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はじまりの交差点

 水に沸点があるように、60%以上が液体でできている人間にも、それはきっとあるに違いない。個体によって温度が異なるのか、それともだいたい似たようなものなのか。中には沸騰しない個体も存在するのかもしれない。  いとも簡単に沸点を超えてしまった男は、ときどき振り返ってこう思う。  ── もしも時間を巻き戻すことができるなら、いったいどの日をやり直せばいいのだろうか?  答えはいつも違っていて、実際のところどれが正しいかわからない。たとえわかったとしても、戻ることなどできないのだから、今更考えても無駄なのだ。それでも男の心の帰るところは過ぎ去った日々であり、何度も人生の分岐点について思いを巡らせる。  リゾートとしてまだ何とか体裁を保っている、イングランド南西部ブリストル海峡に面するこの街には、過ごしやすい夏季に内陸部や首都からの観光客が訪れる。しかし対岸にあるウェールズの首都カーディフ方向に細く突き出した半島は、ホリデイシーズンにも関わらず人影がない。タウンセンターから離れ、ビーチとして整備されているわけでもないので当然だった。  半島に向けて少年は自転車を漕いでいる。メキシコの湾流の影響を受けた湿っぽい風は滑らかな皮膚を嬲り、夕刻とはいえまだ高い八月の陽射しに、豊かな暗褐色の髪が明るい茶色に透けて見える。着古したシャツと色褪せたジーンズに包まれた伸びやかな肢体は、もう青年に近いといってもいい。  人目を引く容姿をしている。彼の美しさを羨む人々は少なくないだろう。けれどもせっかくの美貌が、彼を幸せにしているようには見えなかった。笑顔ひとつで爽やかな風を吹かせられるというのに、それを見ることは滅多にできない。  半島の根元にある、地元の人間にも忘れ去られた古い漁師小屋が少年のお気に入りの隠れ家だ。物心ついたときから変わりばえしない周囲の人々と離れ、唯一ひとりになれる場所。大人と子供の狭間で揺れ動く鬱屈を抱え、彼はときおりここへやってくる。  観光客を受け入れはしても外の世界を積極的に見ようとしない大人たちや、廃れ始めた観光業に終身的雇用の夢を見る幼馴染みたち。街の人口の半分くらいは、首都ロンドンさえ見ないでこの地で一生を終えていくのではあるまいか。彼にはそれが、ひどくつまらないことのように思える。  労働に明け暮れ、五、六年もすれば、幼なじみの誰かと結婚し、家庭を築くことになるのだろう。仕事が終わればパブに行き、祖父たち父親たちがしてきた噂話を固有名詞を変えて繰り返す。何人かの子供を作り、日曜日には教会に連れて行く。閉鎖的な人間関係の中で、先の見える人生を送る。自分の希望がどうであれ、それが周囲に期待されているまっとうな生き方だ。  それがある種の隷属に近いと気付いたときに、閉塞感は生まれてしまう。  保守的な人々には歓迎されない、少年が後ろ手に隠し持つ感情や欲望を、解放できる日は永遠に来ない気がした。    未来を変えてみたいと思う憧憬、違う世界に飛び込むことへの畏れ、ここではないどこかへ行きたいという衝動、そんなものがない混ぜになって、彼をかりそめの孤独へ駆り立てる。    珍しいことに、この日は先客がいた。少年がいつも自転車を停める小屋の裏に、ひっそりと隠れるように汚れが目立つ紺色のバンが停まっている。  まるで自分の部屋に、勝手に上がられたような嫌な感じがした。発情したカップルが忍び込んでいるのかもしれないと思い、少年は意地悪な気持ちになる。驚かせてせいぜい邪魔してやろうと思いながら、彼は足音を忍ばせて小屋に近づいていく。    汚れで曇った小さな窓から中を伺おうとしたとき、甲高い悲鳴が聞こえた。   連れ込まれていたのは、まだ小さい女の子だ。その細い首に大人の男が両手をかけていた。聞き分けのない我が子に、暴力的な父親が体罰を与えようとしている ── そんな場面にはとても見えない。庇護されるべきか弱い存在への犯罪が行われようとしている。   少年は足元に積まれた廃材を掴むと、思いきりガラス窓に叩きつけた。    夏の休暇を過ごしに遠くから訪れていたという女児の家族からは、ふと目を離したすきに居なくなった子供を救ったことで非常に感謝された。格闘の際に負傷した少年が手当てを受けていると、子供の父親と兄がやってきたのだ。  優しそうな紳士は少年の手をとり礼を述べ、洒落た見舞いのカードをくれた。少年より二つ三つ歳下であろう兄は、太っていて暗い顔つきをしているものの自分より賢そうに見える。少年が救った子供も、幼いながらも品格を漂わせていたように思う。  自分とは階級の異なる一家の長が膝をつき、感謝を述べるのだから、少年は誇らしさと同時に照れ臭さも感じた。そして腕に残った傷痕よりも、少年の心に深く刻まれたのは、あの一家が象徴する物事のほうだった。  労働階級と知的ホワイトカラーに属する者たちとの隔たりは、この国で育った者なら自然と意識する。生まれながらにして、少年が憧れる世界を現実のものとして手に入れている人々が存在することも知っている。階級は変えられなくても、ここを脱出できさえすれば少しは違った人生を送ることが可能なのではないか。都会ならチャンスは無限にあるように思える。うまくいけば、貧しさや不自由さから解放されるのではなかろうか。  紳士から手渡されたカードが新しい世界への切符のように思え、それは彼の脱出への決心を固めさせたのだ。  

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