると思わない。  熱のせいだ。意識がまとまらない。殺す前に殺されるのと、殺した後に殺されるのと、鑑賞用にされた末に自分自身の毒で死ぬのが早いのか、どれが一番楽だろう。  不意に、ほおに温かい感触が触れた。その感触は、汗ばんだ額を拭って、首筋でしばらく脈をとったあと、ぽんぽん、と肩を叩く。  目を開いた。傍に、ジャックが座っていた。 「帰って……いたんですね……」 「ああ。さっきね。お前は調子が悪そうだ。毒を食べさせないでしばらく経ったからだな。しばらくは苦しいと思うけれど、我慢してくれ。ただ、少しだけ楽にさせてやることならできる 」  穏やかな声が耳に響いて心地よい。ぼんやりとした頭で彼の声を聞き流していると、口を塞がれた。息苦しくて開いた歯の隙間に、舌が入り込んでくる。唾液をかき混ぜるようにして、舌先が歯の裏側、舌先、頬の内側をくすぐっていく。唾液が混ざる濡れた音を聞くたびに、痺れるような甘美な快感が背筋を駆けた。 「……っ、は……ぁ」 「唾液まで毒物のお前は、こんな深い口づけはしたことがないだろう」  抱きすくめられて、耳元で囁く声が、熱と快楽の余韻をかき立てた。  身体の奥が疼く。こんな感覚は初めてだった。まるで彼のものを求めてしまっているみたいで、恥ずかしくなって顔をそらそうとする。だけど、それは許してもらえなかった。もう一度深い口づけで散々口の中を犯されたあと、力なく倒れた夏蝶の体をうつ伏せに寝台へと転がす。 「毒をもって毒を制す、という言葉があるね。お前の国の言葉だ。毒を解毒するために、毒を使うことはそう珍しいことじゃない。俺の毒は、お前の毒にとっては薬にもなる」 「……何を、するんですか?」 「何って、シア、言ったじゃないか。お前の毒をどうにかできるまで、俺は毎日でもお前を抱くよ」  笑いを含んだ軽い調子で、彼は前をくつろげていた。  昨日みたいに激しく抱かれたら、身体がいくつあっても足りない。嫌だ、と拒絶しようと思ったのに、先ほどの口づけの余韻がまだ残っているのか、手足には力が入らなかった。そうしているうちに腰を持ち上げられ、やや武骨な指が濡れた感触をまとって自分の中に侵入してくる。 「っ、ぁ、……ぁぁ……」  喉の奥から、掠れた嬌声が漏れる。 「なんだ、もう熟れた果実みたいにぐずぐずになっているじゃないか。口づけが気に入ったのか? それとも、昨日からずっと身体が求め続けているのか?」  違う、そんなことはない。あんな風に、快楽を教え込むように抱かれたことなんて一度もなくて、身体が混乱しているだけだ。そう言いたかったけど、指が中で動く度に甘い声と唾液がこぼれ落ちる。指先がシーツをかきむしる。 「答えは身体に聞いた方が良さそうだね」 「ひ、ぁ、ああぁっ⁉︎」  後ろから、腰だけを引っ張り上げるように抱えられて、一気に奥まで貫かれた。  正面から侵された時、もうこれ以上奥になんていかないと思っていたのに、さらに奥深くまで一気に中をえぐられた。 「あっ……あーっ、や、ああっ、ふか、深い……っ」 「そりゃあそうだよ、昨日より深く入る体位にしているんだから」  当然のように笑っているジャックの声を聞きながら、夏蝶はガクガクと身体を震わせて吐精した。まだ挿入されただけだ。動いてすらいないのに、達してしまった。 「お前、存外にイきやすいんだね。そんな快楽に弱くて、大丈夫なのかい? ……ああ、そうか。普通の人間なら、お前が快楽を感じる前に、毒にやられて死んでしまうんだったね」  呆れたような笑い声に、急に何故だか恥ずかしくなって身をよじる。今まで誰に何をされても、どうでもいいと思っていたのに、何故か急に自分の痴態を見られることがどうしようもなく恥ずかしくなったのだ。 「こら、逃げないで」 「ああっ、は、あぁ、あああぁっ、んんっ!」  逃げようともがく度に、腰を捕まえるてに引き寄せられて、奥の悦く感じる場所を強くえぐられる。浅い場所をしばらく焦らすように擦られたかと思えば、また一気に深く貫かれる。  幾度となく彼が与えてくる快楽に翻弄されて、最早自分の身体ではないかのようだった。 「……ぅあっ、はっ……んっ……」  身体中の熱が、彼の与える刺激に集まっていくような感覚がする。何度も精を吐き出しているのに、どんどん快楽が身体の奥から湧き上がってくる。背筋はずっとゾクゾクと寒気に近い感覚が激しく駆け回っていた。 「イ……イく……ぁ、無理……も、げんか……い……ぁ、ぁあ……」 「お前、やっぱり少し快楽に弱すぎない?」  意識がブラックアウトする寸前、半ば呆れたような彼の声を聞きながら夏蝶は密かに毒づいた。  誰のせいでこんなことになっていると思っているんだ、と。

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